悠仁親王の「成年式」が3週間後に執り行われる。皇族の「成年の証し」とはどのようなものか。
皇室史に詳しい宗教学者の島田裕巳さんは「衣服や冠を改める重要な通過儀礼であり、男性皇族は『加冠の儀』がその中心となる。女性皇族は公式の場でティアラを着用するようになるが、愛子内親王はコロナ禍と重なり新調されなかった」という――。
■「加冠の儀」に臨む悠仁親王
今後、皇位継承の可能性がもっとも高いと考えられる悠仁親王の「成年式」の準備が進んでいる。
成年式が行われるのは、悠仁親王が19歳を迎える9月6日である。8日には三重県の伊勢神宮と奈良県の神武天皇陵に参拝し、9日には東京の八王子市にある昭和天皇の陵を参拝する。これは大きな注目を集めることになるだろう。なにしろ、男性皇族の成年式は、父親の秋篠宮以来40年ぶりのことだからである。
当日の朝、悠仁親王は、天皇の使いから成年用の冠を受け取る。午前中には皇居の宮殿に古式ゆかしい装束姿で現れ、未成年用の冠から成年用に付け替える「加冠(かかん)の儀」に臨む。その後、儀式用の馬車で移動し、宮中三殿を参拝する。
午後には、燕尾服に着替え、天皇皇后に挨拶する「朝見(ちょうけん)の儀」に臨み、天皇から直接、「大勲位菊花大綬章(だいくんいきっかだいじゅしょう)」を授与される。これは最高位の勲章で、戦後は親王に与えられるとともに、代々の首相経験者にはその没後に与えられてきたものである。

夜には秋篠宮夫妻の主催で皇族や元皇族などを招き、私的な夕食会が都内の民間施設で行われる。そこに、アメリカに滞在している小室圭・眞子夫妻が参列するかどうかに注目が集まったが、今回それはないようだ。
こうした成年式は、昔は「元服」と呼ばれており、やはり加冠の儀がその中心だった。衣服や冠を改めることは成年に達したことの証しであり、皇族にとっては極めて重要な「通過儀礼」の一つである。
■女性皇族の成年の証しはティアラ
では、女性皇族の場合はどうなのだろうか。元服にあたるのが「裳着(もぎ)」である。裳とは、十二単の一部で、後方に長く引きずるスカート状のものを指す。裳着では初めてそれを身に着けるのだ。
裳着の前には「髪上(かみあ)げ」があり、それまで垂らしていた髪を結い上げ、成人女性の髪型へと改める。時代によっては、「お歯黒」で歯を染め、眉を剃り落として新たに描く「引眉(ひきまゆ)」も行われた。こうした裳着は12歳から14歳くらいに行われ、結婚の準備ができたことを示すものだった。
ところが、明治時代になると、政府は欧米の近代国家に倣(なら)って宮中の儀式における皇族の装束を洋式に改めた。
これにより、十二単に代表される和装の儀式は廃れ、女性皇族の正装は、「ローブ・デコルテ」と呼ばれる西洋風のロングドレスが基本となった。これによって、裳着は行われなくなったのである。
そこで、裳に代わる新たな成年の証しとして導入されたのが、勲章と「ティアラ」であった。これも欧州の王室文化に倣ってのことで、勲章としては「宝冠大綬章(ほうかんだいじゅしょう)」が授与される。
■眞子元内親王と佳子内親王のティアラ新調
ただ、重要で、また注目されるのはティアラのほうである。女性皇族が成年を迎えた際には、公式行事で着用するためのティアラが新調されることが通例になってきた。ティアラは、一般の女性でも結婚式で着用するが、女性皇族のティアラは相当に豪華で、また高価なものである。
悠仁親王の姉にあたる眞子元内親王と佳子内親王の場合にも、成年を迎えた際にそれぞれティアラを新調している。眞子元内親王のティアラと宝飾品は、「和光(WAKO)」で2856万円で制作されたものだった。佳子内親王の場合、制作したのは「ミキモト」で、費用は2793万円だった。
ただし、どちらも宮内庁が管理する公金で賄われたもので、本人たちが新調されたティアラを所有するわけではない。したがって、眞子内親王が皇室を離れた際には返還されている。

最近注目されている三笠宮家の彬子女王は、やはりミキモトがおよそ2600万円で制作しているが、妹の瑶子女王は和光で約1900万円だった。姉妹で費用に差があるのは、彬子女王の場合は随意契約で、瑶子女王は競争入札だったからである。
■燦然と輝く「第一ティアラ」
ただ、皇室におけるティアラということになると、これは拙著『日本人にとって皇室とは何か』でも触れたが、代々の皇后が着用する「第一ティアラ」が最も重要である。第一とされるのは、第二ティアラや第三ティアラが存在するからである。
第一ティアラは飛び抜けて豪華なもので、ブリリアント型のダイヤモンドが60個も使われている。9つの星を戴くデザインで、中央には21カラットのダイヤモンドが燦然(さんぜん)と輝いている。これは、世界で13番目に大きなダイヤモンドだとされる。9つの星は取り外して髪飾りとしても使えるもので、装身具一式には、140個の宝石を組み合わせたネックレスと純金の腕輪が含まれる。
これはベルリンの御用金工師レオンハルト&フィーゲルが1885年に制作したものである。制作費は当時の金で15万円だった。現在の価値に直すと7億円ほどになる。文明開化によって欧米列強と肩を並べようとしていた大日本帝国が、威信をかけて制作したティアラだったのだ。

