Twitterフォロワー20万人超のラブホスタッフ上野さんによる「空想恋愛読本」。本連載では、マンガ・ドラマ・アニメ等の登場人物が現実にいたらモテるのか分析。
そこから女性にモテるためのアドバイスを導き出します。

今回、現実でのモテ度を考えるのは『ひぐらしのなく頃に』の主人公である「前原圭一」で御座います。
彼のニックネームが「口先の魔術師」であることからも判るように、様々なことを「口先」で解決していく彼は、現実にいたら果たしてモテるのでしょうか?


お願いをする時に重要な「カチッサー効果」


「ところで皆様、話が変わって申し訳ないのですが、このコラムを是非Twitterで共有しては頂けないでしょうか?」

と、お願いをするのと

「ところで皆様、話が変わって申し訳ないのですが、このコラムのTwitterでのリツイート数が1000を超えないと打ち切りになってしまうので、Twitterで共有して頂けないでしょうか」

とお願いするのでは、一般的には2つ目の方がご協力頂けることが多いでしょう。

もちろん「お、共有しなければ潰せるのか!」とリツイートを控える方もいらっしゃいますが、大変有り難いことに多くの方は「そういう理由なら仕方がないか」とご協力して下さるのです。
ここまでは何方でも日頃から感じていることでしょうが、今回の話ではもう一つ、お願いの仕方を考えてみましょう。

「ところで皆様、話が変わって申し訳ないのですが、このコラムをTwitterで共有しなければならないので、Twitterで共有して頂けないでしょうか」

この頼み方ですが、重要なのは「このコラムをTwitterで共有しなければならないので」の部分。
特に今回は“コラム”という“文字”の状況ですので、より如実にご理解頂けると思うのですが、はっきり言ってこのお願いは意味がわかりません。


「いや、その共有しなければいけない理由が大事なんだけど……」というのが極めて真っ当な感想かと思います。

しかし、現実にこのように「理由なし」「真っ当な理由」「意味がわからない理由」の3つのパターンで人にお願いした時、「真っ当な理由」と「意味がわからない理由」では、お願いを聞いてもらえる確率はほとんど変わりません。

これが冒頭の「カチッサー効果」と呼ばれるものであり、簡単に言えば「理由があるかないかが重要であり、理由そのものはそんなに重要じゃない」ということ。
この「カチッサー効果」には「小さなお願いの場合にこそ効果は大きく、大きなお願いになればなるほど効果は薄まる」という特徴もあるのですが、それでも理由がないよりはあった方がいいということがご理解頂けるのではないでしょうか?

「口先の魔術師」前原圭一が持つスキルとは


さて、今回のテーマである「前原圭一」ですが、彼は色々と問題を抱えている女の子しか登場しない『ひぐらしのなく頃に』という作品の性質もあり、説得で女の子の悩みを解決する場面が多く見られます。

もちろん彼の場合は、それと合わせて「行動」が伴うことも多いのですが、例えば「北条沙都子」を救うために村で演説するシーンなどは特に演説が顕著であったと言えるでしょう。彼の行動も重要でしたが、彼の演説によって園崎お魎以下、村の面々が力を貸してくれなければ、どうしようもなかったのも事実。つまり、彼の演説こそが沙都子を救ったのです。


ところで、口先の魔術師と呼ばれる彼ですが、果たして彼のスキルとは一体何なのでしょうか。
少なくとも作品を見ている限り、彼が「演説の文章」を考える天才や「卓越した論理構成」を持っているとはあまり思えません。
これらのスキルが「皆無」とは言いませんが、一般人と比較して極めて高いとは決して思えないのです。
それにカチッサー効果でも分かるように「論理」なんていうものは、人を動かすという意味ではそんなに重要ではありませんので、彼が卓越した論理を作れるだけの人間であったのならば、彼の演説で人が動くことはなかったでしょう。

