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23歳のとき、デビュー作『日蝕』で芥川賞を受賞。その後も『マチネの終わりに』、『ある男』など純文学の分野で高い評価を受け続ける作家、平野啓一郎さん(44)。

小説家・平野啓一郎が思う、37.5歳からの人生観「年齢を重ねても、オープンで居続けられる努力を」
『マチネの終わりに』(文春文庫)。

小説家・平野啓一郎が思う、37.5歳からの人生観「年齢を重ねても、オープンで居続けられる努力を」
『ある男』(文藝春秋)。

父が亡くなった36歳という年齢を幼少期から意識し続けていたという平野さん。その年齢を迎える少し前に、妻となるモデルの春香さんとの運命的な出会いがあった。

「普段、パーティーとかあまり行かないんですが、たまたま縁あって呼ばれたルイ・ヴィトンのパーティーで彼女と知り合ったんです。32歳で結婚しました」。

そして、ちょうど36歳になったその年に、第一子が誕生。その2年後には第二子が産まれた。

「36」という数字は平野さんの人生において、何か大きな象徴なのかもしれない。それは36歳で書き始めたという小説にも昇華されていた。

「彼の父、土屋保が死んだのは、三十六歳の時だった。彼はそのために、昔からこの三十六歳という年齢を、自分の未来を照らす暗い星のように仰ぎ見ていた。いつかは自分も、その歳を迎えることになる。それがまさしく、今年だということに、彼は先ほど、問診票の年齢欄を前にして初めて気がつき、愕然としていた。

今この隣に、死んだ時の父が並んで座っていたならば、その父は、自分と同い年なのだった。(中略)どんな言葉を交わすのだろう? 普通に同い年の男と話すように喋って、会話は弾むのだろうか?」
(『空白を満たしなさい』/講談社より)

「36歳を迎えて、父の年齢に並んだ2011年は、東日本大震災があって多くの方が亡くなった年。その一方で最初の子供が生まれた。3つの大きな出来事の中で死生観や人生について考えた年でした。自分はどこか親の年齢より長生きできないんじゃないかという不安。子供が親より年上になるっていうことをうまくイメージできないせいだと思うんですが、そういったずっと抱えていた気持ちに正面から向き合った1年間だった」。


ミドルエイジクライシスの理由

「37歳」は平野さんに大きな解放感を与えた。

「気付けば父より8つも年上になっているんだから変な感じがしますけどね」。そう言って笑う。

その一方で、周囲では40代を境に精神的に不安定になったり、迷ったりする人の話を聞くことが増えたという。

「実際、作家の年譜やアーティストの創作活動の歴史を見ても、40歳前後っていうのは何か迷う時期というか。不調を感じたり創作活動をやめたり、バンド解散したり。僕は父の年齢を超えた開放感の方が強かったけど、周囲の人を見てミドルエイジクライシスとは何なのか考え始めました」。

30代後半から40代にかけて、ミドルエイジ男性が人生につまずきやすくなることには何か理由があるのだろうか。平野さんは自身の経験も踏まえてこう語る。

「20年ぐらい作家活動していると、10代、20代でやりたいと思っていたことは大体できてしまうんです。だからこの先どうするのか、次のステップに進む必要があるけどそれが見えずに行き詰まってしまう。デビューしてしばらくは、『書かないと辛い、吐き出さないと苦しい』くらいの思いで筆を走らせる時期がありますが、やっぱり20年かけて書き続けていくと満たされていってしまう部分はあるんですよね。だからその先を見据えなければならない」。


朝6時半に起きて子供を送る生活

平野さんは自身の創作活動をデビューから第1期、第2期という具合に、明確に期分けしている。36歳から37歳にかけての作品『空白を満たしなさい』は第3期の締めくくりとして描かれたものだった。そして今、作家人生の第4期目にさしかかっている。常に新しいシリーズを意識して書くことで、平野さんは自分の中の軸を見失わないでいられるのかもしれない。

「もちろん連続するテーマもあるけど、自分の中で作風を毎回変えて次は何を書こうか熟慮するのも僕にとっては楽しい時間です。20代、30代は次々に書きたいことが浮かんできて、早く形にしないと、という切迫感もあったし、1日10何時間書き続けないと逆に苦しかったんですよ。

でもこの年齢になって、残された時間でやりたいこと、すべきこと、できることを冷静に考えて、本当に自分が書くべきものはなんなのか選別するようになりました」。

何かに追われるように書き続けていた時代を経て、今は書きたいけどあえて書かない、そんな余裕すら生まれた。家族ができたことも働き方に変化をもたらした。

「今は朝、子供を送っていくために6時半ぐらいに起きて朝ごはんを作って、送りついでに散歩して……、というのがルーティンになっています。仕事に取り掛かるのは9時頃で子供が帰ってくるまで執筆して、夕食前後は家族の時間。昔は完全に夜型でしたけど、子供ができてからは早寝早起き。週末も家族との時間があるので仕事をしなくなったし、飲みに行く機会も減りましたね」。

すっかり良き夫、良き父となった平野さん。不確定な未来を生き抜く40代にとって、ハイリスク・ハイリターンで人生を一点投資するのは難しい時代となったと語る。

「僕がよく言う『分人主義』に繋がるんですが、自分自身を複数のプロジェクトのように捉えて、未知の人、自分と違うバックグラウンドの人とも積極的にコミュニケーションを取ることがこれからはもっと大事になる。僕自身、人生の中で影響を受けた人には、僕が差別的な人間だったらまず出会えなかった。自分を狭いところに追い込んでいけば可能性がどんどん狭くなっていくし、出会いの機会を失っていきます。年齢を重ねても、オープンで居続けられるよう努力しないと」。

そのためには若い世代の人にも教えを請うほどの柔軟性も、ときには必要だ。

「もう20代の人との感覚が違ってきてるなと感じることが増えた。でも敵対しても何もいいことないんですよ。やっぱり優れた才能や新しい感覚に対しては、敬意を払って、色々教えてもらいたいなと思いますね。時代遅れのおっさんにならないように(笑)」。

父の年齢を超えた第4期もそろそろ終盤だろうか。そして、第5期を何よりも楽しみにしているのは平野さん自身のようだった。

 

藤野ゆり=取材・文 小島マサヒロ=写真