2014年の日本から、戦国の世にタイムスリップした高校生サブロー(小栗旬)がカルチャーショックを受けながら、織田信長として生きていく姿を描くドラマ「信長協奏曲」(フジテレビ月曜21時〜)。この枠初の時代劇ながら概ね好評のようだ。


10月20日放送の第2回は、サブローの妻・帰蝶(柴咲コウ)の父・斎藤道三(西田敏行)も実は、戦国にタイムスリップしてきた人物だったことがわかる。
城の中で、学ラン姿の小栗と警官の制服姿の西田が、ポテトチップを食べながら語り合うシーンは、時代劇のセットにたたずむ現代人ふたりという奇妙な雰囲気。着物の世界では、学ランと制服姿のほうがコスプレっぽいのだということに改めて気づかされた。まあ、現代でも、制服はコスプレっぽいか。

それでなくても、奇想天外なタイムスリップもの「信長協奏曲」は、コスチュームプレー感が漂っている。時代劇の扮装、所作が、どうにもコスプレっぽい。
ところが、西田敏行が、警官の格好をしながらも、ユーモラスな表情とシリアスな表情を自在に切り替えながら、生き残るために様々な手を使ってきて、本心を他人に気取られずに細心の注意をはらってきたしたたかな男の姿を鮮やかに演じてみせる。すると、あらあら不思議。強烈な説得力があり、最後の最後で明かされる道三の真意が強く心に刺さる。

道三が実は現代人だったことは、石井あゆみによる原作漫画(小学館「ゲッサン」連載中)にもあるエピソードだが、ドラマのほうが、道三が戦国武将になりすましていることを原作以上に厚めに描いている(脚本・西田征史)。
例えば、道三が「織田信長がどういう男なのか見極めてやろうと思っての」と時代劇口調で決めたあと、「いま、完全に道三だわ」と笑うターン。彼は現代人の口調を封印して、40年もの長い間(原作だと30年)道三になりきっていたのだ。


自分自身がニセモノなので、より、信長がニセモノであることには敏感になるだろう。道三は、信長がニセモノであることを知って、帰蝶を任せてはおけないと考え、武田家の妾にしようと企てる。男たちが女を戦争の道具として扱う状況も、原作よりも強調して描いているようだ。

最終的には、サブローがなりすましている信長の行動(道三が危機に陥ったとき義理を感じて助太刀する)が史実として残っている(サブローが現代から持ってきた歴史の教科書に記されている)ことから、道三はサブロー信長こそホンモノだと認める。

この流れを見ていて、ドラマ版「信長協奏曲」はおそらく、「なりすます」行為に重きを置いていると感じた。
要するに「自分ではないものを演じる」ことで、昨今、「なりすます」のほうが、SNSのなりすましアカウントの横行によって馴染み深い言葉だと思うので、ここではそちらを使いたい。
ただ、「信長」におけるそれは、昨今のなりすましほど悪行とは限らない。念のため。

第1話の冒頭の舞台となっている時代劇村からして、現代人が戦国武将になりすます場所だった。
その場所からタイムスリップしたサブローは、ホンモノの信長に頼まれて、信長になりすますことになる。
信長役をサブローに押し付けて、ホンモノの信長は信長で、1話の最後で、歴史上のある人物(一応、未見の方のためにぼかしておきます)として生きることにする。これもある種のなりすましだ。


「うつけ」者と思われていたらしい信長も、うつけ者になりすましていたという物語や、殿様になりすました「影武者」のことを描いた物語も、限りなく多く描かれている。戦国ものや信長ものに「なりすまし」というキーワードはフィットする。

ほかにも、1話からずっと何やらあやしい動きをしている忍びの者・伝次郎(山田孝之)も、2話でこれまた歴史上のある人物を名乗りはじめる。その人物になったときの伝次郎は、それまでの暗く怪しい雰囲気は消えて、実直そうな表情を作っていた。どうやら伝次郎は演技派のようだ。

信長、道三、伝次郎・・・皆、乱世を生き抜くために別人になりすます。

生きていくために誰もがキャラを演じる必要のある現代と同じといえば同じ。よって、ドラマ「信長協奏曲」は、単に戦国タイムスリップものではなく、現代とつながる物語でもあるといえそうだ。

演じていたキャラがだんだんと馴染んでいって、本当の自分との境界があいまいになっていくことがあるように、サブロー信長も、周囲の目を意識しながら信長として振る舞っていくうちに、次第に織田信長そのものになっていく。
ニセモノがホンモノになる、その可能性や面白さ。それに伴う苦労。そしてその行為が生み出す星のような輝きがドラマ「信長協奏曲」の肝なのではないかと2話まで見た段階では想像した。


それはまた、昔ながらの時代劇を踏襲する俳優が少なくなってきた今、時代劇をどう見せるかと問われた時、開き直って「なりすます」しかないというアンサーでもあるのではないか。
サブローは現代人だから、動作が現代的でいい。パーカー姿の小栗旬が城の廊下で、柱にもたれてだらっと座っている姿など、むしろとてもいい画になっている。
一方、戦国生まれの家臣・恒興(向井理)は、ひょこひょこと今ふうな歩き方をしていて、これはあえて開き直っているのか、ほんとはこの人もタイムスリップしてきたのか? というミスリードを狙っているのかなんなのか理解に苦しむところ。これは、重箱の隅をつつくような小姑チェックに過ぎないし、その代わり、帰蝶のために伊勢にお守りをもらいに行くことを決意した表情や、その帰蝶とサブローの関係性がいい感じなのを見てそっとお守りをしまってしまうときの向井の表情などは、なんだかリアルな感触がある。向井は時代劇経験もあるので、この作品に関しては、現代劇ふうなニュアンスを残すことを選択したのかもしれない。

こんなふうに、前述の道三のように、現代人俳優が、いかに時代劇俳優に「なりすます」か。それを楽しむようにドラマが作ってあると思えば、すべてが許される。非常にクレバーなドラマである。

その中で、怪優・山田孝之が、ぷんぷん匂わされる「バカボンド」の宮本武蔵のようなただ者じゃないツワモノ感と、大衆演劇で幼少から時代劇が身体に染み付いている早乙女太一の忍びっぽさが、よくわからないが「ホンモノ」っぽいことに注目してしまう。ホンモノが何なのかそもそもわかってないにもかかわらずだが。
あと、もうひとり今川義元役の生瀬勝久のお公家感もハマっている。そうだ、義元もいかにも公家に「なりすまし」ていた人物であった。生瀬の演技は、その多重性がよく出ていて面白い。

何かになろうとしている人たちの、元の自分と演じている自分との絡み合いを楽しみながら「信長協奏曲」を見ていると、「らしさ」や「ホンモノ」とは何なのか? そんなことを考えてしまう。
そもそも歴史だって、どこまで本当かわからない。「信長協奏曲」は、歴史にどれだけウソをつき続けられるかが勝負である。
あれ、なんだか、真面目になってしまった。決して、真面目キャラになりすましているわけではございませぬ。(木俣冬)