◆報知プレミアムボクシング ▽後楽園ホールのヒーローたち 第32回 長嶋健吾

 スポーツの世界で親子鷹(だか)は何かと注目を集める。ボクシング界でも父が会長、マネジャーを務めるジムで、チャンピオンを目指して日々汗を流している選手は多い。

かつてスーパーフェザー級とライト級の2階級で日本、東洋太平洋の王座を獲得した長嶋健吾(50)もその一人だ。アマチュアで実績を残し、父・清が会長を務めていた茨城県古河市のエイティーン古河ジムから1995年6月にプロデビュー。世界挑戦は実現させたが、世界王者には手が届かなかった。親子だからすべてが分かり合えるというのが大半だが、長嶋の場合は意見の食い違いから衝突することばかりだったという。父を反面教師として見ながらボクサーの階段を上っていった現役時代を振り返った。(取材・構成=近藤英一、敬称略)

 井上(尚弥、拓真)、寺地(拳四朗)、亀田(興毅、大毅、和毅)ら、父の指導を受けた息子たちが世界王座を手にした例は今でこそ珍しくないが、長嶋の現役時代は親子鷹自体がごくわずかだった。越本隆志が世界王座(WBCフェザー、父がジム会長)を手にしたが、長嶋はWBC世界スーパーフェザー級王座決定戦(2002年8月)でシリモンコン・シンワンチャー(タイ)に2回KO負け。夢を実現することはできなかった。

 「親子って、血がつながっているからうまく回っている時はいいんですが、意見が違う時には意地の張り合いになって、そこからすべてが狂い出すんです。自分は歯車が狂った時間の方が多かった」

 現役時代、二人三脚で同じ夢に向かって突っ走る、深い絆で結ばれた親子として多くのメディアに取り上げられた。長嶋がボクシングを始めたのは、父・清の姿を見ていたからだ。幼少時に日本フェザー級タイトルに挑戦する父の応援のために、会場に足を運んだことを覚えている。

父が会長としてジムを始めると、年上のプロボクサーたちにかまってもらいたくて、遊び場がジムになった。そして小学校5年になると、本格的にボクシングを習い始めた。

 「親父(おやじ)は家では絶対的な立場でした。絶対に逆らえないし、力でねじ伏せるというか、家では怖かった」というように、典型的な昭和の頑固親父だった。年齢的に遊びたい盛りの長嶋にとって、父の存在は「ボクシングに集中するのに、羽目を外さないためのストッパー役」としては最適だった。今でこそキッズボクシングは当たり前の時代だが、長嶋のように小学生からボクシングをしている選手は当時ごくわずか。幼少期からグローブをはめ、サンドバッグをたたいていたとあって、才能には恵まれた。高校2年から国体で3連覇を達成する。プロ入り後は2戦目で黒星を味わうが、それ以降は順調に勝ち進んだ。しかしだ。大手ジムではなく、地方ジムの一選手は知名度アップには苦戦した。

 「あの3選手と試合をしたことで名前が売れた。

周囲から『危険な相手』という声も聞こえてきましたが、勝てる自信しかなかった。父もメジャーになるにはこのマッチメイクしかないと考えたんでしょう」

 タイトル初挑戦は1998年6月、東洋太平洋スーパーフェザー級王者の三谷大和(三迫=現・三谷大和スポーツジム会長)だった。アマチュアで多くのタイトルを獲得し、鳴りもの入りでプロ入りした三谷との対戦。世界戦経験者との技術戦を制し、王座を獲得した。4か月後の初防衛戦は強打の平仲信敏(沖縄ワールドリング=2000年3月に自動車事故で死去)。2度の世界戦を経験した実力者に判定勝ち。そしてV2戦は女性に絶大な人気を誇った「お江戸のタイソン」渡辺雄二(斉田=現・斉田ジムトレーナー)に10回TKO勝ち。平仲戦では激闘を物語るように、相手のパンチのあまりの強さに試合後も頭痛が治まらず、救急車で都内の病院に搬送された。世界戦を経験した3人からの白星で、一気にその名を広めた。そして20代前半の長嶋は、ボクサーとして一番輝いていた時期でもあった。

