「介護から解放されたい」。現在30代の女性は10代から母親の経済的身体的なケアをしている。
脳梗塞、大動脈瘤、リンパ腫に加え、認知症や境界性パーソナリティ障害も併発した母親は独立し結婚した娘にベッタリと絡みつき世話をさせる。夫が単身赴任する中、妊娠・出産後に仕事に復帰した女性は心身ともに疲れ果ててしまう――。(後編/全2回)
前編のあらすじ】北陸地方在住の冬木恵さん(仮名・30代)が中学生になる年、喫茶店を経営しながらテナントビル運営をしていた父親の仕事が傾く。家計管理をしていた父親は節約を頼むと、母親は逆ギレ。3歳上の高校生の兄は、父親に反抗的になるとともに、料理以外はやらずTVゲームばかりしていた母親に暴力を振るうように。中1の終わり頃、両親は離婚。父親は行方をくらませてしまう。働いても続かない母親は、生活保護を受け始めた。兄はその後も母親に対して暴力を振るい続け、18歳になるやいなや家を出て行った。冬木さんも高校を卒業すると、家を出て働き始めたが、母親が65歳になったある日、脳梗塞を発症する――。
■足かせになる母親
65歳で脳梗塞を発症した後、大動脈瘤が発見された北陸地方在住の冬木恵さん(仮名・30代)の母親――。
2019年11月、「ステントグラフト」という人工血管を挿入する手術以降、定期的に通院していた母親は、血液検査や尿検査の結果、腎機能が弱くなっていることを指摘される。

しばらくは投薬で治療をしていたが、12月頃には主治医に「透析を受けたほうが良い」と、週3回の通院が始まる。通院準備をヘルパーに頼み、母親の家から透析室までは、介護タクシーの運転手に依頼していた。
母親はこの他にも、半年に1回、大動脈瘤やリンパ腫などの予後の確認のため、総合病院でCT検査を受けていただけでなく、皮膚科や整形外科などの受診が必要になることも。その際は、冬木さんが建設会社の派遣の仕事の休みを取って付き添っていた。
2021年6月。冬木さんは71歳の母親に要介護認定を受けさせたところ、翌月要介護2と認定される。
「結婚前は毎日母の家に行き、看病や身の回りの世話をしていましたが、結婚後は結婚生活との両立が難しいと感じました。母は私とずっと一緒にいることを望んでいましたが、私は母と距離を取りたいと思い、通院以外にもヘルパーさんに入ってもらうことにしました」
しかしヘルパーの導入はスムーズにはいかなかった。
「私が『帰るね』と言うと、母はさらなる体調不良を訴えて、何とかして帰さないようにしてきました。ヘルパーさんに対しては、『もういいから来ないで』と暴言を吐いたり、『他人の世話になるのは嫌だ』と言ったりしていましたが、私は、ゆくゆくは子どもも欲しかったため、ケアマネさんやヘルパーさんと相談の上、無理やり続けてもらいました」
デイサービスやデイケアは、本人が「行きたくない」と言うため利用しなかった。幸いなことに、ケアマネやヘルパーは協力的だった。異常なまでに娘に依存し、執着する母親が冬木さんの負担になっていることを理解し、状況を打開する方法を一緒に考えてくれたのだ。

2022年4月、夫に出向が命じられる。結婚前、実家の保険会社で働いていた夫は、建設系の会社に転職していた。出向先は東北で、期間は3~5年だという。母親と夫の間で揺れる冬木さんを前に、夫は言った。
「またここに戻る口実にもなるから、待っていてほしい、自分が同じ立場だったら、俺も残る選択をすると思う」
「正直、ついて行きたいと思いましたが、その頃母は生きる気力を失い、認知機能も低下し、歩行の介助などの必要なサポートが増えていました。更新を待たずに要介護認定の再認定を申請したところ、2から4になってしまったので、現実的に無理だと判断し、夫には単身赴任してもらうことにしました」
基本的に単身赴任中は、夫が毎週末帰ってきたが、時々冬木さんが夫の赴任先へ行くこともあった。しかし以前から母親は、冬木さんが出かけるたびに、「具合が悪い」「倒れて道行く人に助けてもらった」「救急車で運ばれた」などなど、わざと心配するようなことを言って冬木さんを呼び戻してきた。
「それが虚言だとわかってからは、あまり相手にしないようにしていました。でも、LINEや電話は止まらないので、私の気持ちは休まりませんでした……」
そんなとき、透析の主治医から精神科の受診を進められた。
精神科を受診した結果、母親の発言に統一性がないことや感情の起伏が激しいこと、鬱傾向や対人関係などを総合的にみて「境界性パーソナリティ障害」と診断。
それを聞いた冬木さんは、「ああ、そうか。とてもしっくりくる」と納得した。

