ガンバ大阪、横浜FC、栃木SCの3クラブでJリーグ通算311試合(J1:71試合、J2:240試合)に出場してきたMF寺田紳一。現在は関西1部リーグに所属するおこしやす京都ACでプレーしている。

J1でのタイトル獲得も経験したG大阪時代についての話題を取り上げた【前編】に続き、この【後編】では横浜FC、栃木SCにて10年間に及んだJ2でのプレー、おこしやす京都での現在、そして未来について聞いた。(取材・文:新垣博之)

J通算311試合出場!おこしやす京都MF寺田紳一の現在と未来。インタビュー【後編】

横浜FCでの貴重なレンタル期間

―横浜FCへの最初の2年間のレンタル期間とガンバ復帰後の半年間を観ていると、ボランチでプレーすることも多くなってパスの距離が長くなったように見えましたし、それ以上に守備や相手ボールの時に活き活きとプレーされているように見えました。

「守備は楽しくはなかったですよ、今もです(笑)。岸野靖之監督は守備のこともよく指摘して下さり『なんで最後に体を投げ出さないんだ?』と言ってくれたり、それまでほとんどしたこともなかったスライディングを要求されたりもしました。普段から単純に素走りの練習も多かったですね。

それ以降の僕のサッカー人生を考えても、あの2年間が本当に貴重な時間だったと思います。あの経験がなければ、僕は“ただちょっとサッカーの上手い元Jリーガー”となっていたと思います。

守備は、試合に出ることによってステップを踏んでいき、技術を身につけられると思います。ただ、僕は気持ちの部分が大事だと思っています。いかに『目の前のコイツからボールを奪うんだ』と強く思えるか、ここぞの場面で滑ってでもシュートブロックに行けるか。そういうことが練習から習慣化されていったのが、横浜FCへ移籍して身についていった感覚です」

G大阪へレンタルバック時の裏側

2012年にG大阪へレンタルバックされた寺田だが、夏の移籍市場で横浜FCへ再びレンタル移籍。2013年に完全移籍へと移行した。Jリーグだけでなく欧州でも“片道切符”のレンタル移籍がある。

「片道切符かどうかは強化部のほうでは決まっているかもしれませんが、基本的には選手側には伝わっていないです。ただ、当時の僕の場合はガンバに戻る意思はなく、横浜FCで勝負していこうと決めていました。

移籍はタイミングが重要だと思います。自分もいろいろと悩み、レイソルへの移籍の話もあった中でなかなかタイミングが合わない時もありました。

正直、2012年にガンバに戻るかどうかも迷っていました。横浜FCから『残って欲しい』という話をいただいた中、ガンバの強化部からも『監督や体制も一新してイチからのスタートだから』という話で復帰の話をいただきました。

それで『もう1度勝負したい』と思ってガンバに戻ったのですが、ふたを開けてみればキャンプの段階から主力とサブ組でメンバーが分かれていて…。そればかりかスタメンで出ていない選手たちは居残り練習をすることも禁じられていました。

スタメンの選手達の練習相手をする中では、本気で削りに行っても怒られてしまうような状況で。正直、汗をかかないままで帰宅することもありました。何のためにトレーニングしているのかも分からない状況だったので、代理人には夏のタイミングでの移籍希望を早い段階で伝えていました。だから、横浜FCからのオファーが来た時は即決で決めました」

J通算311試合出場!おこしやす京都MF寺田紳一の現在と未来。インタビュー【後編】

憧れのカズさんと同僚に

現在35歳の寺田はスポーツアニメコミックでは『キャプテン翼』よりも『スラムダンク』が好きで、安室奈美恵の楽曲をよく聴いている現在30代の“一般男性”である。

プロサッカー選手としてのキャリアは18年目となるが、サッカーを始めたキッカケは、「友達がやっていたから」という単純な理由らしい。子供の頃には我々もしていたような“遊び”もしていたようだ。

―よく近所の子供が集まってサッカーをする時に『俺はカズ』『俺はラモス(瑠偉)』『俺はビスマルク』とか役を決めてミニゲームをしませんでしたか?