 足を使いパンチをかわしてジャブを打ち込む。サウスポースタイルのテクニシャンで、状況によってインファイトにも応じた。

「自分のボクシングを作ってくれたのは、父のアドバイスもありますが、一番は当時ジムでトレーナーをしていた関口(三千夫)さんです。父のジムからデビューしたのも、関口さんがいたからというのが一番の理由」というほど、関口を頼りにしていた。父・清の現役時代のボクシングスタイルは長嶋とは正反対のファイタータイプ。「ボクシングの(技術の)ことではよく父と口論になった。そこに関しては、自分も引けないところがあるので」と一度ぶつかり合うと、修復には時間がかかる。そんなことが四六時中になると、試合にも影響した。指示を出す父の声には一切反応せずに、試合後のロッカールームでも、会話をしないことが珍しくなかった。それでも、世界王者という共通の目標があったからこそ、目先の感情を押し殺し、共に歩んだ。

 「東洋太平洋のベルトを取って、さぁ世界挑戦と思っていた時にメイウェザーがWBCのチャンピオンになった。そこからメイウェザーの防衛が始まって、自分にいつ世界戦のチャンスが巡ってくるのかが、まったく見えなくなった」。メイウェザーとは言わずと知れた無敗の5階級制覇チャンピンのフロイド・メイウェザー・ジュニア(米国)。こればかりは仕方がないことだが、チャンスを待っている方としてはたまらない。

「世界挑戦を意識してから、何度(世界)前哨戦をやったことか。3年以上待ち続けましたから。正直、やっと(世界戦が)決まった時はうれしかったんですが、もうそれだけで満足してしまった」

 全幅の信頼を寄せていたトレーナーの関口も会長とぶつかり、ジムを離れていた。支えを失った長嶋は練習にも身が入らなかった。清も世界戦に必要な資金集めに奔走しなければならないため、息子の練習をサポートはしているが、世界戦を実現するための仕事を優先せざるを得ない状況だった。「本来ならば一番やらなければいけない時に、その気持ちになれなかった自分が一番悪い。自分のことをコントロールできなくなるメンタルの弱さです。正直に言えば、世界戦をする資格がなかった」と後ろめたさは今でも色濃く残っている。現役時代はキャリアを積むごとに父との感情的なぶつかり合いが増えた。長嶋は「世界戦の頃は、親父のためにベルトを取るという気持ちが薄れていた」と一番大切な時に一枚岩になれなかったことを悔やんだ。

 4年間に群馬県太田市に「ONE‐LOOP‐BOXING‐GYM」をオープンした。本格的にボクシングをスタートしたいという会員には参考にしてほしいと、自らの体験や考え方を伝えている。

 「何事にも逃げずに体当たりできる人間が最後は勝つし、運も巡ってくる。自分と向き合って、常に自分自身と会話して、自分の心に後ろめたさがないように、目標に向かってやりきる。難しいが、これが一番大切だと思う」

 親子関係、世界戦…。うまくいかないことの連続だったが、50年生きてきて失敗を糧にする大切さも学んだ。今度こそハッピーエンドにしようと、佳代子夫人と2人、第二の人生は地に足を着け、ゆっくりと歩んでいる。

 ◆長嶋 健吾(ながしま・けんご、リングネームは2006年3月から長嶋建吾) 1975年9月27日、茨城県古河市生まれ。小学校5年からボクシングを始め、板倉高2年から法大1年まで国体3連覇。大学を中退して95年6月にプロデビュー。日本、東洋太平洋でスーパーフェザー、ライト級のチャンピオンとなり、日本人で初めて両タイトルで2階級制覇を達成。2010年5月に引退。プロ戦績は39勝(18KO)4敗2分け。アマ戦績は80勝(28KO・RSC)10敗。

身長170センチの左ボクサーファイター。

 ◆「ONE‐LOOP‐BOXING‐GYM」 群馬県太田市浜町66―41 TEL0276・59・9027 【月~金】17時~22時【土】15時~20時【日・祝】11時~15時。営業時間外にもパーソナルレッスン受け付け中。

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