『冬のソナタ』で主人公の恋敵を演じ、一躍有名になった韓流スター、パク・ヨンハ。歌手としても『最愛のひと』などがヒットし、武道館公演も成し遂げた。

だが彼は’10年、32歳の若さで命を絶った。

6月30日で十五回忌を迎えた彼を、花岡理恵さん(58)はいまも毎日思い続けている。ヨンハを好きになり、韓国語を学び、専業主婦から51歳で字幕監修者に。“推しに出会って運命が変わった”彼女の人生に迫る。

フリーランスの字幕監修者で、翻訳実務士の資格も持つ花岡理恵さん(58)の一日は、家事から始まる。毎朝、支度や朝の学習を済ませたら、8時ごろから在宅で仕事を開始。

字幕監修者とは、字幕翻訳者が映像素材に付けた字幕を放送できる状態にまで仕上げる人をいう。翻訳者から上がってきた訳を細かな字幕ルールに沿ってチェック。話の流れに合っているか、わかりやすい表現かなどの点で検討し、必要な場合は代案を出す。

訳文には全て、そこにあるべき理由があって、一つ一つはパズルのようなもの。きちっとかみ合っていないと全体の流れが滞る。

「字幕は、どんどん流れ、読み返せないからこそ根拠が必要です。

翻訳者とのやりとりのなかで、字幕がブラッシュアップされていくのが楽しい。訳文がピタッと字数と内容にハマったときは爽快です」

最近手がけた作品には、韓国で好視聴率をマークした愛憎復讐劇『テプンの花嫁~愛と復讐の羅針盤』や、『危険な約束』など100話を超える大作も。

以前所属していた韓流コンテンツ配給会社・コンテンツセブンでも、数々のヒット作を担当。現在放送中のNHK連続テレビ小説『虎に翼』で韓国人留学生を演じているハ・ヨンスが出演したドラマ『リッチマン~嘘つきは恋の始まり~』(’18年)もその一つだ。

「入社して割とすぐに任された、大きな仕事でした。朝ドラは見ていないのですが、人から教えてもらって、あ! と思い出しました」

夕飯の準備前まで仕事をするのが日課だが、完徹もしばしば。それでも、

「自分の時間ができて天国です(笑)」

と花岡さんは語る。彼女はこれまでずっと専業主婦だったのだ。2人の息子を育てながら、44歳で韓国語の勉強を開始。7年間の猛勉強を経て、51歳で字幕監修者となった。

きっかけは、人気俳優のパク・ヨンハ。14年前に彼が亡くなったとき、“韓国語で感謝を伝えたい”と一念発起したのだ。

仕事部屋にもなっている自室は、いまもヨンハの写真やCD、韓国ドラマや映画のDVDなどで埋め尽くされている。

「一日の最後、自分の部屋で一人、ヨンハの曲を聴いたり、ドラマや映画を観賞したりしながら晩酌をするのが至福の時間です(笑)」

今回は、会社員時代の同僚が営むバーで半生を振り返った。

■分娩室から戻った彼女へ、義母の第一声は「男でよかった、子供は国立に入れなきゃ」

’66年、東京・渋谷に生まれた花岡さんは、幼いころから読書好きで、小学4年生のときには、『現代用語の基礎知識』を読み、小学6年生のクリスマスのプレゼントに『広辞苑』をねだるような子供だった。

