『Dr.スランプ』でDr.マシリトのモデルとなった鳥嶋和彦。
そんな中でも、とくに懐かしく印象深いマンガ俳優が、70年代のメガヒット作『トイレット博士』でスナミ先生のモデルとなった角南攻(すなみおさむ)だ。
スナミ先生とは、主人公の一郎太が通う小学校の担任教師だ。天然パーマのチリチリ頭で、ひげ剃り跡も青々と残り、目はパッチリまつげも長い。子供たちにも負けないバイタリティと、いたずらっ子のような笑顔。
本書『メタクソ編集王』は、そんなスナミちゃんの編集者生活45年間を振り返った「編集バカ一代記」である。
スナミちゃんは1944年、すなわち終戦の前年に愛知県名古屋市で生まれた。豪農の家だったというが、敗戦後の農地改革で土地を没収され、家は没落してしまう。
子供の頃のスナミちゃんは身体が弱く、学校を休みがちだったが、幸い文化的に恵まれた家だったので、本や映画、ラジオなどに好きなだけ接することができた。
この時代は「少年画報」(少年画報社)、「漫画王」「冒険王」(ともに秋田書店)の三誌が子供たちの間で人気を集めていたが、スナミちゃんが愛読していたのは「おもしろブック」(集英社)だった。のちに大学を卒業して就職活動をする際に、いくつもの出版社の中から最終的に集英社を選んだのは、こんなところに理由がある。
大学は、京都大学を狙って三度受験するが、三度とも失敗。とはいえ三度目ではあと4点足りなかっただけだというのだから、たいしたものだ。結局、滑り止めの早稲田大学へ進学する。
大学時代は、驚くほどの行動力をもって様々なイベントを企画、実行していった。
学園祭では喫茶店を出店。
早大闘争では、学年の闘争委員となり、新聞記事に写真が載ることもあった。反社会性やイデオロギーがどうのという以前に、興味のあることにはクビを突っ込まずにはおれない性格だったのだ。
4年間の大学生活を終えるころには、作文好きの血が騒いで、小説家になりたいと思うようになっていた。そこで、物書きになるきっかけを得るため、まずは新聞社への就職を希望する。
ところが、大学の就職部からは、早大闘争の際に顔写真を撮られていたので新聞社は受けられない、と却下されてしまった。それならばと出版社に進路を変更し、10社ほど受験したのちに前述した通り集英社への就職が決定した。
入社後、志望する部署を訊かれたスナミちゃんは、役員たちの前でこう吠えた。
「はい、雑誌編集部門の『少年ブック』編集部を志望します。私の力で少年誌を再興します。
新人研修を終えたのち、希望通り「少年ブック」(1959年に「おもしろブック」から改題)編集部へ配属される。そして、ここから編集者スナミちゃんの快進撃が始まるのだ。
新米ならではの雑用も必死にこなしつつ、編集者としての仕事も急速に覚えていった。先輩の担当作家・作品を次々と受け継ぎ、作家と一緒に漫画のアイデアもどんどんヒネリ出していった。
『ケネディ騎士団/望月三起也』ではトリック技をたくさん考えた。『チビ太くん/赤塚不二夫』ではギャグ会議に参加するのはもちろん、新企画をガンガン出してはフジオ・プロと共にいくつもの別冊付録を作った。配属後に創刊された新漫画雑誌に「少年ジャンプ」と名付け、『ハレンチ学園/永井豪』の連載を立ち上げたのもスナミちゃんだった。
昔も今も「少年ジャンプ」は新人マンガ家の発掘に定評がある。スナミちゃんが発掘し、育てたマンガ家も数多くいる。なかでも代表的なのが、とりいかずよしだ。
フジオ・プロに所属し、赤塚の下で修行していたとりいは、スナミちゃんの2歳年下。同じ名古屋出身ということもあり、すぐに気が合った。
編集者になった当初から「無茶苦茶な漫画を」やりたいと考えていたスナミちゃんは、少年漫画に“性”を持ち込み『ハレンチ学園』をヒットさせた。ならば、次ぎに来るのは何か。
その答えは、とりいの師匠である赤塚の言葉にあった。
とりいちゃんは顔がキタナかったから「お前はキタナイ漫画を描け」って言ったの。そしたら彼が「ギンバエ一家」っていうキタナイ漫画を持ってきた。それが面白かったから「とりいちゃん、どうせ描くなら、テッテイ的にとことんキタナク描け」って言ったの。
で、うまれたのが「トイレット博士」。(『トイレット博士』第1巻 1999年/太田出版)
当時、少年誌では暴力描写や残酷描写に対する自主規制は厳しかったが、「ハレンチもトイレットもウンコもタブーとは全然思っていなかった」そうで、何の問題もなく『トイレット博士』の連載はスタートした。
連載初期の頃は、トイレット博士とその助手たち、うんこが大好物のバキュームエンジェルうんこちゃん、異常に清潔好きなクソダワシ、といったキャラクターがおもな登場人物だった。彼らが排泄行為にまつわるギャグを展開しつつ、ときにホロリとさせるドラマチックな側面もあり、良くも悪くも話題を集める作品となった。
だが、しばらくすると人気は低迷する。そこで舞台を小学校に移した。
このときに、一郎太の担任教師という脇役でありながら、一郎太以上に人気を集めたのが、担任教師のスナミ先生である。これがとにかく破天荒な教師だった。どれほど破天荒だったのか?
普通は、生徒たちが「メタクソ団」なんて下品な名前のクラブを作っていたら、先生は叱る立場にある。ところが、この団を作ったのはスナミ先生自身なのだ。団員の合い言葉「マタンキ」を考えたのも先生。しまいにゃ必殺技「七年ゴロシ」で敵の肛門を指で突いたりする。あと、何かというとすぐに服を脱ぐ。アタマ同様に、下もチリチリだ。
その結果、読者アンケートでは足かけ5年連続でトップを独走し、コミックスは累計1千万部を突破した。『トイレット博士』は70年代少年ジャンプを代表する大ヒット作となったのだ。
「少年誌を再興するために」と予告したスーパーマンは、本当にそれを成し遂げたのだ。
「少年ジャンプ」での役目を終えたスナミちゃんは、次に青年向けのマンガ誌「ヤングジャンプ」を創刊させる。学生時代に鍛えたイベント企画力を発揮してこちらも大成功を納めると、さらに上の年齢層であるビジネスマンを対象にした「ビジネスジャンプ」を……というように、次々と新雑誌を創刊し、それぞれの場で話題作、ヒット作を誕生させていく。
その後、集英社の子会社であるホーム社への出向を経たのちに退社。続いて集英社の少女漫画部門を扱う白泉社に移り、そちらでも様々な活躍を見せたが、2009年に円満退社して、40年と8ヶ月続いたサラリーマン人生に終止符を打った。
とはいえ、スナミちゃんの活躍はまだまだ終わらない。現在はフリーランスの作家、編集プロデューサーとして、いまでもメタクソ編集ライフを送っている。
(とみさわ昭仁)