■ダブルケアの始まり
2022年8月。冬木さんは妊娠した。
「私の母は、私を40歳で産んでいます。私は今で言うヤングケアラーで、18歳の頃から経済的に母を養い、25歳の頃から身体的に介護しています。私には母の世話があるため、仕事と介護に子育てが加わる生活が想像できず、出産に踏み込むことに躊躇していました。でも、私も出産が遅くなれば、自分の子どもに同じような経験をさせてしまうかもしれない。そう考えると躊躇している時間はないと思いました」
安定期前、冬木さんはつわりがひどく、食べては戻しての繰り返し。そんな11月、母親は腰椎の圧迫骨折に。
「透析の主治医から、母が腰を痛がっていると聞き、私が付き添って整形外科を受診したのですが、最初は骨折が見つからず、ぎっくり腰と診断されました。でも1カ月経っても良くならず、痛みが強くなったため再受診すると骨折が見つかり、入院となりました」
身重の冬木さんは、夫は単身赴任、母親は入院、義母は仕事という状況で、誰にも甘えられず、たった1人で横になって目を瞑り、ひたすらつわりと戦っていた。さらに12週頃には、「妊娠糖尿病」と診断。
しかし専門病院で詳細な検査をした結果、「全ての数値で異常なし! 胎児も正常に育っていますよ。
食べる順番に気を付ければ大丈夫」と言われ、胸を撫で下ろした。
冬木さんは2023年4月半ばに産休に入り、6月に31歳で男の子を出産。
夫は出産予定日の一週間前から有給で帰ってきて、産後1カ月間は育休を取得して家にいてくれた。
だが、2023年の2月に退院していた母親は、
「あなたの旦那が育休で帰ってくるのは、あなたを実家に帰さないための意地悪だ!」
と怒った。
冬木さんは産休に入る前、仕事が休みの土日には時間を見つけて少しでも顔を出すようにしていたが、母親は、
「最近全然顔も見せないし寄り付かない」とぼやき、毎回透析のあとには病院で昼食を食べてくるはずなのに、「今日は何にも食べてない」と平然と言うため、違和感を持った冬木さんが母親の入院中に検査を受けさせると、「初期の認知症」と診断された。
■初めての育児と介護
産院を退院した冬木さんは、初めての育児にてんてこ舞いだった。息子がなぜ泣いているかわからない時は冬木さんも泣いた。それでも、時間を見つけて母親の家に通った。
朝、5時半頃に息子の授乳で起きると、その後3時間おきくらいに授乳となる。8時頃には息子を連れて母親の様子見に行く。
10時頃に息子を連れて母親のための買い物へ行き、11時頃には母親の昼ご飯を用意。13時頃には自宅へ帰り、家のことをこなし、15時には自分用の食事や作り置きなどを用意。

16時頃になると再び息子を連れて母親の様子を見に行き、17時頃には帰宅して息子を沐浴させ、18時頃に寝かしつける。以降、朝5時半頃まで約3時間ごとに授乳した。
生まれたばかりの新生児の世話だけでも体力と精神力が必要だ。だが冬木さんの場合、そこへ母親のトラブル対応が加わる。
しかし冬木さんの場合、そこへ母親のトラブル対応が加わった。
「私が結婚したことによる孤独感と認知症のせいで、母は2日に1回は救急車を呼ぶようになり、私はそのたびに昼夜問わず呼び出されていました。息子の授乳や夜泣きの対応で起きるのは仕方のないことですが、夜通し寝てくれるようになっても、母は変わらず、夜中に着信が来たり、救急車を呼んだせいで救急隊から電話がかかってきたりしていました……」
夫が産休を終えて単身赴任先に戻ってからは、寝ている息子を1人で家に置いて行けず、息子を連れて母親のために緊急出動したこともしばしば。夫は、
「お義母さんのこともだけど、君の体や心が心配」と言って金曜日の仕事が終わった後に帰ってきて、日曜日の夜に単身赴任先に戻るという生活をしてくれた。
2023年7月。大動脈瘤の手術以降、定期通院していた母親に、濾胞性リンパ腫のステージIIという診断がおりる。
2024年4月。冬木さんは10カ月の息子を保育園に預け、仕事に復帰。

