この連載では、「ダブルケア」の事例を紹介していく。「ダブルケア」とは、子育てと介護が同時期に発生する状態をいう。子育てはその両親、介護はその親族が行うのが一般的だが、両方の負担がたった1人に集中していることが少なくない。そのたった1人の生活は、肉体的にも精神的にも過酷だ。しかもそれは、誰にでも起こり得ることである。取材事例を通じて、ダブルケアに備える方法や、乗り越えるヒントを探っていきたい。
■亭主関白な父親と二面性のある母親
北陸地方在住の冬木恵さん(仮名・30代)は、両親と姉と兄の5人家族で育った。姉とは父親が異なり、17歳差。兄とは同じ父親で、3歳差だった。
「姉の父親は姉が幼少の頃に事故死していて、姉が中学生の頃に母が私の父と結婚し、一緒に暮らすようになりました。年齢的に難しい年頃だったせいか、私の父や母への反発が大きく、学校を中退したり、予期せぬ妊娠をしたりするなど家庭内では問題ばかり起こしていました。現在は家族と距離をとって生活しているので、何をしているのかわかりません」
姉の父親と母親はお見合いで知り合い、母親が22歳、姉の父親が25歳の時に結婚し、23歳の時に姉を出産。冬木さんの両親の出会いは不明だが、父親が38歳、母親が37歳の時に出会い、結婚。兄を37歳で、冬木さんを40歳で出産している。
父親は喫茶店を経営しながら、テナントビルの運営をしていた。
「父は、“THE昭和の父親”といった感じで、家庭内のすべての権限を握っていました。自分のやることに口を出されるのが嫌いで、母に対しては亭主関白な一面もありながら、私たちには普段は優しく、時に厳しい父でした」
家計を管理していたのは父親で、母親はその都度、父親から必要な金額を受け取って買い物に行っていた。このことは、父親が亭主関白な性格だったことも理由の一つだが、母親が家計の管理ができないというのが大きな理由だった。
「母は、人からどう思われるかを常に気にしていて、家の中での母と外での母が別人に見えることもありました。自分では働いた経験がほとんどなく、お金の管理が苦手でした。『そんなことやめなさい、みっともない!』と言うのが口癖で、私たちにもよく言っていました」
母親は外面が良く、周囲の人からは「いいお母さん」と思われていたが、家の中ではずっとTVゲームをしていた。
「汚れた食器がたまりすぎて料理ができない状況に陥り、『外食をしたい』と言い出すこともあり、父が『専業主婦をさせているのに家事もしないのか』『普段からやっておけ』と怒り、母が逆ギレする……という夫婦喧嘩を何度も見てきました。兄や私の友人が遊びにくるとか、来客があるときにはきれいに片付けて、あたかも“いつもきれい”を装っていました」
3歳上の兄は、小児喘息を患っており、幼い頃から入退院を繰り返していた。母親は兄につきっきりになることが多く、冬木さんは寂しい思いをすることが少なくなかった。
「私はよく、『キツい子』と母から言われました。あまり自分の感情を表に出さない子どもに育ち、自分の中で『こうしよう!』と決めると人に意見を求める前に行動するタイプでした。兄のことで月に1回程度、感情を大爆発させる日があり、その日は2時間ひたすら泣き続けました。そうすることで子どもなりにストレスを発散していたのだと思います」
■崩壊していく家庭
ところが冬木さんが中学に上がる年、父親の仕事がうまくいかなくなった。「節約してほしい」と頼むと、母親は逆ギレし、「家出する!」と言って大喧嘩に発展。冬木さんは本当に家を出て行こうとする母親を何度も泣きながら止めた。父親は次第に「勝手にしろ」と言って相手にしなくなった。
「父はよく『お金を渡すと渡した分を全部使ってきてしまうから際限がない』と愚痴っていました。私は小学校高学年くらいの頃、毎月決まった額のお小遣いをもらって、自分で管理している友達がいることに気づき『うちは何か変だ』と思うようになりました」
兄は高校生になると、すっかり身体が丈夫になっていた。父親の仕事がうまくいっていないことを悟っていた兄は、夏休みに毎日アルバイトをして、稼いだお金のほとんどを父親に渡した。そんな状況でも母親は、家の中に閉じこもり、TVゲームばかりしていた。
「父が『パートでいいから働いてくれ』と言って、母は働きに出たこともありましたが、人間関係や体調不良などで続かず、いつも数カ月で辞めていました。相変わらずゲームをして、買い物の際には父からお金を受け取る母に対して、兄は憎しみの感情を抱いていたのだと思います。母に対する家庭内暴力が激しくなっていきました。不甲斐ない父に対しても反抗心を抱き、歯向かったりもしていましたが、結局兄は母に感情をぶつけていたのだと思います」
冬木さんは、母親に手をあげる兄を止めようとして怪我をしたこともあり、警察を呼んで止めてもらったこともあった。
ついに冬木さんが中1の終わり頃、両親は離婚。父親は行方をくらませてしまう。働いても続かない母親は、生活保護を受け始めた。
兄はその後も母親に対して暴力をふるい続け、18歳になるやいなや家を出て行った。
「幼い頃から喘息で身体が弱く、一番甘やかされて育った兄は、思い通りにならないと暴力をふるったり、自傷行為をしたりしていた時期もありました」
