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北条政子(小池栄子)と北条義時(小栗旬)|ドラマ公式サイトより

 『鎌倉殿の13人』、すごい最終回でしたね。冒頭、松本潤さん演じる(来年の大河の主人公)徳川家康が登場したことには驚かされました。

麒麟がくる』(風間俊介さんの家康)→『青天を衝け』(北大路欣也さんの家康)→『鎌倉殿の13人』(松本潤さんの家康)→『どうする家康』(松本潤さんの家康)というように、家康はなんと4年連続で大河に登場することになります。

 家康は源頼朝を尊敬しており、『吾妻鏡』の愛読者でしたから、にくい演出だったと思います。三谷幸喜さんの歴史コンテンツに対する感性はすばらしかったですね。正直なところ、北条政子と頼朝以外はメジャーとは言い難い鎌倉時代の人物ばかりが登場する『鎌倉殿』が成功するのか当初は疑問だったのですが、近年の大河ではナンバーワンの面白さと勢いを持続させたまま、最終回まで疾走しつづける稀有な作品となりました。登場人物の知名度が高ければ大河の評価も上がるというジンクスを、「官軍は必ず勝つ」というジンクスを打ち破った義時のように、三谷さんも乗り越えたわけです。

 しかし、その長い物語が、北条義時(小栗旬さん)を看取った政子(小池栄子さん)の嗚咽で終わるとは……。

『鎌倉殿』は、愛憎併せ持つ「きょうだい」の強い絆を描いた物語であると同時に、朝廷の実力者をも裁くだけの権力を得た、北条家の成り上がりの物語でもありました。

 最終回の終盤、まだ幼い先帝が周囲に担ぎ出され、復権されると厄介だということで暗殺を目論み、それを最後の仕事にしようと思っている義時は、これまでの中でもっとも深い“闇”に支配された表情を見せていた気がします。

 しかし、その義時の計画を知ってしまった政子は、弟の手をこれ以上罪で汚させまいと、発作を起こした彼に救命薬を与えませんでした。それでも義時は最後まで運命に抗い、床にこぼれた飲み薬を舐めようと這い、壮絶な生への執着を見せましたが、政子が袖で薬を拭き取ってしまうと、すべてを諦めたような表情に変わりました。“光のカリスマ”政子に“闇”の化身のような義時が浄化された瞬間といえるでしょうか……。

 前回のコラムでもお話したとおり、『吾妻鏡』に記された義時の死は、ドラマで描かれたようには劇的ではありません。

元仁元年(1224年)6月12日、義時は「脚気衝心(脚気による心臓発作)」を起こして倒れ、13日の寅の刻(午前4時)には死が避けられないと悟り、髪を下ろしています。そして、同日の巳の刻(午前10時)に死去しました。

 彼の葬儀には、多くの御家人たちが参列し、亡骸は故・頼朝の「法華堂」の東に位置する山の上に「墳墓」を作って葬られたとのことです。「法華堂」といっても、寺院が埋葬のために建てられたわけではなく、貴人が葬られた墳墓をそう呼びました。義時が「法華堂」でなく「墳墓」なのは、頼朝との身分差からでしょうか。

 義時正室ののえ(史実では「伊賀の方」)が、三浦義村(山本耕史さん)から入手した「アサの毒」を溶かした酒を義時に与え続け、彼を病死に至らしめたというのが『鎌倉殿』の設定でした。

のえを演じた菊地凛子さんですが、自分のことを見ようともしない夫への愛情が軽蔑や憎悪に反転したといった表情を演じた時、凄みのある美しさを見せつけていらっしゃいましたね。

 史実の義時にも、亡くなった頃から、妻に毒殺されたという説がありました。義時の死の直後、北条政子の命令で、義時未亡人の伊賀の方は謀反の罪で捕縛されています。この「伊賀氏の変」が起きてしまったことが、世間の人々にとって伊賀の方を(『吾妻鏡』では毒殺説を認めていませんが)、夫を毒殺する悪女として認定させるきっかけとなったような気がします。(1/3 P2はこちら

