はなと朝市が池に落ちた3話の最後、美輪さまが「はなと朝市の運命はいかに。
ごきげんよう、さようなら」と優雅な口調でナレーションするので、そんなに大変じゃないんだろうなあと思わせるようになっているのです。たぶん。
現に、大した話ではありませんでした。
つまり、朝市とはなは、幼なじみどまりということを語っているのでしょうか。
事前にアナウンスされているドラマ紹介で、既に未来の夫は別の人だとわかっているのです。切ない。
冒険の代償に、はなが高熱で苦しんでいるところへ、帰ってきたお父さんが、「医者には見せたのか!」と慌てて、医者のもとへつれていくという場面は、現代の感覚ではとぼけている印象を受けます。
明治の貧しい人たちは、医者にも見せることもなかなかできない状態だったのですね。
第2回では、お父さんが、はなをキリスト教の学校に通わせるため、洗礼させたいと言い出すとき、「(キリスト教の世界では)金持ちも貧乏人も平等だ」と希望を語り、第5回で、牧師は「まだ金持ちと貧乏人がいるのは厳然たる事実です」ときっぱり(ドラマ的にいうと「こぴっと」?)現実をつきつけます。
第2週「エーゴってなんずら?」は、富豪の娘だらけの女学校に入ったはなの日々が描かれるようです。
「花子とアン」は、人は想像力で、空腹や貧しさや苦しみから逃れることができるかという、想像力が命のドラマや小説などの創作に携わる者たち誰しもが考える命題になりそうな気がします。
最後に。
米光レビューにあった、アンの舞台・アヴォンリーのもじりの「阿母尋常小学校」のほか、はなを喜ばせる本がいっぱいの教會は「阿母里基督教會」でアヴォンリーまんま。ただ、甲府には阿母という地名はないようです。
さらに、「安東はな」は、名字がすでに「アン」なんですよね。あんどうはな。あんとはな。なんちて。
では「ごきげんよう、さようなら」(美輪さまの声でお読みください)。
(木俣冬)
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