やがて冬木さんも高校を卒業すると、家を出た。18歳以上になると扶養からはずれてしまうからだ。
「生活保護を受給した状態で私や兄が母親と同居しつつ収入を得ていると、一部は市町村へ返還、もしくは受給額の減少につながるため、別世帯として生活する必要がありました」
冬木さんは派遣社員となり、建築会社で働き始めた。しかし母親は、家から遠く離れることは許さない。そのため、冬木さんはすぐ近くに部屋を借りて、住民票を移した。「夕ご飯は実家で食べなさい」と言われ、仕事後は母親の家に帰宅し、自分で借りた部屋ではほぼ寝るだけだった。
■母娘の立場逆転
冬木さんが社会人になると、母親は精神的にも経済的にも冬木さんを当てにするようになった。
「高卒で就職した私の給料の半分以上は、母に取られていました。まず私の食費だと言って5万円家に入れさせられ、それとは別に、1回5000円~1万円ほどを月に2回ほど要求されました。母は他人から良く思われたいばかりに、いろいろなところで虚言をしたり、親戚からお金を借りて返していなかったりして、その火消しや返済をよくやらされましたが、兄はそんな母に愛想を尽かしたのです。母の友達も1人、また1人と離れていき、母方の祖父母も、母のことは相手にしなくなりました。最後まで付き合いのあった叔父(母親の弟)からも、私が19歳の時に絶縁されました。
母親にお金を渡すことについて、冬木さんが母親担当のケースワーカーに相談したところ、いついくら渡したかを定期的に申告をすること、そしてその収入分を保護費から差し引くことで、生活保護の受給は継続可能と判断された。
「送金の際には母の口座に入金し、通帳のコピーを提出していました。また、母から頼まれた買い物などはレシートを保管し、私がエクセルで作成していた出納帳に記入し、そちらも定期的に提出していました」
冬木さんの給料日になると、母親は急に優しくなり、猫なで声で冬木さんを褒め、感謝してきた。冬木さんの気分を良くさせたところで「1万円、貸してくれる?」とお金の話を出すのがいつもの手口だった。
「私が怒ると、『お父さんと離婚した後、あんたのことを高校まで出してやったのに! 子どもを育てるのがどんなに大変かわかってない!』と怒鳴ります。生活保護なんだから、自分は一銭もお金を出していないくせに……。全然尊敬できない母でした」
母親の家にいる間に電話が鳴り、冬木さんが出てみると親戚や友人で「お母さんにお金を貸しているから、その件で連絡するように伝えて」と言われることが何度かあった。
冬木さんが高校生の頃から母親に使った金額は、全部で300万程度にのぼるという。
■縛る母親
2017年10月。冬木さんが母親の家を訪れると、65歳になった母親の呂律が回っていない。冬木さんは、救急車を要請した。
搬送先の病院でCTを撮ると、「ラクナ梗塞」という脳の深い部分にある細い血管(穿通枝)が詰まることで起こる脳梗塞の一種だと診断される。
2020年6月。定期通院で母親に大動脈瘤が見つかり、心臓と直結する胸の大動脈に「ステントグラフト」という人工血管を挿入する手術を受けた。
冬木さんは2014年、23歳の時、会社で4月に行われた若手の異業種交流会に参加した。そこで、実家が営む保険の代理店で働く2歳年上の男性と知り合う。交際に発展した2人は、冬木さんが29歳の時、2020年8月に結婚。
「母は、口では『喜んでいる』と言い、表面上も喜んでいるふうでしたが、正直なところ、喜んではいなかったと思います。結婚から数年後に、『勝手に相手を決めて結婚するとか言って私を捨てたくせに!』と暴言を吐かれたことがあり、これが本心だったのだと思いました」
一方、行方をくらましていた父親は、冬木さんが28歳の時に見つかっていた。社会人になった頃に知らない番号からの無言電話が続いたことがあり、何となく「お父さんではないか?」と思っていた冬木さんは、思い切ってその番号にかけてみると、案の定父親だった。
結婚の報告をすると、「お前が嫁に行くときに渡そうと思ってた」と言って100万円を振り込んでくれた。
「父は電話で夫に『自分がこんな感じで申し訳ないけれど、芯の通った心優しい娘であると思っているから、どうか幸せにしてやってください』と言ってくれました。夫と直接会ったのに、母は『娘をよろしく』の一言も言ってくれなかったので、父の言葉がとても嬉しかったです」
結婚後、冬木さんが母親の家から車で20分ほどのところに新居を決めると、「なんでそんなに遠くに行くの⁈」と母親は激怒した。
「私が結婚した後、母は『生きる気力を失った』ようになりました。食べることもしない、掃除も洗濯ももちろんしない。ずっとTVを見て寝ているようになりました。そして毎日何十通も『私は捨てられた』『一人なら食べる気も起きない』というLINEを送ってきました」(以降、後編へ続く)
----------
旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する~子どもを「所有物扱い」する母親たち~』(光文社新書)刊行。
----------
(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)