「やりましたね!カズさんが所属していたヴェルディ川崎(当時)がモデルで、弟は鹿島アントラーズでしたね。シザース(ボールをまたぐフェイント)をしてゴールしたらカズダンスをしたり、しゃがんでビスマルク・ポーズ(十字架をきって、おでこに指を当てる)をしたり。それをするためにゴールを決めたいっていう(笑)」

―その三浦知良選手と同僚となりましたね!2014年に背番号10を着るようになってからは、ロッカールームでは隣にカズさんがいたのですよね?

「隣にいましたね。カズさんは僕がサッカーを始めるキッカケになった憧れの人で、『カズさんのようになりたい』と思ってプロを目指して頑張ってきました。特にチームメイトになってからの最初の数カ月間は夢のような感覚でした。思わず目でカズさんを追ってしまったり、ちょっとミーハーな心が出ていたかもしれません。

2012年にガンバに復帰した時、サンフレッチェ広島戦(J1第5節・敵地)でPKを自分で獲得して自分で蹴ったのに失敗して負けた試合(1-4)があったのですが、そのあとにカズさんから連絡がありました。『PKを外せるのはPKを蹴る勇気がある者だけ。次に蹴るチャンスがあったなら迷わずに蹴れよ』と言ってもらいました」

―1度目のレンタル移籍の2年間も含めて、横浜FCでは8シーズンに渡ってプレーすることになりました。25~32歳くらいの選手として重要な時期になります。選手としてのキャリアを考えるにあたって年齢も意識されて移籍や残留の決断もされていたのですか?

「正直、横浜FCでは複数年契約を結んでいただきながらも、毎年のように『J1からのオファーがあれば応じられる』という文言を契約書に入れてもらっていました。その中で納得できるオファーはなかったというのが、僕の実力です」

栃木SCへ完全移籍

2017年限りで8シーズンに渡ってプレーした横浜FCを退団した寺田は、翌年から栃木SCへ完全移籍。怪我もあって2年でJ2リーグ20試合の出場に終わったが、クラブへの想い入れは強い。

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「横浜FCでプレーしている時、栃木グリーンスタジアムでのアウェイ戦をするたびに気になっていました。いつも栃木のサポーターは試合前に栃木県歌『県民の歌』を唄っているのを目にしていて、すごく一体感のあるチームだと、いつも思っていました。“オラが町”のチームを応援する雰囲気が温かくて良かったです。

当時の僕は横浜FCで契約満了となったので自分の年齢や今後のことを考えるだけで精一杯でした。栃木でプレーできることになったのは、ガンバ時代の先輩であるオグリさん(※1)が話を通してくれてチームからオファーをいただけたからです。オグリさんがいなければ僕は栃木でプレーしていなかったでしょうね」

※1:元日本代表FW大黒将志:現G大阪アカデミー・ストライカーコーチ。2018~2020年6月まで栃木に在籍。

J通算311試合出場!おこしやす京都MF寺田紳一の現在と未来。インタビュー【後編】

おこしやす京都でセカンドキャリアも見据える現在

2019年シーズン限りで栃木を退団した寺田は、2020年から現在のおこしやす京都へ移籍。仕事と両立しながらサッカーをプレーしている。コロナの影響もあって活動を制限された時期もあったが、現在はクラブの営業活動に取り組んでいる。

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「栃木を契約満了となってからは引退するかどうかも考えていました。現役を続けるかどうかとは別に、引退後のことも考えていました。そんな時におこしやす京都からセカンドキャリアのことも含めたお話をいただきました。

僕は小学校1年生の頃からサッカーを始めて今は35歳。今までサッカーしかしてこなかったので社会人としての知識がなく、『そうっすよね~』など体育会系のノリでしか話せませんでした。ビジネススキルを学びながらプレーできる環境に魅力を感じて、おこしやす京都への加入を決めました。