■王室におけるティアラの源流
第二ティアラのほうは、御木本真珠店(現・ミキモト)が制作したもので、頭頂部に菊花があしらわれ、重さはおよそ500グラムである。大正天皇が即位した際、大正天皇の妻である貞明皇后のために胸飾りが制作されたのだが、同じモチーフで作られたのが第二ティアラだった。
第三ティアラは、もともと秩父宮勢津子妃のために制作されたもので、それを上皇后が譲り受けている。こうした皇后のティアラのほかに、皇太子妃のティアラもある。あるいは、他の宮家に受け継がれているティアラもある。
もちろん、日本の皇室が模範としてきたヨーロッパの王室にはそれぞれに多様なティアラが受け継がれているわけだが、そのはじまりとなると、それほど古いものではない。ティアラが王室で用いられるようになったのは、18世紀末から19世紀初頭のこととされる。
そこには、古代ギリシャ・ローマへの憧憬を反映した新古典主義が流行したことと、フランス皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの存在が大きく影響している。
■なぜジュエリーの“王”になったのか
新古典主義が流行することで、当時の貴婦人たちは、古代の女神のように見せるため、ハイウエストのドレスに身を包み、髪には月桂樹の葉などギリシャ風の模様をあしらったヘッドジュエリーを飾った。
それがティアラの流行に結びつくのだが、それを決定的なものにしたのが、フランスで第一帝政を敷いたナポレオンと、その最初の妻となった皇后ジョゼフィーヌであった。
ナポレオンは、自らの権威を古代ローマ皇帝になぞらえようとして、ジョゼフィーヌをはじめとする宮廷の女性たちに、公式の場でティアラを着用することを奨励した。その結果、ナポレオンの庇護の下、皇帝と皇后御用達となったショーメなどの宝飾メゾンが、ダイヤモンドや真珠、カメオなどをふんだんに使った壮麗なティアラを数多く制作するようになった。
ジョゼフィーヌが身に着けたティアラは、ヨーロッパ中の王室や貴族の羨望の的となり、それによってティアラは最も格式の高いジュエリーとしての地位を確立したのである。
1040個ものダイヤが用いられたジョゼフィーヌのティアラとされるものは、現在、日本の東京富士美術館に所蔵されている。この美術館は八王子市にあり、創立者は創価学会の会長だった池田大作である。生前の池田は、ナポレオンに多大な関心を抱いていた。
■ティアラを新調しなかった愛子さま
19世紀を通じて、ティアラは王族や貴族の女性にとって、舞踏会や晩餐会、宮中行事などの公式な場で着用する不可欠な装身具となり、成年を迎えた際にティアラ・デビューすることが慣行になっていった。日本の皇室も、そうしたヨーロッパでの歴史を踏まえ、成年に達した女性皇族は、公式の場ではティアラを着用するようになったのである。
では、愛子内親王の場合はどうなのだろうか。
これまでの慣例からすれば、成年を迎えた際に、ティアラを新調していても不思議ではない。だが、それは行われなかった。
愛子内親王が成年を迎えたのは2021年12月のことだった。ところが、この時期は、コロナ禍の最中で、それを考慮し、ティアラは新調されなかったのだ。
しかし、成年皇族となれば、公式の場に臨まなければならず、その際には正装なので、どうしてもティアラを着用する必要がある。
そこで、愛子内親王は、結婚して皇室を離れた清子元内親王が成年を迎えた際に制作されたものを借用することになったのである。
■ティアラ新調の機はいつ訪れるか
ただこれは、眞子元内親王や佳子内親王のティアラとは異なり、国費ではなく、内廷費のうちで天皇や皇族が自由に使える手元金でまかなわれたものである。したがって、清子元内親王が皇室を離れた際に国には返還されなかった。愛子内親王は、叔母からそれを借用して使用しているわけである。
愛子内親王が成年を迎えて、今年の12月で4年が経つことになるが、コロナ禍は去っても、ティアラは新調されていない。眞子元内親王や佳子内親王の場合と比較すると、ティアラをめぐっては状況がかなり異なる。もちろん、皇室を離れた清子元内親王にティアラは不要とも言えるが、借用が続くというのはやはり不自然である。
愛子内親王がティアラを新調することになるのは、女性宮家の創設が決まり、結婚して女性宮家の当主となったときだろうか。
それとも、これは今のところ制度的にない話だが、女性天皇として即位したときだろうか。新調されたティアラを着用する愛子内親王の姿を見たいと願う国民も少なくないはずである。

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島田 裕巳(しまだ・ひろみ)

宗教学者、作家

放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、同客員研究員を歴任。『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)、『教養としての世界宗教史』(宝島社)、『宗教別おもてなしマニュアル』(中公新書ラクレ)、『新宗教 戦後政争史』(朝日新書)など著書多数。

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(宗教学者、作家 島田 裕巳)
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