「岡野陽一のオジスタグラム」5回「下の名前は教えてくれないタイプの八木さんが、おじさんの常識を覆す」

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「岡野陽一のオジスタグラム」5回「下の名前は教えてくれないタイプの八木さんが、おじさんの常識を覆す」

「岡野陽一のオジスタグラム」5回「下の名前は教えてくれないタイプの八木さんが、おじさんの常識を覆す」

夕方、僕は阿佐ヶ谷駅の改札の前で人を待っていた。

色んな人達が我先にと改札を目指してこちらに向かってくる。

仕事終わりで飲みに向かうであろうサラリーマンもいれば、疲れ果ててゴボウみたいな顔色をしたサラリーマンもいる。楽しそうな学生、カップル、おじさん、おばさん……。

人混みの中に待ち人を見つける。

「債権者様だ!」

今日は債権者様に8万円とゆう大金をお借りする日なのだ。

債務者ボケもやり終えて


この阿佐ヶ谷の債権者様とはもう10年近い付き合いになる。債権者様と言っても元芸人で同期の同い年の友人だ。
債権者様によって色んな借り方のスタイルがあるが、この阿佐ヶ谷の友人とは8万借りて、翌週8万返すスタイルをとらせて頂いている。


借りる日に借りたお金で飯を奢って、近況を語り合い、御馳走様と言わせて、なんでだよ!までが恒例行事でもあり我々の楽しみでもある。

僕は人間の出来る一番低い姿勢を保ち尻尾を振りながら、債権者様をお迎えする。

Tシャツにスウェットのおじさんが、改札から出てきたスーツのおじさんに走り寄り、
「お疲れ様です~!お待ちしておりました! さぁ、さぁ、鞄を持たして下さい。それとも先に靴を舐めましょうか?」

東京に初めて来た人が見たら、ここが噂のハチ公前かと思うだろう。

現代版忠犬ハチ公ならぬ、糞犬ハチ万である。

無事にお金を借り、お金を受け取った瞬間に豹変する債務者ボケもやり終え、我々は前から気になってた裏路地にある居酒屋に向かう。


気立てのいい女性がいる店は無敵


ガラガラと昔ながらの扉を開けると、そこは10席くらいのL字型のカウンターと、4人くらい座れるテーブルがある小さな店だった。

時間が6時過ぎで早かったのか、客は我々2人だけだ。イケメン店長と気立てのいい女性店員が2人で切り盛りしていた。

しかし初めて行く居酒屋は楽しい。

目に入るメニューも新鮮で、お奨めを聞いたり、気立てのいい女性店員とイケメン店長が付き合ってる話を聞かせて貰ったりしてるうちに、常連さんが一人、また一人とやってくる。
スーツのおじさんや、若い女性、大学生、色んな人が来る。

やはり気立てのいい女性がいる店は無敵だ。


気立ての化け物は、次から次に常連と常連を繋げ、会話のパスを回す。
サッカーをやっていれば、中田英寿くらいになったであろう。

スーツの常連おじさんによる、美味しい肉の見分け方の話を聞いている時だった。

「あら、八木さーん! いらっしゃーい!」

とゆう事で、本日のオジスタグラムはこちらの八木さん
下の名前は教えてくれないタイプの52歳のおじさんだ。
「岡野陽一のオジスタグラム」5回「下の名前は教えてくれないタイプの八木さんが、おじさんの常識を覆す」

入って来た時には、僕はこの人がオジスタグラムに出るとは思わなかった。
ちょっとTシャツはよれっとしているが、一見普通のおじさんである。

ひととおり常連さん達と挨拶を交わした八木さんはこっちを見て、
「兄ちゃん達、見ねぇ顔だな」
と漫画みたいなセリフを吐く。

「あ、初めて来させて頂きました!」
「そうか!そうか! 何もない店だけど、楽しんで行ってな!」
「ちょっとー!八木さーん!」
と気立てがすかさずつっこむ。
「ガハハハ!!」

豪快に笑う八木さんの口元を見て、僕はハッとした。
嘘だろ……歯が少ない……

債権者様に小声で伝える
「どうやら仕事の時間だ」

オジスタグラマーとしての自覚


ヤギは下の歯しかない生き物だが、八木さんはその逆の歯少目逆ヤギ科のおじさんだ。

上はびっちり、下少なめ。
これな~んだ?
正解は八木さんである。




「岡野陽一のオジスタグラム」5回「下の名前は教えてくれないタイプの八木さんが、おじさんの常識を覆す」

産まれて初めて刑事さんの気持ちがわかる。いくら休みの日でも目の前で犯罪が起これば放っておく訳にはいかないのだ。
もうこんなにもオジスタグラマーとしての自覚が芽生えている自分に驚いた。

スーツおじさんと話してはいるが、もう僕は八木さんの虜だ。
遠い昔、クラスに好きな子がいた時はこうゆう気持ちだった気もする


L字型の端に座った愛しの八木さんの顔は煙に包まれていて基本見えない。
八木さんは鬼ヘビースモーカーなのだ。
それともドライアイスが主食なのかもしれない。
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僕は真相を確かめるべく、トイレに行ったタイミングで、八木さんの横に移動する事に成功する。

「そんなに来てるんですか!?」
「来てるも何も皆勤賞よ! 店長は先週風邪で休んだから店長より来てるわ!ガハハハ!」
「えー!ケケケケ!」
「あの時さっちゃんが揚げた唐揚げが真っ黒でよ」
「八木さん! またその話!」
「ガハハハ!」
「ちょっと八木さん、煙草吸いすぎだって!体に悪いからもうダメっ!」

TSUTAYAの棚にあったら恐らく誰も借りないであろう「気立ての化け物VSドライアイスの化け物」の微笑ましい闘いである。

八木さんに色んな話を聞く。昔ポルシェに乗っていた話。ポルシェは凄く燃費が悪い話。
30過ぎで離婚してもう女性はこりごりな話。前の奥さんが家を一度も掃除しなかった話。歯は大事だとゆう話……。

さっちゃんの絶妙な合いの手もあり、非常に楽しい時間になった。
0時を回ろうかという時に、イケメン店長を残しさっちゃんが先にあがる。

債権者様はまだ向こうで盛り上がってるが、八木さんの目がシバシバしだしたのでそろそろ行こうかと思っていると、八木さんは僕の目の前でおじさんの生態系を揺るがす。

コンタクトを外したのだ

おい、嘘だろ……。

この手のおじさんがコンタクトをしてるなんて、今まで一ミリも考えた事がなかった。

見たい物があるおじさんは眼鏡をするし、何も見たくないおじさんは0.01で過ごす。
それがおじさん界の常識だ。

歯のないおじさんは合理的で、面倒臭さとお金がかかる事を嫌う。
コンタクトなんて真逆の物だ。

おじさんの対義語はおばさんじゃない!コンタクトだ!
そもそも、歯入れないでコンタクト入れるってなんだ?

なんであのタイミングで


八木さん、債権者様と別れ、家に帰る途中ずっとそんな事を考えながら、夜道を歩く。

じゃ、なんだ? 見たい物があったのか?
いや、我々がこの世の中で見たい物なんて、競馬のハナ差の決着の時くらいだ。後はなんなら見えない方がいい。

逆になんであのタイミングで外したんだ?
さっちゃんが帰った直後だから0時過ぎだ。

あっ!

もしかしたら八木さんは競馬のハナ差よりも、見たい物を見つけたのかもしれない。

ニヤニヤしながら、僕は明日の競馬の予想を始める。
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(イラストと文/岡野陽一 タイトルデザイン/まつもとりえこ)