去年はコロナの影響で営業活動が制限されていたこともあって、僕はおこしやす京都の社員さんに見ていただきながらリモートで勉強をしていました。ビジネス研修用の動画サイトを使って、名刺の渡し方から始まり、ビジネスマンとして役立つスキルを一つずつ勉強しています」

―よくクラブのSNSから「#○○選手の地域活動」と題して写真が挙がっていますね。

「クラブの事務所が京都市右京区にあるのですが、 今は近隣企業の方々に『おこしやす京都AC』という名前を知ってもらうために訪問させていただいていて、そのテレアポから自分たちで行っています。

先日、僕が訪問させていただいた企業様が主催しているイベントで、子供たちが色んな体験を通して学ぶマルシェ(※2)の企画があったんですね。目の前でそばを打ってくれてそれを食べられるといったお店がある中で、僕が提案した『サッカー教室をする』という企画が通りまして、最終的にはパートナー企業様としての契約を結んでいただきました」

※2:マルシェ:フランス語で「市場」を意味し、個人単位(またはそれに近い規模の業者)が人通りの多い場所に集まって出店した集合体。

おこしやす京都の選手たちが行う地域活動は、Jリーグが掲げる「シャレン!」(Jリーグ社会連携の略)の活動にもつながる。サッカーやクラブが持つチカラやノウハウを、地域密着の社会貢献としてどう活かすのか?寺田は普段の生活の中から学び続けている

「僕は自分の実力に見合わないぐらいにJ1で獲れるタイトルは全て獲らせてもらえました。そういった経験はJリーガーになったとしても、なかなかできることではありません。素晴らしい経験をさせてもらいました。だからこそ、この経験をおこしやす京都のチームメイトにも伝えていきたいです。

ウチの選手たちの多くは仕事と両立しながらサッカーをプレーしています。みんなが本当にサッカーが好きであるのは身に染みて感じています。そういう選手たちがJリーグという素晴らしい舞台でサッカーができたら最高に喜ばしいことです。まずはJFLへの昇格が最初の目標ですけれど、最短2年でJ3への昇格は可能です。自分もまだまだプレーできるので、Jリーグへの昇格に少しでも貢献できるようにやっていきたいですね」

―5月22日(土曜)の天皇杯1回戦アルテリーヴォ和歌山戦(@紀三井寺公園陸上競技場)に勝利すれば、2回戦は6月16日(水曜)エディオンスタジアムでのサンフレッチェ広島戦が予定されています。2012年のJ1広島戦のリベンジですね!

「そういう舞台に立つことはクラブとしても個人としても大きなチャンスだと思います。ここは久しぶりに“天皇杯男”ぶりを発揮して勝利を掴みたいですね。そして、広島もそうですけれど、あの時のPKを止めたGK西川周作選手(現・浦和レッズ)からゴールを決めたいですね!」

J通算311試合出場!おこしやす京都MF寺田紳一の現在と未来。インタビュー【後編】

J2の現在と未来について

様々な話を聞いてきたが、ここで寺田から逆質問があった。筆者の「J2についてのコラム」を読んでいて気になっていたことがあったそうだ。

「J2得点王についてのコラムの中『2013年を境にJ2得点王の平均年齢が6歳も上がった』というのが確かにそうだなと思っていて。僕がJ2でプレーしていた頃は降格制度もあって、“若手を育てるリーグ”という感じは全くなかったと思います。逆に『コイツは普通にJ1でもやれるんじゃない?』って思うぐらい実績のある選手が結構いましたね。今のJ3もそうですけど“実力があるのに見つかっていない選手”は結構いると思います」

さらに、古巣G大阪の後輩悩める宇佐美貴史のコラム」に関しても、こう語る。

「今は全くサッカーを観られていないので(宇佐美)貴史の現状は分からないのですが、貴史が最初にサテライトの練習に来た時は本当にビックリしましたよ!まだ中学3年生だったのですが、もうプロの選手と遜色ないシュートを撃っていました。実際、彼は高校2年の時にトップチームに昇格してきて、一緒にプレーしていても『コイツは本当に凄いな』と思っていました。