母親はリンパ腫が大きくなるスピードが速く、痛みも出てきたため、12月から抗がん剤治療を開始した。
■人生最大の悩み
2025年2月。抗がん剤の副作用で、母親は腹痛と吐き気が起きるたびに救急車を呼ぶようになった。相変わらず冬木さんは、昼夜問わず呼び出される。
「救急車を呼んでも、『抗がん剤の副作用です』と言われて帰されるので、徒労感が大きく、とても負担でした。母に救急車を呼ぶ必要はないと何度説明しても、忘れてしまうので収集が付かない状況でした……」
主治医に相談したところ、
「抗がん剤治療の成果でリンパ腫自体は消滅したから、そんなにしんどいならちょっとやめようか」
と言われ、ほっとした。
「仕事に復帰して、1人になる時間を持てるようになったのは精神的には大きかったです。でも、母は日々悪くなっていて、夫の単身赴任は続き、ワンオペ育児に介護に仕事とタスクは増える一方で、私の心を蝕んでいきました」
そうして迎えた3月。夫が単身赴任を終え、帰宅。ワンオペ育児から解放され、冬木さんは多少楽になったが、「母にはもう独居は不可能」と判断し、施設を検討し始める。
透析に通っている主治医から、
「境界性パーソナリティ障害と認知症があるから、できれば透析もできて精神科もある総合病院へ一度入院させて、救急要請をしないようにしようか」
と提案されていた。
ところがその話が2日後に一転。
主治医からは、
・精神科に入院したら強めの薬が処方されるため、本人らしさはなくなるだろう

・施設へ入所しても本人の抱える孤独感はなくならないから同じでは?