『鎌倉殿』とは違う? 死後に神格化された義時・政子と、汚名をかぶった伊賀の方
のえ(菊地凛子)と息子・北条政村(新原泰佑)|ドラマ公式サイトより

 『吾妻鏡』によると、伊賀の方は、実子・政村の執権就任と、娘婿で頼朝の遠縁にあたる一条実雅という公家を次の将軍に据えようと画策したとする2つの罪で捕縛され、伊豆で幽閉されました。

 もっともこの事件には別の見方があり、幕府の最高権力者である弟・義時を失い、その息子の泰時に権力が移ったことで自身の影響力の低下を憂えた政子が、泰時が重用し、影響力を増しつつあった政村と、その母方である伊賀家を取り潰そうとしたというのが実際のところではないかとも考えられています。

事件当時、政子は68歳という高齢に達していました。それでも「自分はまだまだ幕府のために働ける!」とアピールするため、伊賀の方に架空の罪をなすりつけようとした疑いは濃厚といえるでしょう。史実の政子は、『鎌倉殿』のような“光のカリスマ”ではなかったと思われます。

 伊賀の方は生没年共に不詳とされていますが、義時が亡くなった元仁元年(1224年)6月から約半年後、『吾妻鏡』によると「元仁元年 十二月二十四日条」に、「右京兆(義時)の後室の禅尼(伊賀の方)が十二日以降、重病で危篤」とあるので、しばらくして病死したのでしょうか。北条の血生臭い歴史を考えると、単なる病死ではなく、政子の命令で殺害(毒殺?)でもされたかのように思えてしまいます。

 あるいは、政子が愛する弟・義時を伊賀の方に「殺された」と信じ込み、“復讐”した可能性もありますね。

平均寿命が20代前半にとどまっていた鎌倉時代、当時68歳の政子は、現在の80歳前半くらいには相当するでしょう。つまり政子は当時の“超高齢者”で、そういう人々に時に起こりうる激しい思い込みをしてしまい、伊賀の方を恨んだのかもしれません。

 特に興味深いのは、「伊賀氏の変」という事件は、政子が伊賀の方を捕縛させたことによって起きたにもかかわらず、執権の北条泰時が「謀反は事実ではない」という立場を崩さず、伊賀の方の息子・政村(泰時にとっては異母弟)を重用し続けたことです。これはすなわち、「伊賀氏の変」は、権力を握り続けることに執着する“老害”政子によってでっち上げられたものにすぎないと、泰時ら次の世代の人々が見抜いていたということではないでしょうか。

 もっとも、泰時も伊賀の方を無実だと判断しているのなら、継母である彼女を助けてやればいいのですが、それはしていません。つまり泰時はまだそれができない立場にあった可能性があります。

あるいはそこまでの情がなかったか、もしくは助ける前に、政子が伊賀の方を伊豆に流された後も執拗につけ狙い、殺してしまったとも考えられます。

 これが事実だとしたら、承久3年(1221年)6月の「承久の乱」開戦時には御家人たちを奮い立たせるメッセージを発するほどのカリスマのあった政子ですが、義時が亡くなった元仁元年(1224年)6月までの約3年という短期間で一気に老け込んでしまったといえるでしょう。

 そんな政子がついに亡くなったのは、義時が亡くなったおよそ1年後の嘉禄元年(1225年)7月11日のことでした。享年69歳。6月には大江広元が亡くなっており、頼朝時代を知る実力者2人を幕府は立て続けに失ったことになります。なお、「伊賀氏の変」によって、伊賀の方以外の伊賀家のすべての人々は、政子の死後、復権を遂げました。(2/3 P3はこちら

