■「田代を呼んでもいい」って思ってもらえる場所に自分がいないとダメなんだ
――田代さんは、本場のドゥーワップグループとも共演されていますよね。
1981年にドリフターズを日本に呼んで共演できたんだよ。俺たちシャネルズの企画に招いてね。本家本元を日本の人たちに紹介できて、「これがドゥーワップだ!」って提示できたのは、ほんとに誇らしい瞬間だった。ドリフターズは、山下達郎さんや大瀧詠一さんも好きなグループなんだよ。
――志村けんさんがいた日本のグループと同じ名前ですし、ご縁を感じるお名前ですね。
日本のドリフターズはお笑いで有名なグループだけど、1964年にビートルズが来日した際には前座を務めてる。音楽的にも素晴らしいグループなんだよ。お笑いもリズム。志村さんもそう教えてくれたしね。
アメリカのドリフターズはベン・E・キングがいたグループで、「スタンド・バイ・ミー」でも有名。大瀧さんの曲を聴くと、ストリングスがすごく印象的でしょ?ドリフターズもそうなんだよ。ほかのドゥーワップのグループとはちょっと違う、あのストリングスの雰囲気。大瀧さんの音楽にも、それが反映されてると思う。
――ドゥーワップが好きな方は多いんですね。
イラストレーターの湯村輝彦さんなんか、「フラミンゴ・テリー」って名乗ってたくらいでさ。フラミンゴスっていうグループが好きで自分の名前にしちゃったっていう。大瀧さんのジャケットを描いてた永井博さんもドゥーワップ好きで、ペンギンズのファンなんだって。俺も好きなグループがいすぎて挙げきれないよ。
――日本のドゥーワップグループはどうなんでしょうか?
『ドゥーワップ・カーニバル』に出演してるThe Wanderersは、後期のクールスにいたメンバーがやってるグループだよ。沖縄のThe One Dollarsなんかは、シャネルズ大好きでさ。宮古島は、ロカビリーやドゥーワップが根強い文化として根付いてる。
――改めてドゥーワップの魅力とは?
ドゥーワップって、黒人たちが貧しくて楽器を持てなかった時代に、唯一持てる“声”を武器に生まれた音楽なんだよ。映画『ロッキー』の1作目のオープニング、黒人たちがドラム缶囲んで焚き火してるシーンで、みんなでアカペラでハーモニーを作る。まさに「ストリート・シンフォニー(※シャネルズの楽曲 )」だよね。ああいうのが原点なんだよ。
――“声だけで奏でる音楽”。
山下達郎さんは、そういうのが大好きでアカペラアルバムを出したんだけど、そのときに「お前らのおかげで出せたよ。ありがとう」って言っていただいて。うれしかったよね。山下さんは芽瑠璃堂っていうレコード屋さんでたくさんドゥーワップのレコードを買っているのを見たこともあるし、本当にドゥーワップを愛してるんだと思う。俺も音楽があったからこそ救われたし、まだこうして生きていられる。
――今でも音楽に対する熱は変わりませんか?
むしろどんどん強くなってるよ。
――今、改めて若い世代にもドゥーワップの魅力を知ってほしいと思いますか?
そう思ってるよ。YouTubeでグループ名を検索すれば、今でも昔の映像が見られる。ハゲてるとかヨボヨボとか思うかもしれないけど(笑)、声は変わってなかったりして。それがまた感動するんだよ。時間が止まるっていうかさ。
――これからも『ドゥーワップ・カーニバル』は続けていきたいと?
うん、やれる限りはやりたいよ。そして、最終的にはやっぱり、もう一度、鈴木雅之の隣で歌いたい。それが俺の目標なんだ。堂々と「田代を呼んでもいい」って思ってもらえる場所に自分がいないとダメなんだ。
――鈴木雅之さんも45周年を迎え、『Doo Wop』と名付けたツアーを開催されていました。
俺がシャネルズ時代に歌ってた「Silhouettes」を歌ったんだよね。しかも、フューチャーズのソウルアレンジのバージョンでやってたんだよ。俺の勝手な妄想だけどさ、あれは私信だと思ってる(笑)。俺、ちゃんとそういうところもわかってるからね(笑)!
――その“私信”に応えられるように。
2人で一緒にシャネルズ作って、朝まで音楽の話ばっかりしてた。そういう気持ちがあるから、また並んで歌いたいんだよ。鈴木も、俺も、もうそんなに若くない。だからこそ、それを強く思ってるんだよね。
■田代まさし
1956年8月31日、佐賀県唐津市生まれ。高校時代に鈴木雅之らと結成したシャネルズ(のちのラッツ&スター)で歌手デビューし、タレントとしても多方面で活躍する。