はな(吉高由里子)の腹心の友になる蓮子(仲間由紀恵)の挑発的な台詞です(火曜26回)。
それを受けて、ナレーションの美輪明宏様が「ドキドキしていました、こういう危険な香りのする人に女の子は惹かれてしまうものなのです」とはなの心情を代弁します。
「花子とアン」は朝ドラですから、さわやかなものという先入観をもって見てしまうのですが、はなの暮らす閉ざされた女学校の世界はどこか倒錯的で、いけないものが密やかに存在している感じがあります。
ドラマの原案「アンのゆりかご」には、花子が、読んだ本にでて来る「罪」や「愛」という言葉の響きの美しさに、意味はわからないながら惹かれた(意訳)という記述もありますし、女の子だけの寄宿学校には、まさにその「罪」や「愛」が満載。とりわけ、4、5週には、それが詰まっていたと感じました。
禁断の扉を開けてしまったのは、蓮子です。
しかも、はなや蓮子が挑む劇中劇は、禁じられた愛を描いた「ロミオとジュリエット」という絶妙なセレクトでした。
脚本家・中園ミホの確かな構成力と女性描写の濃密さが光る4、5週のあらすじを、まずはざっと振り返ります。
4週「嵐を呼ぶ転校生」(4月21〜26日)
24歳という、けっこう大人な蓮子さんが女学校に入学してきて、違和感を放ちます。ちょっとワルなところのある蓮子さんは、彼女のお世話係になったはなに「滋養のお薬」と嘘をついてお酒を飲ませて酔っぱらわせ、はなは退学の危機に瀕します。
5週「波乱の大文学会」(4月28日〜5月3日)
なんとか最悪の事態を回避して、文化祭で「ロミオとジュリエット」をやることになり、はなが脚本を担当、蓮子はジュリエットを演じることに。本番までにもめごとが多発しますが、最後は、「この日(大文学会の日)はふたりにとって生涯忘れられない記念日になりました」と美輪さまのナレーションで締められます。
桜舞う中、登場する蓮子さま(月曜19回)にはじまって、みどころがいっぱいありました。
蓮子は常に、あでやかなお着物姿で、楽しませてくれます。
はなは、お酒をたらふく飲んでベロンベロンに(火曜20回)。蓮子のことを「先輩」となれなれしく接するところなど、吉高由里子が酔っぱらい演技を生き生きやっています。
醍醐(高梨臨)が演じるロミオのりりしさ(火曜26回)。最初はジュリエット役でしたが、蓮子と交代して、そのほうが断然似合っていたのです。硬質な声がいいんですよね。
白鳥(近藤春菜)の白塗りジュリエット(木曜28回)。
あがり症のはなが、小間使いの役をやることになって、案の定本番で、ずっこけてしまう(土曜30回)。演技が下手な演技によって、吉高由里子のコメディエンヌの才能が大いに発揮された2週間でした。
蓮子さんの堂々たる舞台演技(土曜30回)。仲間由紀恵が、ジュリエットの衣装(オリビア・ハッセーがジュリエットを演じた映画の衣装に近い)を圧倒的に美しく着こなしていました。
朴念仁かと思われていた富山先生(ともさかりえ)の乙女な涙(土曜30回)にも心をつかまれました。
「ロミオとジュリエット」を、礼拝堂兼講堂になっている場所で、少女だけで演じる場面は、なんともいえないピュアな倒錯感が漂いまくります。
寄宿舎のある女学校という、閉ざされた空間の中の、女の子たちだけの密やかなあれこれ。醍醐が、はなと蓮子が接近していくことに嫉妬するところやロミオをやったことで後輩にモテだすことなどは、女子校ならではの描写。
厳しい規則があればあるほど、そこからはみ出してくる、いけないことがかぐわしいです。
美しい蓮子さんの反抗的な言動は、香りの強い花のようでした。
蓮子は、華族の出身ですが、正妻の子供ではないため、家族の愛を受けることなく生きてきました。蓮子の存在を世間から消そうと、女学校に「幽閉」した兄に復讐したくて、「あの人たちが大切にしている世間体をぶちこわしてやりたい」と考えます。
