■「7月に日本で大災難」の噂は、香港でも…
今年春ごろから、「7月に日本で大災難」という噂が広まった影響で、香港から日本への観光客が激減している。
きっかけとなったのは、たつき諒さんの漫画『私が見た未来 完全版』(飛鳥新社)だ。この漫画では、著者のたつきさんが見た予知夢「大災難は2025年7月に起こる」という話が紹介されている。SNSで拡散され、日本でも大きな話題になったが、香港では地元の有名風水師も今夏に日本で災難が起こると予測したため、その両方の影響で日本行きを取りやめた人が続出したのだ。
影響は絶大で、とくにLCC(格安航空会社)のフライトの減便が相次いだ。香港航空は5月以降、福岡、名古屋、札幌便などを減便、鹿児島便は10月まで運休、グレーターベイ(大湾区)航空も5月から徳島便を減便したが、9月からは運休となることが決まり、米子便も8月末から運休となる予定だ。
キャセイ・パシフィック航空や日本航空、全日空などの減便はほぼなかったが、香港から日本の地方への定期便が軒並み減便になったことは、インバウンドに期待する日本の地方経済にとって痛手だった。というのも、香港からの訪日観光客は日本にとって非常に大きい存在だからだ。
■3割減の場合、日本に約2000億円の損失
日本政府観光局が7月16日に発表した今年上半期の訪日外国人客数は累計約2151万8100人で、前年同期比を約370万人上回った。国・地域別でみると、①韓国、②中国、③台湾、④米国、⑤香港の順だ。
観光庁による「訪日外国人の消費動向」(2024年)を見ると、旅行消費額の多い国・地域別では、①中国、②台湾、③韓国、④米国、⑤香港の順で、香港の旅行消費額は約6606億円と全体の8.1%を占めた。1人当たりの旅行支出では24万8882円となっている。単純比較はできないが、昨年の旅行消費額より、仮に今年、3割減少したとするならば、日本にとって2000億円ほどの損失になると考えられる。
■香港人にとって日本旅行は「里帰り」
同調査によると、香港の一般客の平均泊数は6.8泊、主な来訪目的は観光・レジャー(約94%)で、来訪回数は2~5回目(38.5%)、6~9回目(16.4%)の人が50%以上を占めるなど、リピーターが多かった。リピーターの多くは東京・大阪などの有名観光地以外の地方都市を訪れる傾向があり、そのことからも地方へのフライト減便は影響が大きかったと言わざるを得ない。
漫画の噂や風水師の予想など、思いもよらぬことによって激減した香港人の訪日だが、香港では日本旅行を「返郷下」(ファーンヒョンハ=広東語で「里帰り」の意味)」と呼び、海外旅行先として大人気だった。狭い香港では、旅行といえば海外旅行を指すが、高層ビルが立ち並び、人口密度が高い香港では味わえない日本のグルメやのどかな自然、ひなびた温泉などについて、「まるで故郷に帰ったような温かさを感じる」という人が多かったのだ。
香港に比べて日本は格段に物価が安いため、香港でお金がある人は頻繁に日本へ、お金がない人は隣接する中国の深圳へ、というのがこれまでの定番コースだった。だが、前述のような理由で、日本行きを断念した人々まで、最近では深圳に繰り出すようになった。
■新たなトレンド「北上消費」とは
「北上消費」とは、(香港から見て北に位置する)深圳など中国の都市に行き、食事や買い物、レジャーなどにお金を使うことをいう。香港は1997年に中国に返還され香港特別行政区となったが、これまで香港人が深圳に行く場合は「回郷証」と呼ばれる通行証を使ってイミグレーションを通過していた。さらに昨年からは顔認証も可能になり、従来以上に便利になった。
「北上消費」自体は以前からあったものの、それが加速したのは2020年からのコロナ禍だ。コロナ禍によって香港に来る海外の観光客が減少し、その前年に起きた民主化デモや国家安全維持法(国安法)の施行などの影響もあって景気は低迷。香港の人々の生活は苦しくなった。そこで、香港より物価が2~3割か、場合によって5割ほど安い深圳に行き、お金を節約しようとする人が増えたのだ。
■「香港は物価が高く、サービスの質も低下」
ある香港の友人は「香港は物価がとても高いというだけでなく、以前よりサービスが悪くなった。レストランで安い麺やご飯を食べても、少なくとも60~70香港ドル(約1080円~1260円)以上はするが、深圳に行けば安い上にサービスもいい。だから深圳に行きたいという人が多い」と話す。
香港では少しでも食費を安く済ませようとする人が多く、コロナ禍の最中、18時以降の外食制限があった頃から「兩餸飯」(リョンソンファン)と呼ばれるテイクアウトの弁当屋が流行り出した。
■中国が嫌いでも、深圳の物価は魅力的
このように、物価が高い香港での食費を節約し、その分、物価が比較的安い深圳に行き、深圳で香港名物の飲茶(ヤムチャ)を食べたり、日用品の買い出しやゲームセンターなどのレジャー、自動車のガソリン給油、マッサージ、エステなどに行ったりする人が多い。香港では予約で数カ月待ちのこともざらな上、高額な歯医者の通院も、わざわざ深圳まで行く人も多いそうだ。多い人は週に2~3回、少なくとも月に1回以上は深圳に行き、食事や買い物をしている。
私は1997年の香港返還より以前に香港に留学した経験があるが、当時の香港人の友人で、その後「大の中国嫌い」になった人も、今では頻繁に中国に買い物に行っている姿を見て、とても驚いた。中国のことは嫌いでも、現実に深圳の物価は魅力で、その点は割り切っているようだ。
そこまでして深圳に行くことについて、香港の別の知人のひとりは「もちろん、物価の安さや品質のよさなどコスパがいちばんの理由だが、香港では、2019年の民主化デモのあと、香港政府に絶望的な気持ちを抱いている人が多く、こんな地元にこれ以上お金を落としたくないという政府に対する抵抗の心理も働いているのでは……」と話す。これら複数の理由から、香港経済の空洞化や地盤沈下はより一層激しくなっているというのが現状だ。
■じわじわと進む「香港の中国化」
一方、香港には「新香港人」と呼ばれる人々も現れている。
高度人材であるため学歴が高く、収入が多い。彼らの香港移住の目的は、中国よりもグローバルな仕事に就けることや、子どもの教育のため、自由な生活環境のためなどさまざまだ。彼らは一般の香港人が住めないような高級物件に住み、子どもを香港で名門と呼ばれる学校に入学させている。香港大学や香港中文大学といった有名大学にも大陸出身の学生が多い。まるで今の日本に移住し、タワーマンションを買い漁ったり、東京大学に留学している中国人富裕層のようだが、彼らの影響で、香港では大陸資本の飲食店が増え、中国語が通じるところも増加しているというのが現状だ。
このように、香港では、漫画や風水師の影響で日本旅行に行く人が減少する反面、より多くの人々が深圳に繰り出し、深圳と香港の一体化は加速化している。中国政府は2017年から香港、広東省、マカオを一体化する「グレーターベイエリア構想」(粤港澳大湾区)を立ち上げ、2035年までにニューヨークやサンフランシスコ、東京の世界3大湾岸経済圏に匹敵させる経済圏にしたいとしているが、香港の空洞化は、中国化がますます進んでいることの証であり、結果として、中国政府が望むような方向に一歩一歩、着実に近づいているといえる。
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中島 恵(なかじま・けい)
フリージャーナリスト
山梨県生まれ。
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(フリージャーナリスト 中島 恵)