「主演の戸田恵梨香さんや永野芽郁さん、ムロツヨシさん、監督も含め、ほとんどの人が初対面だったので、かなりアウェーな撮影現場。唯一、山田裕貴君だけは映画『闇金ドッグス』で共演して知り合いだったので、心強かったです」
こう語るのは、‘21年の人気ドラマ『ハコヅメ』(日本テレビ系)の第6話で、パチンコにハマる妻とケンカする夫を演じた、個性派俳優の仁科貴(51)。
少し見ただけで印象に残る、四角い顔と、太い眉で、どことなく人が良さそうなキャラクターは、どこかで見たような……。『ハコヅメ』を見た人からもこんな疑問がネット上であがっていたが、それもそのはず。父親は“拓ボン”の愛称で親しまれた、昭和の名優・川谷拓三さん(享年54)なのだ。
「ボク自身はあまり似ていないと思うんですが、『拓三さんに似ていますね』と言われることはよくあります。『息子なんです』と正直に話すこともありますが、だいたいは恥ずかしいので『よく言われるんです』でとどめています」
川谷さんといえば、斬られ役、殺され役の大部屋出身の俳優。しだいに演技力を認められ、映画、ドラマで活躍。ちなみに仁科の名前『貴』は、川谷さんが7年ほど付き人をしていた鶴田浩二さんが名付けたのだという。
そんな川谷さんの出世作となったのは『仁義なき戦い』シリーズや、ドラマ『前略おふくろ様』(‘75年~’77年・日本テレビ系)だ。
「オヤジは東映の京都撮影所に入るために、15歳で京都撮影所の門を叩きますが、年齢制限が18歳以上だったので、約2年間、祇園の氷屋で丁稚奉公していました。氷の配達には自転車を使っていて、相当な脚力が鍛えられたようです。それが活かされたのが『仁義なき戦い』。
幼い時から父の出演作品を見ていたという仁科。
「もとは京都で暮らしていたのですが、『前略、おふくろ様』の出演を機に、オヤジが東京に単身赴任しました。父親不在の家庭だったため、母から『立派な役者なんだよ』と、オヤジの出演作品を見せられていたんです」
■菅原文太さんに「殴って」直談判
なかでも印象に残っているシーンは、ドラマ『ダウンタウン物語』(‘81年・日本テレビ)。
「オヤジが演じたのは、貧しい教会の牧師。クリスマスの日に、リボンをつけた鉛筆くらいしか子供達にプレゼントできず、嘲笑されてしまうんですね。そのときのニコニコとして取り繕う父の顔が、何とも切なくて……。家族の前で泣くのは嫌で、一人でトイレに行って、ボロボロ泣いていました。かわいそうな役をやらせたら、父の右に出る人はいないんじゃないかと思っています」
父の演技で感性が磨かれた仁科は、12歳で京都から東京に引っ越し、父との生活をスタート。時間があれば映画談義をしたり、映画の裏話を聞いたりした。
「そのたびにオヤジは何でも答えてくれました。『仁義なき戦い 広島死闘編』で、ボートにロープで縛られて海の中を引きずられるシーンでは、実際には安全のためにロープを縛らず、手で握っていたそうです。それでも溺れる間際まで手を離さず、死にかけたと聞きました。
ワンシーン、ワンシーン、命懸けで演じた父の背中を見ていたが、自らが役者になることは考えもしなかったという。
「父の仕事の関係で、学生時代にオファーが来ることもありましたが、友達に見られるのが恥ずかしくて、ぜんぶ断っていたんです」
大学在学中、水道工事のアルバイトをしていたころ、川谷さんの個人事務所で、信用してきたスタッフによる数千万円に及ぶ使い込みが発覚した。
「オヤジも誰を信用していいのかわからなかったのでしょう。ボクがマネージャーとして、オヤジのスケジュールを組み、ギャラ交渉までするようになったんです」
『ダウンタウンDX』(‘93年~・日本テレビ系)の第1回目の放送で、菅原文太さん、山城新伍さんとともに川谷さんがゲスト出演した際には、収録現場まで付き添った。
「オヤジについてまわり、華やかな世界を見る機会が増えました」
尊敬する父の仕事を見ることができたのは、2年間ほど。川谷さんの肺がんが判明したことで、突然、終止符を打たれたのだ。
「体調が悪かったのに、病院に行くのを先延ばしにしてしまって……。ボクが風邪をひいたとき、近所のクリニックにオヤジを連れていったんです。胸部のレントゲン写真を見て、すぐに大きな病院を紹介されましたが、すでに肺がんはステージ4。オヤジに告知することもできず、半年後の‘95年12月に急逝したんです」
■「親父と違う」たけしの言葉に勇気を
個人事務所を閉鎖し、普通の仕事に戻ろうとしたとき、知人のツテで『きっと俳優をできるから、やってみないか』と誘いを受けた。
「25歳のときでした。人前に出るのは恥ずかしい人間ですが、当時、オヤジはボクのすべてだったので“どうせこれ以上、失うものはない”と吹っ切れた思いもあって、挑戦できたんですね。
映画が好きで、知識としては詳しかったが、いざ演じるとなれば勝手が違った。
「全然、ダメでしたが、“悔しい”という思いをバネにすることができたんです。いまだにうまくならないので、その思いで続いているんです(笑)」
映画『ピエタ』(‘97年)で本格デビューしたのは、26歳。少しずつ仕事を増やし、’00年には連続テレビ小説『オードリー』(NHK)にも出演の機会が得られた。その当時、所属していた事務所があったマンションに、北野武作品に携わる関係者が住んでいたこともあり、プロフィールを託したこともあった。
「たけしさんが映画を撮るとなれば、大量にプロフィールが送られてくるので、なかなか選ばれることはありません。でも、ようやく『BROTHER』(‘01年)で『若い衆7』という役をもらって。セリフはないのですが、いいポジションだったんです。
撮影の際、機材トラブルがあって、スタッフが『いまのシーン、もう一回お願いします』と監督に伝えたとき、たけしさんが『撮れてないの? せっかく若い衆がいい演技をしたのに』とぼやいてくれたんです。それがすごくうれしくて」
映画『血と骨』(‘04年)では、たけしと役者として共演。
「ごあいさつすると『オイラが映画を撮るときは、必ずやってもらうんで、そのときはよろしく頼みます』と言ってくれて、本当に『アウトレイジ 最終章』(‘17年)などで、ボクを起用してくださったんです」
なにより嬉しかったのは、仁科を“川谷拓三の息子”として扱わなかったこと。
「ボクから父の面影を見つけてくださる人も多く、すごくありがたいのです。
2年ほどオフィス北野に所属し、さらに役者としての経験を積み、現在はフリーランスで活動している。
「まったく知らない人からオファーが来るのは、年に1回か2回くらい。あとの仕事は、ほとんど前にやった仕事の関係者など、自分の人脈でお仕事させてもらっています」
‘22年は『あしやのきゅうしょく』(監督/白羽弥仁)、『西成ゴローの四億円』(監督/上西雄大)、『ミドリムシの姫』(監督/真田幹也)などにも出演予定だ。
「オヤジが死んだときの年齢を超えるので、会社の上司など、オヤジができなかったような役柄が来るのが楽しみです。ワンシーンでも、みなさんの記憶に残る演技に挑戦していきたいです」
あのクシャッとした笑顔で、天国から拓ボンが見守っているはずだ。