華やかな文化祭(大文学会)のお芝居の主役を演じて、自分の存在を消そうとしている家族に目にもの見せてやりたいと、蓮子はジュリエットとして表舞台に立ちます。
苦々しい気持ちで芝居を見ていたお兄さん(でも、見に来ているところにヒトの好さも感じますが)の背中にいたずらして、駆け出すはなと蓮子がかわいらしかったです。
はなは、どんなに蓮子にそっけなくされても、なぜだかわからないけどほっておくことができませんでした。なんだか惹かれてしまうのです。
貧しいけれど家族の愛を知っているはなと、お金はあるけれど家族の愛を知らない蓮子。
はなは、自分の名前「はな」を「花子」にしたいと、地道に努力(花子と呼んでと言い続けてるだけだけれど)していて、蓮子は、家の決めた自分の処遇に従わないような行動をとり続けています。
そんなふたりが、結果的に惹かれ合うのは無理もないことだったのでしょう。
はなのことを相手にしてなかった蓮子が、はなの書いた脚本に「感動した」と
言って、彼女の訳を積極的に取り入れたり、蓮子のアイデアをはなが脚本に取り入れたりするエピソードにはわくわくしました。
こんなふうに、女の友情が手厚く描かれた4、5週ですが、男の友情も少し出てきます。
月曜25回、川辺で、「甲府の若者たちはそれぞれの将来を模索していました」というシーン。教師になろうと決めた朝市(窪田正孝)と兵隊になって家族の役に立ちたいと考える吉太郎(賀来賢人)。どちらも貧しい家に生まれ、やれることは限られています。そんな中で、必死で自分たちの最善な生き方を模索しようとする表情に打たれました。ここ、名シーンだったと思います。
吉太郎の心を動かしたのは、甲府に軍隊がやってきたこと。
戦争の足音(軍隊の規則正しい靴音)が聞こえてきています。
4週の最後、土曜24回、「軍隊がやってきたことで、人々の運命が変わっていくのでした」と言う美輪様のナレーションのあとの「ごきげんようさようなら」は、いつものトーンと違って、少し影があるように聞こえました。
このドラマの本筋と、劇中劇「ロミオとジュリエット」は不思議に呼応している気がします。
「ロミジュリ」は、敵対する家の子供たちが恋をしてしまう悲劇。家の体面が恋人たちを引き裂いてしまうことを、「バラ」をたとえにして批判する台詞は、金城一紀の「GO」にも引用されている有名なものですが、ドラマの中でもエピソード化されていました。
はなは、「バラと呼ばれる花を別の名で呼んでも、甘い香りに変わりはない」という台詞を、「もしバラがあざみやキャベツというなまえだったら同じように香らないのではないでしょうか。名前は大事なものです」と訳して、意味が「前より意味が深まって聞こえます」と蓮子に肯定されます。
そうか? ほんとうにそうなのか? と問いただしたくもなりますが、はなの若気の至り感が出ていて良いのかもしれません。
とまあ、この名台詞を使ったエピも手堅い上に、注目すべきは、「ロミジュリ」の中で命を落とすのは若者ばかりだということです。これ、シェイクスピアの翻訳で有名な松岡和子が訳書のあとがきで指摘しています。「ロミジュリ」は家にこだわる大人たちは生き残るという皮肉めいたお話なのです。
「花子とアン」の物語の中で戦争が近づいてきていることと、「ロミオとジュリエット」で描かれている、大人の喧嘩の犠牲に子供たちがなることが、さりげなく関係あるように思えて、ドキリとするのでした。
6週は「腹心の友」。はなと蓮子の運命が)どうなっていくのか、気になります。朝市と吉太郎の運命も。
(木俣冬)
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