フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。
○待たれていた写植機
1946年 (昭和21) 7月、写真植字機研究所は平凡社から写植機5台の注文を受けた。茂吉と信夫、再提携後第一弾の注文だった。
つぎに入った注文は、2カ月後の同年9月。大日本印刷から10台というものだ。幸い、戦前戦中に同社に納入された5台の写植機は無傷だった。大日本印刷では、1929年 (昭和4) に第一弾の実用機を導入した時代から、高相悌一らの手で写植機が活用されていた。
高相は、1933年 (昭和8)ごろから日清印刷の早稲田工場で写植係を担当し、同社が1935年に秀英舎と合併して大日本印刷となったあとも、写植を担当しつづけた人物である。同工場で凝った組版を手がけるようになるにつれ、写真植字機研究所をしょっちゅうたずねては、茂吉にアドバイスをもらっていた。(本連載 第66回参照 ) その高相らによって同社では写植機の効用がじゅうぶん認知されており、これが今回の注文につながったのだ。
社長の佐久間長吉郎とは、理研への写植機の製造譲渡をことわった件があったが、それにかんして佐久間はなんのわだかまりも見せなかった。
この注文の売買契約書は、写研に現在も保管されている。
これは戦後のインフレで諸物価の高騰がはげしかったため、弾力性をもたせておかないと、機械の製作が不可能になるおそれがあるからだった。事実、2年後の1948年 (昭和23) 9月18日には、機械納入時に1台あたり20万円を支払うよう、価格の更改見積を提出している (このとき、写真植字機の価格は1台30万円になっていた) 。[注1]
同1946年 (昭和21) 10月、凸版印刷からも10台の注文が入った。凸版印刷では、5月にジャワから引き揚げた浅野長雅が板橋工場に入り、たった1台残っていた写植機を使って各種の仕事をこなしており、その活躍が認められて、写植設備の増強につながった。このころその1台の写植機によって組版され、1947年 (昭和22) 2月に刊行された『天皇』(発行:株式会社トッパン、印刷:凸版印刷株式会社) は、80万部もの売上に達した。[注2]
つづいて図書印刷と5台の契約書を交わしたほか、東邦印刷、金谷印刷など中小の個人印刷会社からも引き合いや注文が相次いで入った。
茂吉は、平凡社5台、大日本印刷10台、凸版印刷10台、図書印刷5台、計30台分の前渡し金50万円を、大阪の信夫にそっくり送った。機械本体の製造再開資金は急を要するとかんがえたからだ。自分自身はわずかな封鎖預金のなかからレンズや文字盤の製作に必要な金を調達し、工作機械は必要なかったので、自宅を工場と兼用することにした。[注3]
○久金属工業を間借りして
信夫は、さっそく仕事に取りかかっていた。
1946年 (昭和21) 5月に茂吉と契約書を交わすと、写植機製造のスタートを切るべく、久金属工業の工場の一部を借りた。
じつは久は、茂吉との提携を快くおもってはいなかった。茂吉が再提携の際にあいさつに立ち寄ったときに、久金属工業の工場にずらりとならんだネジ製作機械におどろいたことがあったが (本連載 第81回 参照 ) 、1946年 (昭和21) 春ごろには、久金属工業は信夫考案のネジ製作機械をすでに完成していた。その数、ネジ自動製作機25台、自動ターレット旋盤40台、ネジ用ローリングマシン30台。さらに、これらに付随する諸機械もふくめて、金額にして約30万円の大投資だ。
ところが、この責任者である信夫に、茂吉が突然、写真植字機製造事業での再提携をもちかけた。悩んだすえに「自分はふたつの道を追うのに適さない人間であることはよく知っておる」とかんがえた信夫は、ネジ製作事業を放棄せざるをえなくなった。それは久にとって、甚大な被害をこうむることになる選択だったのだ。
茂吉は、平凡社や大日本印刷などから入った前渡金を大阪の信夫にまわしてくれた。しかしそれでも、資金は足りない。不足分は自分でなんとかしなくてはならない。
信夫はやむをえず、自分の所蔵していた約30点の美術品や骨董品を処分して資金をつくった。ネジ工場時代、余裕があるときに買い集めていたものだ。富岡鉄斎、富田渓山人、竹内栖鳳、横山大観、橋本関雪、山元春挙、上村松園などの大作ぞろいで、手放すには忍びなかったが、愛児・写真植字機の再製造のため、背に腹は代えられない。これらを売った金は、工作機械にかわった。買い集めていた当時は、まさかこれらの美術品が写真植字機製造再開を助けることになるとは夢にもおもわなかった。
美術品を大切にしていたのは、妻・重子もおなじことだった。後年になって、信夫はたびたび重子から「お父さん、あの絵はいつ返してくださるの」とたずねられた。
○工場を移転、本腰を上げるも
写植機製造再開にあたり人手が必要だとかんがえた信夫は、久庄次郎社長に頼みこみ、その春 (1946年) 学校を卒業し久金属工業に入社したばかりだった小川健三を、信夫の下に移籍してもらった。そうして、久金属の工場でさっそく図面を引きはじめたが、終戦直後で物資不足であるうえ、間借りしての製作は不便でしかたがない。かといって、自分のネジ工場を急に写真植字機工場にするわけにもいかない。
そんなおり、もと久金属の役員をつとめていた菱田儀一の工場 (菱田鉄工所/大阪市西成区) が、戦時中の整備統合で久金属に吸収合併されたまま、空き工場になっているのを知った。菱田の好意によりここを貸してもらえることになり、製造再開1カ月後の1946年 (昭和21) 6月にはそちらに移って、写植機の製作にとりかかった。
なにもないところからの出発だ。工場にいるのは、信夫と小川、そして以前東京で植字の仕事をすこしやっていた信夫の弟・豊の3人だけだった。ひとも物資も足りない。それでも、つぎつぎに入る注文に応じるため、製造を進めなくてはならない。
1945年 (昭和20) 8月の敗戦から、日本は激しいインフレに陥っていた。1934~36年の卸売物価ベースでみれば、1949年までに約70倍というハイパー・インフレだった。
これによって多くの物資が配給制になり、製造にあたっての動力源である電力までが割り当て制となってしまった。ここからいよいよ本格的に製造を開始しようというタイミングだ。写真植字機製造への影響も、当然かんがえられた。[注7]
(つづく)
※本連載は隔週更新となります。
次は4月28日更新予定です。
[注1] 写真植字機1台の価格30万円は、写真植字機研究所から大日本印刷にあてた「見積書 (更改) 」(1948年9月18日付) より(写研 所蔵)
[注2] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.182、「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.50。『天皇』の発行元と印刷会社については「写真植字の百年」展 出品リスト (印刷博物館、2024) より
[注3] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.184
[注4] モリサワ提供資料による
[注5] 森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960 pp.28-29、馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974 pp.147-149を資料として執筆した
[注6] 伊藤正直「戦後ハイパーインフレと中央銀行」『金融研究』第31巻第31号、日本銀行、2012年1月 p.202
[注7] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.182、「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.50
【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975
森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960
馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974
伊藤正直「戦後ハイパーインフレと中央銀行」『金融研究』第31巻第31号、日本銀行、2012年1月
【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ
※特記のない写真は筆者撮影











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