私が考える彼のスキル。

それは「勢い」。


論理力でも文章作成能力でもなく、ただひたすらに「勢い」こそが彼の最大のスキルではないでしょうか?
『ひぐらしのなく頃に』前原圭一の説得が人を動かす理由【ラブホの上野さんの空想恋愛読本】
画像出典:Amazon.co.jp「ひぐらしのなく頃に 鬼隠し編 2

人を動かすのは論理ではない


先ほど少し登場した園崎お魎で御座いますが、彼女について少しお話をさせて頂きましょう。

彼女は「園崎家」という家の当主で、ひぐらしのなく頃にの世界観で言えば「事実上の最高権力者」で御座います。作品の舞台である雛見沢でお魎の悪口でも言おうものなら一瞬でダムの底へ沈んでしまうような人物というと判りやすいでしょう。

そして彼女は主要人物の1人である「北条沙都子」の「北条家」と対立をしておりました。この経緯は長くなるので省きますが、重要な点として「作品の時点では、すでに対立をする理由がなかった」ということをご理解下さいませ。

実際、お魎は「すでに終わった話である北条家への対立。特に直接関係のない沙都子への対立は無駄であるばかりか非情である」と感じているシーンが御座います。
ですが、一度「徹底的に対立する」と言ってしまった手前、自分からは和解できないのも事実。

これは極めて重要なことですが「それは無駄」とか「それは非論理的」とか「非はこちらにある」というような「真っ当な理屈」で人間が動くのであれば、誰も人間関係で苦労しません。人間はいつだって「感情」で動くのです。特に女性はその傾向が顕著であると言えるでしょう。

ちなみにこういうことを書くと「(女性は感情で動く)だから女はバカなんだ」というような意見を仰る方がいらっしゃいますが、あくまでも大小の問題であり、男性だって少なからず「感情」で動いております。

そして、もし「いやいや、俺はきちんと論理で生きている!」と仰るのであれば、

「貴方はそこまで判っているのに、感情に訴えかけずに、論理で人を動かそうとするなんて、実に非論理的でバカな人だね」

と失礼を承知でお伝えさせて頂きましょう。


さて、園崎お魎は戦中から戦後のドタバタの中で多額の財を築き上げた英傑で御座います。
その仕事の中では間違いなく「論理」で計算をしていたはずですし、歳をとったとは言えボケた様子はまるでない怪物であったと言えるでしょう。

そんなお魎に対して、論理的な綺麗な文章でcoolに、

「以上の理由から、北条家への差別は不当であり、すぐに止めることが北条家、園崎家の両家にとって利益になるでしょう」

なんて言ったらどうなるでしょうか。

「ダホマ!(『そんな理屈はこっちも知ってるんだよ。何だ? 私がそんな理屈も判らないようなバカに見えたか? 小賢しいガキが調子に乗るんじゃねえ』の意)」

と追い返されるのが関の山。
日本刀で斬られなければ御の字でしょう。


論理的な真っ当な意見など、ちょっと頭の回る人間なら誰もが知っているのです。気がついているし、それが正しいということも重々承知のこと。

それでもなお、行動が出来ないから困っている。という事実を忘れてはいけません。

圭一がお魎を説得出来たのは、彼の発言が論理的であったからでも、彼の発言が正当であったからでもないのです。

「この若造の勢いに賭けてみよう」
「この生意気なクソガキの勢いなら世界が変わるかもしれない」
「この勢いで私のことを罵倒してくれたら『あの餓鬼の我儘に付き合ってやる』という体裁で行動を変えることが出来る」
そんな人を動かすことの本質である「感情を揺さぶる」ということこそが、前原圭一の「口先の魔術師」たる所以であると思います。

