(3)「佐々木小次郎」について存在したという確証が掴めない。伝承は不詳である。

佐々木小次郎については詳細は分かっていない。現存する書物に残されている記載の多くは「岸流」、「岩流」、「巌流」、「佐々木某」とされる人物が宮本武蔵と舟島(船島)で立ち会った。年齢不詳の者となっている。

予断だが、吉川自身もずいぶん一人歩きをする小説「宮本武蔵」に迷惑を被ったらしい。小説には宮本武蔵が武蔵(たけぞう)時代の親友として「本位田又八」という架空の人物が登場する。臆病で卑怯未練なオッチョコチョイに描かれている。

当時、東京帝国大学教授の本位田祥男(ほんいでんよしお)博士は朝日新聞に「宮本武蔵」が始まるや東大生から「又八」、「又八」と揶揄されて困ったそうな。ついに怒り心頭、新聞に「『又八』などと言う者は私の先祖にはいない」として抗議文を発表した。文豪はひたすら帝大教授に謝したという。

ついでながら、明治の文豪森鴎外の「阿部一族」には六十一歳となった武蔵が登場する。「阿部一族」より引用する。

「畑十太夫が、最初討手を仰せ付けられた時に、お次へ出るところを剣術者新免武蔵が見て、『冥加至極の事じゃ、随分お手柄をなされい。』と云って背中をぽんと打った。十太夫は色を失って、手が震えて締まらなかった。」

反乱軍阿部一族鎮圧の討っ手として武蔵に励まされた十太夫は敵前逃亡した。武蔵のとんだ見込み違いである。これはおそらく史実に基づいている。なんとなれば、寛永十四年(1637)武蔵五十六歳から正保二年(1645)武蔵六十四歳で死去するまでの武蔵の所在と言動についてはおびただしい数の書状や記録が残っている。