『鎌倉殿』とは違う? 死後に神格化された義時・政子と、汚名をかぶった伊賀の方
北条政子(小池栄子)|ドラマ公式サイトより

 同時代の人々からは深刻な“老害”とみなされていた可能性のある晩年の政子ですが、鎌倉時代後期に編纂された『吾妻鏡』は彼女を“ゴッドマザー”として賛美しています。

 同書の記述によると「前漢の呂后(りょこう)に(政子は)同じくして、天下を執行せしめ給ひ、若しくは又、神功皇后再生せしめ、我が国の皇基を擁護せしめ給与か」とあり、現代語訳すると、「前漢の呂后と同様、政子は天下をお治めになった。あるいはまた神功皇后の生まれ変わりとして、わが国の根本を護られたであろうか」。政子と神功皇后を同一視しているのには驚かされます。確かに戦に勝利をもたらした女性という点では同じですが……。

 一方で「前漢の呂后」という部分は、若干の皮肉が感じられる気もします。世界史好きには有名な逸話ですが、呂后は劉邦が若い時に結婚した正室です。皇帝になるといっそう女癖が悪化した夫には振り向いてもらえず、恨みをつのらせました。劉邦が亡くなり、2人の息子が恵帝として即位すると、呂后は晩年の劉邦が特にかわいがった戚夫人を捕縛し、彼女の両手足を切断、舌を抜き、両眼をえぐりだすなどしてから、当時の便所に付属していた豚小屋に放り込み(人糞を餌として豚に与えていた)、その姿を息子(恵帝)に「これが人斑(ひとぶた)です」といって見せつけたとか。これを見せられた恵帝はノイローゼになり、酒浸りとなったそうです(司馬遷『史記』「呂后本紀」)。そんな悪女と政子は並べられているわけです。

 『吾妻鏡』を見るかぎり、史実の政子は自身の権力を守るためなら、わが子たちを切り捨てることもいとわなかった女です。しかし、中国史を代表する悪女の呂后に比べると、さすがに「日本三大悪女」の筆頭に挙げられる政子も、いくぶんマイルドに見えてくるから不思議ですね……。

 神格化といえば、同じようなことが義時の身にも起きました。生前は幕府と北条家の安泰のために数々のダークな仕事をこなし、後鳥羽上皇たち三人の上皇を流罪に処したために「大罪人」といわれた義時ですが、彼の死後まもなく神格化がはじまり、『古事記』『日本書紀』において歴代の天皇に仕えた忠臣・武内宿禰(たけのうちのすくね)の生まれ変わりとして、鎌倉だけでなく、京都でも称賛されるようになりました。

 しかし、これは泰時の影響が大きいでしょう。ドラマ最終回では、泰時が武家社会の法律集にあたる「御成敗式目」の作成に取り掛かるシーンが出てきました。また、彼が善政を敷いたこともナレーションで語られましたが、人々から敬愛された泰時は、自分の父・義時をたいへん尊敬しているという態度を最後まで崩しませんでした。この泰時の態度が、世間に義時を神聖視させた主な理由ではないか、と筆者は考えます。

 政子、義時の神格化が進む一方、政子に(おそらく架空の)謀反の罪を被せられた伊賀の方の世評は下落しました。

 「承久の乱」終戦直後から、幕府による旧・上皇方の残党狩りがはじまり、嘉禄3年(1227年)、「承久の乱」の主要戦犯とされた「(二位法印)尊長」なる僧侶が泰時の手で捕まったのですが、彼は死刑される直前に、「伊賀の方が義時に飲ませた薬で私も殺せ」と叫んだそうです(『明月記』)。世間では毒殺説が信じられていたことがうかがえる逸話ですが、こうした逸話が残ったがゆえに、『吾妻鏡』には一行も記されてもいない伊賀の方による義時毒殺説は現代まで生き残り、『鎌倉殿』にも採用されることになったといえるかもしれません。

 こうして見ると、“新世代のカリスマ”である泰時は、彼の父・義時や、叔母の政子については(本人がどこまで自覚的だったかはさておき)名誉を挽回させたのに対し、継母・伊賀の方については具体的な行動を取っていないあたり、彼にとって伊賀の方はやはり“微妙”な存在だったのでしょうか。これは史料では確認できない話ではあるものの、義時ファミリーの秘められた家庭事情について想像してみたくなりますね。

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