「勢い」は女性の悩みを解決するのにも非常に有効


お悩み相談を行なっている身としてお話をさせて頂くと、恋愛に関するお悩みに論理的に回答するのであれば

「別れなさい」
「デートに誘いなさい」
「身だしなみを整えなさい」

の3つでほぼ全てのご質問に回答することが可能で御座います。

例えば「彼のDVで困っています。どうしたらいいのですか」なんていう質問に対して論理的に回答するのであれば

「別れろ」

以外のどんな言葉をかけろというのでしょうか。

しかし、その結論は、ご質問を投稿された本人はすでに知っている。
別れる、という回答が最善で、最適で、最も真っ当な手段であるということは重々承知なのです。
そうにも関わらず、わざわざ人に相談をするのですから、お悩み相談にはそんな「論理的で真っ当な意見」などを言ってはいけない。
『ひぐらしのなく頃に』前原圭一の説得が人を動かす理由【ラブホの上野さんの空想恋愛読本】
画像出典:Amazon.co.jp「アニメ『ひぐらしのなく頃に』BD-BOX

それでは一体どのように対応をすれば良いのかという話になるのですが、この正解は様々ですし、状況によっても変わります。
ですが「勢い」で強引にぶっ壊すという対応は、非常に有効な対応であるのもまた間違い御座いません。

私はこれをバンジージャンプのように考えています。
どうしてもここから飛び降りなくてはいけない時、バンジーの紐がついているから問題ないとはいえ、飛び降りる際には誰もが足を竦ませます。
これが人間の感情。確かに紐がついているからと言って100%安全なわけではありませんが、理屈で考えればほぼ100%安全なのは間違いありません。そして飛び降りなくてはいけないという事情もあるのですから、飛び降りる以外に選択肢など存在しない、それでもなお、人は飛び降りることが出来ない。

そんな時に、ポンっと背中を押してあげる。
有無を言わさずに突き落としてしまう。

本人は「絶対に押さないで下さいね」と言いますが、その言葉の意味を考えて、こちらの勝手な行動と責任で押す。あくまでも責任はこちら側にある。
もし、何らかのアクシデントでバンジーの紐が切れたのならば、その責任は押した我々にあり、押された側から永遠に恨まれる覚悟を持って押す。

ここで重要なのは、押すときは必ず紐の状態を慎重に確認するということで御座います。
押すのはあくまでも「それがご質問者様にとって得だから」押すのです。紐なしバンジーを強いる回答者は、それはただの殺人鬼。

よくよく考えてみれば、自分には何のメリットもない行動です。
成功したところで得をするのは飛んだ人間。
失敗したら自分の責任。
割の合わないギャンブルどころの騒ぎではありません。
それではこんな状況で人を押せる人間がどんな人かと言えば、これは極めて簡単です。

飛んだ人が得することを、自分の幸せのように感じることが出来る人。

ネット上で偉そうに講釈を垂れている人間とは違うのです。
現実で、こんな風に人を押せる。
相手の得を自分の幸せのように感じることが出来、相手の不幸の責任を取ることが出来る。

そんな人がモテない理由があるはずもありません。

運命の神は女神である


「私は、用意周到であるよりはむしろ果断に進むほうがよいと考えている。なぜなら、運命の神は女神であるから、彼女を征服しようとすれば、うちのめしたり、突きとばしたりすることが必要である。運命は、冷静な行き方をする者より、こんな人たちに従順になるようである」(『君主論』より引用)

この世界は不思議なもので御座います。

人間を観測すれば、それは生物学であり、生物学とは化学であり、化学とは物理学であり、物理学とは数学である。

よってこの世界の本質には間違いなく「数学」のような「論理」が横たわっております。我々がどんなに願っても地球は回転の向きを変えず、数学の計算式で回り続ける。

ですが、人間を動かそうと思うと今度は「論理」がまるで役に立たなくなってくるのです。まぁ物は言いようなので論理で動いていると言えば論理で動いているのですが、少なくとも「モテない男性」が言うような論理では動きはしません。

冒頭の言葉は、15世紀から16世紀にかけて活躍したマキャベリという人物が書いた『君主論』という本の一節で御座います。

この本は名前の通り「君主として活躍するにはどうしたらいいか」ということが書かれている本であり、
「優しさとか道徳などではなく、軍備と法こそが国を作る」とか、
「部下から恐れられる君主こそが優れている」とか、
「罪は徹底的に罰する」
というような「極めて合理的かつ現実的」な内容となっております。