若いころは攻撃のことだけ考えて結果を出していれば許されるっていう環境だったのが、29歳になってチームの中心として様々なことを求められているうちに好き勝手なプレーはできなくなって悩んでるのかな?って思いますね。

日本では、苦手な部分を放置していても得意な部分で結果を出していれば許される傾向があると思うのですが、海外では若い選手もそういう基準の中で普通に試合に出ています。だから、バイエルン・ミュンヘンに行った時も上手くいかなかったのかなと?と思って観ていました。監督が交代するタイミングというのも悪かったと思います。監督が交代したら全てが変わってしまうので、移籍はタイミングや出会いが重要ですからね」

―是非、宇佐美選手にアドバイスしてあげてください!

「今の僕では恐れ多過ぎます。雲の上の人ですから。ゴリ(本田圭佑)もそうですけど。ただゴリのことはメンタル面で凄いとは思っても、未だに『上手い』と思ったことは1度もないですけどね(笑)」

将来は指導者としてJリーグの監督を目指す!

仕事とサッカーを両立しながら指導者を志している寺田の理想の指導者像とは?

「現段階でB級ライセンスまでは持っているので、まずは下のカテゴリーのコーチから始めたいと思っています。最終的にはJリーグのトップチームの監督を目指したいですね。

理想の指導者像となると、どうしても自分が指導を受けて来た方々が頭に浮かびます。

ガンバ時代の西野朗監督も、最初は選手とほとんどコミュニケーションをとらない手法に『何なんだ?』とか思っていたりもしましたけれど、マネジメント力が高くてオーラのようなものを感じました。逆に横浜FCでの岸野監督のように選手に近くて相談に乗ってくれるような人もいます。

それから、僕にとっては山口素弘さん(現・名古屋グランパス執行役員フットボール統括)が横浜FCの監督をされていた頃が1番勉強になったと思います。今も連絡をとらせていただいているのですが、素さんにキャプテンに指名していただいて『選手としても人としても変われるよ』と言われた通り、意識も変わりました。ボランチとして日本代表の歴史に名を連ねる素さんから、ボランチとしての拘りはあんまり言われたことはなかったのですが、『俺の方が上手いよ』とはよく言われましたね。

そして、もう亡くなられたのですが、奥大介(※3)さんには本当にお世話になりました。横浜FCに戻ることができたのもダイさんから声をかけていただいたからですし、プライベートの相談にも乗っていただいたので感謝してもしきれません。

そういった色んな方々の良いところを取り入れながら、指導者としてもやっていきたいと考えています」

※3:奥大介:ジュビロ磐田や横浜Fマリノスでタイトルを獲得した元日本代表MF。2012年には選手としてもプレーした横浜FCで強化部長を務めた。2014年に交通事故により他界。

最後に、G大阪時代によく利用していた、うどん店『友商』で「この店を継ぎます」とも発言していた寺田選手。忘れているわけではない様子。

今月は待望の第一子も誕生。おめでとうございます!

寺田紳一プロフィール

MF:1985年6月10日生まれ:大阪府茨木市出身:ジュニアユース、ユースと所属したG大阪でトップチーム昇格。2004年のプロデビュー以来、持ち前のテクニックを武器に黄金時代を迎えていたG大阪で着実に出場機会を得たものの、主力にはなりきれず。2010年から当時J2の横浜FCへレンタル移籍。2年間の武者修行からG大阪へ復帰するも、再び横浜FCへ。2018年からJ2・栃木SCでの2年間のプレーを経た2020年、関西1部・おこしやす京都ACへ移籍。現在に至る。

関連記事:タイトルを争うガンバ大阪時代の葛藤、大舞台の裏側。寺田紳一インタビュー【前編】