- 今川家の弱体化により永禄11年(1568)より始まった駿河侵攻。
その人物は武田義信。信玄の嫡男でした。
今回は、駿河侵攻を反対したことにより信玄への謀反騒動にまで発展した義信の生涯を紹介します。
■今川義元の娘を正室に
今川義元/Wikipediaより
義信は天文7年(1538)に生まれました。母は正室の三条の方で、信玄との婚姻には今川義元の斡旋があったと言われています。
13歳で元服し、義元の娘である嶺松院(れいしょういん)を正室に迎えました。実は嶺松院の母は信玄の姉の定恵院。このことから、今川と武田は強固な同盟関係を築いていたことがわかります。
また、天文22年(1553)には足利将軍家の通字である「義」を足利義輝から貰いました。これは今までの武田家の中で初めてのことで、この時より義信と名乗りました。
■武勇誉れ高い活躍を見せる
武田信玄/Wikipediaより
足利将軍家から認められた義信の初陣は、天文23年(1554)の信濃国(現在の長野県)佐久郡の知久氏攻めです。
そして、永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いでは、志田義時と大川高重を討ち取る功績を残します。
この戦いで義信は手傷を負いながら戦うも、信玄は上杉謙信の攻勢により、義信を残して後退したことで親子関係にほころびが見え始めました。
■謀反人となった義信
飯富虎昌/Wikipediaより
そして、そのほころびが大きな溝になったのが、永禄7年(1564)頃。義元の死によって弱体化した今川家を攻めるか否やの問題で2人は対立しました。
義信は正室に嶺松院がいることもあり、今川との同盟関係を維持する親今川路線でした。
さらに、この対立を利用して義信の世話役・飯富虎昌(おぶ-とらまさ)が信玄暗殺を企てます。しかし、虎昌の弟である飯富源四郎(後の山県昌景)に密告され、虎昌は謀反人として捕らえられます。
山県昌景/Wikipediaより
翌年、虎昌は責任を取る形で自害し、義信は東光寺に幽閉されました。そして、永禄10年(1567)に東光寺にて30歳で死亡。自害とも病死ともいわれています。
■義信亡き後の武田家
武田勝頼/Wikipediaより
義信の死によって、武田家の後継者は信玄四男の武田勝頼が継ぐことになりました。また、嶺松院は今川氏真の要請で駿河国へ帰国。その後出家しました。
信玄は永禄11年(1568)に駿河侵攻を実行し、今川家を滅亡に追い込みました。
■最後に
信玄の駿河侵攻の裏で起きていた嫡男義信の謀反騒動。『どうする家康』では紹介されることはありませんが、知っておくと信玄の底知れぬ怖さがわかってくるかと思います。
腹の底が見えない信玄が今後どのように関わってくるのか楽しみですね。
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