もちろん、なぜそうしなければいけないか、ということも極めて論理的に書かれており、賛否こそあれ間違いなく時代を変えた一冊であると言えるでしょう。

しかし、私が読んだ限り「理由が全く論理的ではない部分」が一箇所だけあり、それこそが冒頭の一節。

現代風に意訳をすれば「運命の神は女の子だから、コツコツ計算でやる人より、オリャーっと勢いで動く人の方がいいよね」という少しも論理的ではない理屈。

ですが、私は君主論ではこの一文が一番好きであり、極めて現実的な意見であると思います。

物理や数学のような理解が極めて困難な論理を除けば、特に実生活にあるような問題に関しての論理など、誰もがきちんと理解しているのです。

「宿題は早くやった方がいい」
「掃除はこまめにやるのが効率的」
「歯が痛かったら、すぐに歯医者に行くべき」
「酷い男とは別れるべき」
「行動しなければ彼女は出来ない」

その理屈は100人が100人ともに理解をしております。ですが、理屈を理解するのと「行動に移せる」ということは全くもって別問題。

それこそが人間の感情であり、悩みなのです。

ですので、その悩みを解決しようと思ったら「理屈」などでは到底不可能でしょう。

理屈を吹っ飛ばした「勢い」が必要になってくる。

「勢い」という言葉がピンと来ないのならば「愛」と言っても良いでしょう。

バンジーを前にして、足がすくんでいる人間に

「これこれこういう理由で飛び降りるべきだ」と言う人間。

「バンジーなんて怖いからやらない方がいいよね」と言う人間。

こんな人達はいくらでも存在します。

そんな中で相手の発言を無視して突き落とせる人間は非常に稀有な存在であり、理屈で説得する人間の何倍も愛と責任に満ちた人間で御座います。

私は前原圭一の「勢い」からはそんな「愛と責任」を強く感じます。

この勢いがなくならない限り、彼が現実でもモテるのは間違い無いでしょう。

前原圭一のたった1つ大きなウィークポイント



しかし、そんな前原圭一ですが、たった1つだけ非常に大きなウィークポイントが御座います。

それは受験ストレスで悩んでいた頃に、エアガンで少女を撃つという通り魔事件を起こしているということ。

端的に言いましょう。

「彼はしっかりと反省している」
「彼はその経験があったからこそ、今の魅力的な人間なのだ」
「もうこの事件は解決していて過去の話だ」

というのは“極めて論理的”な話で御座います。

重ね重ねになりますが、人間は“論理”では動かない。この事件がもう言及されるべきではないという “論理”が現実でも通用するかと言えば、これは極めて疑問が残ります。

少なくとも本作をご覧になっている方からすれば、私がこのタイミングで「通り魔事件」のことを掘り返したことに対して「極めて差別的で性格の悪い人間だ」と感じたかもしれません。

私もそう思います。

ですが、この世界を見回してみてください。

「法的にきちんと罪を償い、本人も極めて反省しており、なおかつ相手も許しているのだから、そのことで差別をするのは不当だ!」という“極めて論理的で真っ当な意見”が果たして通用しているでしょうか?

私が、皆様が、前原圭一のこの事件のことをどう思うかは判りません。ただ、現実でこの“論理的で真っ当な意見”は通用しているか。

私は通用しない場面の方が多いと感じております。

『ひぐらしのなく頃に』のストーリーを見ていれば、“論理的に”彼が二度とこんなことをするはずがない、と感じることでしょう。

ですが、頭でそれを理解したとして、果たして感情がそれを信じることが出来るのか。

それを信じ、彼を愛することが出来るのか。

理屈なら信じることも愛することも出来ます。しかし、感情は、人間を動かす本質がそれを受け入れることが出来るかは、やや疑問が残ると言わざるを得ません。
(上野)