「勉強が楽しくてしょうがなくて、親に言われなくても机に向かっていました」

中学時代は成績優秀で、教師から「どこを受験しても受かる」とお墨付きをもらうほど。

しかし、中学2年生のときに持病のてんかんの発作が再発。学校も休みがちになり、周囲が期待するトップ校には進学できなかった。

「でも、入った高校が私にピッタリだったんです(笑)。服装や髪形も自由で、生徒の自治活動を尊重してくれる校風もありました」

生徒会では、制服化を要望する保護者に対して反対運動をけん引。見事、自由を勝ち取った。

生徒会は楽しい、大好きな読書もやめられない。受験勉強もそこそこに図書館に通った。

「学生運動家の樺美智子さんについて書かれた本を読んだり、在日韓国人について調べたり。

インプット量はすごかったと思います」

帝京大学では文学部国文科を専攻。国語の教職課程を取り、教育実習も済ませたが、卒業後は研究生として早稲田大学大学院に進学。

父の姉妹たちも教師で、祖父は校長。親戚に教師が多かったこともあり、教師を目指した時期もあったが、社会問題ならびに文学への関心も尽きることがなかった。

「卒論担当の教授の勧めもあって進学を選択しました。大学に入ってからハマった狂言もそうですが、やはり“人の生活に現れた物語”が好きなのだと思います」

24歳のとき、ボランティア活動を通して知り合った東大卒の男性と結婚。研究生を1年でやめて家庭に入る選択をしたが、それは自分が望んだことではなかった。

「義父母が私が働くことに猛反対だったんです。在宅でもできる出版社のアルバイトを続けたいとお願いしたものの、主婦業に専念するよう強く求められました。

それに夫は、両親の意見を尊重する人で、ずいぶん話し合いもしましたが、最後は負けてしまいました」

また、花岡さん自身、どこかで「いい嫁にならなければ」という思いもあったという。

「それが魔物でした。呪いのように自分を苦しめていくとは思いも寄らず……」

ほどなくして長男を出産。

分娩室から戻ったとき、義母の最初の言葉が「男でよかった」だったときは、腹を立てるよりあきれた。

「その後、言われたのが、『子供は国立に入れなきゃ』ですよ。まだ生まれたばかりだというのに!? と驚きで声も出ませんでした。

国立とは、暗に東大のことを言っているのだとすぐわかりました。それからは、子供が成長してもずっと言われ続けました」

体調の異変に気づいたのは、長男が小学校の高学年のころだった。

顔面をバキュームで吸われるような感覚が2年ほど続き、心療内科にかかった。服薬で顔の不快感はなくなったが、気持ちの落ち込みがひどかった。

体が思うように動かない状態でも、家事は当然、さまざまな活動を抱えるなか、“ちゃんとやらなきゃいけない”という思い込みが心と体をむしばんでいった。

「医師から『頑張りすぎている』と言われても、自分ではどうにもならない。あるとき、とうとうエネルギーが切れてしまって、夫につらいと打ち明けると、『仮病だ』と一言返ってきました」

重いうつ病と診断され、いつ極端な選択をしてもおかしくないところまで病状が悪化。

「暗く湿った沼の中に鼻の下まで埋まっていて、少しでも油断すると、鼻がすっぽりつかってしまうような感覚。それが波のように何度も押し寄せるので、疲れ果ててしまい、息をするのをやめたくなるんです」

道を歩いていると、引き寄せられるように線路や車道に足が向いてしまうこともあった。

そんなつらい状態のなかでも、もう少し生きようと思わせてくれた存在。それがパク・ヨンハだった。

■ヨンハが逝く夜も、私はヨンハに救われた――。感謝と罪悪感を胸に、韓国語学習の道へ

ヨンハといえば『冬のソナタ』が出世作だが、花岡さんの韓国ドラマとの出合いは、冬ソナブームからしばらく後。レンタルビデオ店でたまたま手に取った『初恋』が韓国ドラマデビュー作だった。

「若いころのペ・ヨンジュンも出演していました。貧富の差の描写など日本のドラマにはない濃密さがあり、人間の本質を真っ向から描いているところに大きな衝撃を受けました」

そこからのめり込むように韓国ドラマにハマり、ヨンハのファンとなった。

「何がきっかけで好きになったのかは、正直、思い出せないんです。気づいたら恋に落ちていた、そんな感じで(笑)」

俳優としてだけでなく、歌手としての才能にもほれ込んだ。

「優しさと哀愁が同居するヨンハの歌声に癒され、励まされました。どこか寂しげな声が、自分の心情にピッタリだったのだと思います。気持ちが楽になるというよりも、寄り添ってくれるような気がしていました」

いつかコンサートに行きたい。

そう思っていた矢先、あの日は突然訪れた。

「朝起きてテレビをつけたら、ヨンハが亡くなったというニュースが飛び込んできました。あまりのショックで、その後の記憶はないのですが、大学生になっていた長男が慌てて帰宅し、『お母さんが死んでいるんじゃないかと本当に心配だった』と真顔で言われたことは、いまでも忘れられません。

実はヨンハが自ら命を絶ったその夜も、生きることに疲れ切っていました。『もう1曲、ヨンハの曲を聴き終わるまでは息をしよう』と何回も何回も聴いて耐え忍んで、夜明け近くになってようやく眠りについたんです。

そうして生き延びた朝、ヨンハの訃報が流れてきたんです。私は、ヨンハに救われたと思いました」

ただ、自分がヨンハに救われていたとき、彼自身は苦しんでいたことに対する申し訳なさも芽生えた。入り交じった気持ちを、なんとしても、ヨンハの墓前で直接伝えたいと思った。

そのためには韓国語を話せるようにならなければならない。悲しみに暮れる自分の背中を押してくれたのも、やはりヨンハだった。

そして、この悲劇は人生を大きく変えるきっかけとなった。

まず、家の近所の韓国語教室に通い、ハングルを学ぶことから始めた。すると、うつ状態でも、韓国語の音に癒される自分がいた。

「勉強が面白いというよりも、音そのものを聞いているだけで気持ちよかった。少しずつ文章が読めるようになってくると、学習も楽しくなっていきました」

あえて高い目標を掲げることなく、無理しないようにすることで、不思議と学習意欲が湧いた。

「音楽やドラマの観賞でもいいから、1分でも韓国語に触れたら勉強したことにする。それだけ決めて、毎日続けました。とにかく、継続から生まれる自信が何よりも大事だと感じるようになりました」

もともと韓国嫌いだった夫は、ドラマを見ているだけで「また韓国か!」と嫌みを言った。家計をやりくりして教科書を買い、夫に隠れて勉強を続けていたとき、ある一冊の本に出合った。

「そこには、“自分に許可を出しなさい”と書かれていたんです。当時の私にとって、まさに目からウロコでした」

学生時代は自分のやりたいことを素直にやっていたのに、主婦になってからは自分の気持ちにブレーキをかけるように生きてきた。

「でも、本当はやりたいと思ったら、どんどんやっていいんだと気付かされたんです」

(取材・文:服部広子)

【後編】44歳の専業主婦、パク・ヨンハの急逝で韓国語を勉強→51歳で字幕監修者に「自分で稼いだお金で墓参りできたことは、私にとって大きな意味がありました」へ続く

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