・本人が依存している娘さんと暮らすことが一番の解決法
こんな話をされ、冬木さんは困惑。
筆者は2019年からこれまで多くの介護現場の取材をしているが、ケアマネジャーやヘルパー、訪問看護師などの介護系の人には、介護者に寄り添う姿勢の人が多い一方、医師や病院看護師などの医療系の人は逆に、被介護者目線の人が多いように思う。冬木さんの母親の主治医もそうだった。
「赤ちゃんを育てている私が当時の母と一緒に暮らすことは100%無理でした。ケアマネさんもそこは十分に理解をしてくれていました。しかしその後、ダブルケアで疲労困憊の私の様子を見たケアマネさんが出してくれた提案が、私を人生最大に悩ませるものでした」
それは、「透析をやめて、死を待つ」という提案だった。
個人差はあるが、透析をやめた場合、一般的に1~2週間ほどで亡くなる場合が多い。透析を中止すると、体内に老廃物や水分が溜まり、意識障害、倦怠感、吐き気、呼吸困難、高カリウム血症などが起こり、最終的には生命維持が困難になる。
意を決して母親に「透析を止める?」と訊ねてみると
「孫の成長を見たいから頑張りたい」
と答えたが、いざ透析日になると
「行かない。行きたくない」
とごねてヘルパーの手を煩わせる。
「介護をしていると、『もうやめて解放されたい』と思うことはしょっちゅうあります。母は口では『あなたを心配している。子育てを手伝いたい』などと言いますが、昼夜問わず自分の体調や精神の不調を訴えてきたり、救急要請したり、私に負担をかけるようなことばかりします。でも、孫を見て目を細める母を目の前にして、その残酷な提案を受け入れられるかと言われたら……。まだ孫との会話を楽しめている。孫のために、手を叩いて歌っている。私が母の命の最期を決めていいものなのか。どうしたら良いのか、思考が止まってしまいます……」
■「早く死んでほしい」
母親からの昼夜問わずの鬼電や救急要請のせいで、精神的に追い詰められていた冬木さんは3月、ヘルパーやかかりつけ医との情報共有のための交換ノートに、「私は母に、早く死んでほしいと思っています」と書き込んだ。
それを見たヘルパーは、急いでケアマネに連絡。
「ここまで育児や仕事もありながら、よく1人で背負ってきましたね。もう少しです。がんばりましょう」
ケアマネの言葉に、冬木さんは涙が溢れた。
「『実の母なのに、早く死んでほしいと思うなんて私って最低』そんな気持ちになったりしていたのですが、『自分の人生を優先することは悪いことではない』と教えてもらいました。本来、娘が結婚したり初めて出産したりするときに一番に寄り添ってほしい存在であるはずの母親ですが、うちの場合は私が高校生のころから立場が逆で、それが当たり前に思ってしまっていました。昨今、ヤングケアラーという言葉を聞くようになりましたが、もっと前からこの言葉を知っていたら、もっと早く声を上げられたかも……と思うことも多いです」
冬木さんが「実の母に早く死んでほしいと思う私は最低」「自分の人生を優先することは悪いことである」と考えていたのは、社会からの「子どもは親の介護をするもの」というプレッシャーがそう思い込ませていたと言っても過言ではないだろう。
子どもをヤングケアラーにするのは毒親に他ならない。正しい情報を提供するはずの両親が不在な冬木さんの場合、医師や看護師、ケアマネやヘルパーが頼りだ。
冬木さんは、2年ほど前からケアマネに「施設への入所を考えたい」と話していたが、透析患者を受け入れてくれる施設がなかなか見つからずにいた。しかし、抱えきれなくなった本心をノートに吐き出したことで、一気に事態が動いた。
2025年4月。母親はサービス付き介護住宅へ入居。母親は施設入所に抵抗を示したが、最終的には諦め、受け入れた。母親が施設に入所して、冬木さんは朝まで眠れるようになった。
■母親の死
5月。施設から「腹痛を訴え、嘔吐があったため、救急車を呼びます」と連絡がある。
その日は「胃腸炎でしょう」と言われ、入院して治療することになったが、その5日後、冬木さんは主治医から呼び出された。
「胃腸炎ではなく、血中成分がほぼない状態(ひどい貧血)で、血液が血液の役割を果たしていないこと、透析用のシャント(動脈と静脈をつなぎ合わせ、血液を体外に大量に取り出して浄化し、再び体内に戻すための特別な血管)が閉塞してしまっていて、透析を続けることが困難な状態なこと、食事をとれていないため全身状態が極めて悪いことなどを説明され、『延命するかどうか、家族で決めてください』と言われました」
冬木さんは兄とケアマネに連絡する。
「18歳の時に家を出た兄はその後ずっと母や私のことが気にはなっていたそうで、2025年になったばかりの頃、たまたま母と私が介護タクシーで帰宅したところを見かけたらしく、『今どんな状態なの?』と連絡をしてきました。ちょうど夜中や朝方に救急要請を繰り返していた時期だったので、兄には病院への迎えを担当してもらいました」
兄は一度結婚をしたが、離婚して隣の市で1人暮らしをしていた。冬木さんだけが連絡をとっていた父親は、「きょうだいで協力しなさい」とだけ言っていた。
冬木さんは兄とケアマネと話し合い、透析離脱(人工透析をやめる)の決断をした。
母親は5月14日の透析を最後に緩和ケアに入ると5月31日に意識がなくなり、6月1日に亡くなった。
「過干渉で私に依存していた母は、私にとっては毒親でしかありません。身体的にも精神的にも金銭面も、ずっと支えてきたつもりです。子育てと介護の両立なんてできません。子どものことと母のこと、『優先するべきは?』と問われれば、回答に迷うことはないです。何年もずっと母の世話、仕事と育児で奮闘してきましたが、母の世話を終えて、正直ほっとしている自分がいます。こんな親不孝なことを言ってはバチが当たりそうですが、ずっと母に支配されていたけれど、やっと自分の人生が始まるんだという気持ちもあります。それでもやはり、母が死ぬとつらいです。だからこそ罪深いのだろうと思いますが……」
意識がなくなる前、病室に来ていた冬木さんと兄に、母親は突然しっかりした口調で、真剣な目をして言った。
冬木さんには、
「息子くんを健やかにしっかり育てなさい」
兄には、
「クヨクヨしないで、もう一度ちゃんと家庭を持って守りなさい」
「本当の親孝行というのは、生きている親に何かをしてあげることではないと思いました。本当の親孝行は、親が死んで初めてスタートするんだと思います。与えてもらったこの命を全うして、親を悲しませないような生き様を見せることが、一番の親孝行なんだと……。これからの私の生き様を、しっかりと空から見ていてほしいと思います」
冬木さんは、自分にベッタリと絡みつく母親から少しずつ距離を置こうとしながらも、完全には見捨てることができなかった。母親から依存されていたことはもちろん、お互いに共依存関係に陥っていたのだろう。
しかし最期まで見捨てず、看取ったことで、「やれるだけのことはやった」「私はよく頑張った」と自分を褒め、納得するに至ることができた。
介護で大切なのはこの「納得のプロセス」だ。先々を見通し、どうすれば後悔がないようにできるかを第一に考えて行動することが、ゆくゆくは介護者の心を守る。
本来子供は、親を介護していたとしても、自分の人生を優先していい。しかし、それがままならなかった冬木さんは、「これからはとにかく育児に集中したい。自分で築いた家庭を大事にしたい」と語る。
今後は、誰にも縛られない人生を楽しんでほしい。

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)

ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー

愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する~子どもを「所有物扱い」する母親たち~』(光文社新書)刊行。

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(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)
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