1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効した。きょうで74年になる。

 条約は、敗戦により米軍を主体とする連合国に占領されていた日本の主権を、当時の国際情勢を踏まえ、西側陣営の一員として回復させるものだった。条約により日本は主権を回復したが、沖縄は米国に施政権を委ねられた。
 この時の本紙社説は「歴史の峠に立ちて」との見出しで、日本の慶事を祝福するとしながら「取り残された嘆息が深い」と書いている。
 本土のマジョリティーの主権回復は、本土から離れたマイノリティーの主権喪失と引き換えだった。
 その結果、本土と沖縄との間でゆがみが生じた。
 米国民政府は53年4月、「土地収用令」を公布。沖縄住民の抵抗を「銃剣とブルドーザー」で押しつぶし、新たな基地建設を進めた。
 さらに翌年、当時のアイゼンハワー米大統領が沖縄の基地恒久保有を宣言すると、普天間飛行場の滑走路延長など、ほぼ遊休化していた県内基地の機能強化も進んだ。
 「4・28」以降、沖縄の苦難と理不尽が続いた。
 首都圏など各地にあった米軍施設は、米兵による犯罪行為などによる激しい反対運動のため維持が難しくなった。
 日本政府は、まだ米軍占領下にあった沖縄に基地を移すことで「国内」の反基地運動を沈静化させようとした。
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 名護市などのキャンプ・シュワブは56年に本土から移駐する海兵隊受け入れのため使用が始まった。
北部訓練場使用が57年に開始されたのもいわば「4・28」がきっかけだ。
 58年、日米両政府は「国内」の地上部隊撤退で合意した。この結果、講和条約発効時の52年に約13万ヘクタールだった県外の米軍基地面積は、10年後には約3万5千ヘクタールにまで激減した。
 本土での米軍のプレゼンス縮小は、まだ占領が続いていた沖縄への基地移転なしにはあり得なかったのだ。
 不平等な日米地位協定もあり、米兵による事件・事故や騒音などの基地問題は沖縄に基地が集中した結果でもある。
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 沖縄の施政権返還は72年だった。条約発効から実に20年後だ。
 沖縄にとって「4・28」とは何だったのか。
 「構造的差別」が固定化された起点だったと言える。
 国は現在、名護市辺野古で普天間飛行場に代わる施設を新たに建設しようと工事を進めている。
 米側は普天間を返還する条件として、この代替施設では確保できない長い滑走路を緊急時に民間施設で利用することなどを要求している。
 なぜ普天間に代わる施設は県内でなければならないのか。
軟弱地盤の問題など工事完成に向けた障害も多い。
 新たな押しつけを拒む意味でも「4・28」の歴史的な意味を考えたい。
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