地下鉄はおおむね暗渠を走るため、《乗客は、自分がどこにいてどの方向に向かいつつあるのかを、知ることが出来ない。ただ、出発駅と到着駅を知っているだけなのであり、その意味で地下鉄は、これからそれに至る時間経過に過ぎない》と、書いたのは劇作家の別役実である(別役実『日々の暮し方』白水社)。


言われてみればたしかに、車窓を見ても真っ暗な風景しかない地下鉄の車内では、空間を移動しているという感覚は乏しく、時間が経過するのを待っているというほうが正しいかもしれない。
路線図の時空は歪んでいる。路線図に魅入られた者たちによる狂おしくも『たのしい路線図』の世界
井上マサキ・西村まさゆき『たのしい路線図』(グラフィック社)。帯文にあるとおり「路線図をただ眺めて『いいねぇ』って言いたい!」という思いが高じて生まれた本だとか

路線図における「時空の歪み」


別役実は、地下鉄での移動が「時間経過に過ぎない」証拠として、《地下鉄の各駅には、それぞれの駅に到達するための所要時間は書いてあるが、距離と方角は書いていない》ことをあげている。これはおそらく路線図のことをいっているのだろう。現に、たいていの地下鉄の路線図は、駅間の距離や位置の正確性などは無視してデザインされている。なぜなら、利用者が何よりも知りたいのは、現在いる駅から目的の駅にいたるルートであって、距離や方角といった情報はあまり求めていないからだ。

現在の地下鉄路線図のルーツとされる、ロンドンの地下鉄路線図はまさにそうした発想から生まれた。そこでは路線が実際の線形とは関係なく、垂直・水平・斜め45度の直線にそろえて描かれている。
この路線図は1931年に完成し、後年、世界中の地下鉄にかぎらず多くの鉄道の路線図のデザインに影響をおよぼした。

地図のような正確性が求められないがゆえ、路線図にはさまざまなデザインのものが存在する。先ごろ出た井上マサキ・西村まさゆき著『たのしい路線図』(グラフィック社)は、そんなバラエティ豊かな路線図の世界を紹介する一冊だ。なかには実際の地理からは大きくかけ離れた路線図も出てくる。本書はそれを「時空の歪み」と名づける。

たとえば、東京臨海高速鉄道りんかい線の路線図の一つでは、同線の乗り入れるJR埼京線が、現実には南北に伸びているにもかかわらず、池袋の北から先が画面上右に曲がったかと思うと、さらに上へ左へと曲げられて“横倒し”になり、板橋〜川越(川越線)間は水平の直線で表示されている。
そのおかげで、本来なら2分で行ける距離の池袋〜板橋間がやたらと離れてしまった。まさに「時空の歪み」である。

色を見分けづらい人たちのための「カラーユニバーサルデザイン」


本書はまた、列車の系統や路線別に色分けされたラインの並ぶ路線図を「レインボー路線図」と名づけている。たとえば、京王電鉄の路線図では、列車種別に色分けされたラインが、上から順に、特急や準特急の暖色系の色から、急行・快速・普通の寒色系へと変化し、遠目に見るとグラデーションが虹のように見える。

路線や列車の種類ごとに色分けするのは、路線図をわかりやく見せるための工夫の一つだ。しかし世の中には、色を見分けづらい「色弱」の人たちもいる。東京メトロでは、そういう人たちにも路線が区別できる路線図を、駅の発券機付近に掲示している。
この路線図では、色弱者には同系色に見えてしまう路線のうち一方に縞模様を入れることで区別できるようにした。本書によれば、こうした色覚の違いをデザインで吸収する取り組みは、「カラーユニバーサルデザイン(CUD)」と呼ばれ、現在では東京メトロだけでなく各鉄道会社にも広がっているという。

このほか、近年ますます増加している外国人観光客向けにも、路線図上の駅名や路線名にローマ字だけでなく各言語を併記して対応が進められている。いまや社会は大きく多様化し、異なる事情を持つ人々の共生が重要な課題となっているだけに、どんな人も等しく情報が得られるよう、路線図にもさまざまなデザインが求められるというわけだ。

手づくり感が人々をなごませる「インディーズ路線図」の世界


『たのしい路線図』では、前出の「時空の歪み」「レインボー路線図」など路線図の鑑賞ポイントを解説するとともに、地域などいくつかのカテゴリーに分けてたくさんの路線図が紹介されている。

最近では鉄道会社の公式の路線図にも、キャラクターや沿線の観光地のイラストをあしらうなど、見ているだけで楽しいものが少なくない。
広島高速交通・アストラムラインの路線図など、大きなクエスチョンマークのような形になっているのが印象的だが、実際の線形もほぼこれに近いのだとか。

本書では、“公式”に対して、駅員などが独自につくった“非公式”の「インディーズ路線図」の章も設けられている。そこに登場するのは、公式のもの以上にユニークな路線図の数々だ。

たとえば、神戸学院大学の美術部が制作した兵庫県明石市のバス路線図は、地元名物のタコの足を模したものになっている。あるいは、南海電鉄高野線の汐見橋駅に長らく掲示されていたという鳥瞰図をベースとした路線図。これは昭和30年代のもので、紀伊半島の左側には海を挟んで四国も描きこまれている。
南海沿線の和歌山と四国の徳島は、船での人の行き来が盛んだったから、それを反映した描写だろう。残念ながらこの路線図は現在では撤去されてしまったが、一部はイベントで分売されたという。

このほか、夏休みに秋田を旅行した小学生による第三セクター・秋田内陸縦貫鉄道の路線図も力作だ。ひと駅ごとに写真をレイアウトしてつくったこの路線図は同鉄道に寄贈され、その始発駅の角館駅に飾られていたとか。きっと駅を利用する人たちの心をなごませたことだろう。

じつは、前出のロンドンの地下鉄路線図も、そもそもは同地下鉄に勤務していたハリー・ベックという電気製図技師が、余暇を利用して個人的につくった「インディーズ路線図」であった。
地下鉄当局は当初、ベックの作成した路線図に懐疑的で採用を見送ったものの、その後、1933年に無料配布したところたちまち品切れになるほど好評を博したという。

ベックとしてみれば、本業のかたわら、実際の路線図をデフォルメして、シンプルかつ美しくデザイン化する作業は、案外楽しかったのではないだろうか。なおかつ利用者の役に立つのなら、これほどうれしいことはなかったはずだ。そう考えると、路線図には、人間はなぜデザインするのかという本質みたいなものが凝縮されているともいえるかもしれない。

本書は、ここまであげたような路線図を紹介するとともに、路線図の歴史などにまつわるコラム、制作者へのインタビューを収録し、路線図の奥深い世界へと導いてくれる。

著者の二人はいずれもライターで、うち西村まさゆきは、地理ジャンルを中心に「デイリーポータルZ」などで記事を執筆している。とりわけ境界や境目に関心を持ち、本書に先立って『ふしぎな県境 歩ける、またげる、愉しめる』(中公新書)という著書も上梓した。もう一人の著者の井上マサキは「デイリーポータルZ」のほか当「エキレビ!」でも活躍中。先週放送されたクイズ番組「99人の壁」では、路線図をテーマに選び、見事全問正解して賞金100万円を獲得している。ちなみに井上が路線図に興味を持つきっかけも、新婚旅行で訪れたロンドンの地下鉄路線図に魅入られたからだとか。
(近藤正高)