※本稿は、ブリジッド・ディレイニー著、鶴見 紀子訳『心穏やかに生きる哲学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)の一部を抜粋・再編集したものです。
■今を大切にするために「死を想像する」
ストア派は、自分にとって大切な人を生存中に偲ぶべきだと信じていました。来たる日に備えて、相手がまだ生きているうちに、その死をたびたび思い描くようにと彼らは助言します。セネカいわく、「友人と過ごす時間を思い切り味わいつくそう」。それは我が子と過ごす時間でも同じであり、「なぜならこの特別な権利はいつまで自分のものであるか分からないからだ」。
ストア哲学について学び始めた当初、私は、死など意識せずに人生を楽しく生きている人の死を想像するなんて陰気くさいと思いました。でもこれは、ローマ・ストア派の3人(セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウス)の教えの奥深くに埋め込まれた実践課題だったので、やってみることにしたのです。
この課題の目的は、友人が死んだときに悲しみに暮れて後悔するよりも、今この場に一緒にいる友人を大切にすることにあります。 セネカは言います。「失ってしまった相手を思い出すことが、私たちにとって確実に楽しい記憶となるようにしよう」。それが楽しい記憶となるのは、相手が生きているうちに心行くまで親交を深めたからであり、そうすれば相手が亡くなっても、苦しんだり不意打ちに感じたりすることはないのです。
■「最後の日」と考えると接し方が変わる
深い悲しみに備えるためにストア派が用いた方法は、「否定的な視覚化」と呼ばれるものでした(元のラテン語futurorum malorum proemeditationを直訳すれば「暗い未来を前もって検証する」)。
私は今でも、学生時代の友達が亡くなる前、最後に会ったときのことをはっきりと覚えています。海辺の町のカフェで働いている彼女に、ふらりと会いに行ったのです。私はボックス席に座っていて、彼女は仕事をしながら、客足が途切れたときにおしゃべりしに来てくれました。向かいにあるパン屋でソーセージ入りロールを買ってあったので、カフェで購入していないものを食べてもいいかしらと彼女に聞きました。「もちろんよ」と彼女は笑って言いました。「こっそり食べればいいわ」。私はコーヒーを注文して座り、いそいそと目立たないようにして、持ち込んだソーセージ入りロールを頬張り、一方で彼女は私との会話が途切れたのでお客さんのところに戻りました。ですが、会って話をしていたそのとき、私は友人がいつになく不安がっていることに気づいたのです。私は慰めて安心させようとしました。
■「また会えると思っていた」が後悔を生む
でも後に、彼女が亡くなってから私は思ったのです。
しかしストア派は、誰に対してもそうですが、特に身近な人々との出会いには、これが最後のつもりで臨むべきだといいます。この教えはなかなか受け入れがたいものです。特に子どもの死について考えるのは、ましてそれが自分の子どもの場合には。
■「大切な人の死」を想像する効果
ストア哲学の中で一番ぞっとさせられる一節はエピクテトスによるものです。
「あなたの愛するものが死ぬ定めにあることを思い出しなさい。……あなたが何かを楽しんでいるまさにそのときに、正反対の気持ちを持ちなさい。あなたがかわいい我が子にキスしているまさにそのときに、『おまえは明日死ぬのだよ』と声をかけたり、あるいは友人にも同様に、『明日我々の中の誰かが死んでしまい、もう会えなくなる』と告げてもさしつかえないのだ」
ストア哲学を知らない人が、エピクテトスの突き放すような言葉を読んだら、ストア派の人々は怪物集団だと見なされても仕方ないでしょう。
あなたが死ぬのは明日だ。
仲間のひとりが明日死んで、二度と会うことはない。
ストア派は、人生とは気まぐれで勝手なものだと信じていました。どんなに用心しても悪いことは起こり、死が皆を待ち受けていて、自分では死ぬときも選べないのです。病気で子どもの命が奪われたり、親しい人が過失で命を落とすかもしれません――まさに私の友人が薬の過剰摂取で亡くなったように。あるいは頭をひどく打って死にかけるかもしれません――。
この世は危険で不安定だと認識することで、ストア派は、最悪の事態になったときの辛さを否定的な視覚化が少しでも減らしてくれることを願っていたのです。
■「否定的な視覚化」はほどほどに
否定的な視覚化は、死を、避けられない当然のものとして受け入れる助けになるのかしら? 大切な人たちとの現在の関係は、相手が生きているうちに存在に感謝して大事にすれば、さらに良いものにできるのかしら?
実際、これを正しく行うためのプロセスは難しいでしょう。
アンドリューと私は、2019年のクリスマスの直後に会い、ストア哲学の実践をどういう風にやっていくのかを話し合いました。クリスマスを家族と過ごす時間は、いつでもストア哲学の実践にうってつけの状況で、その年のクリスマスも例外ではありませんでした。私は否定的な視覚化を試し始めたばかりで、何かうまくいったのかと言えば、大事な人たちが皆死んでいくという強い不安に囚われただけでした。
最愛の家族や親族と共にクリスマスの食卓を囲みながら、私は皆が死んでしまうところを想像しました。あまりに恐ろしくてぞっとしました。
■適度な視覚化は「一瞬だけ」
シドニーに戻ると、アンドリューは私に、否定的な視覚化は習慣的に行うにしても、一瞬で消えてしまうぐらいにしておくようにと勧めました。誰かが死んでしまうのをちらっと思い浮かべるだけにして、ずっとそればかりを考え続けないようにするのだと。彼は何度も否定的な視覚化を活用していて、「ときには難しいよね」と同意しました。「悪い筋書きに沿って考えるのは決して楽しいことじゃない。でもそれをやり遂げれば、どんな結果にも感謝するようになるんだ」。彼に言わせると、そうするのは「保険証書みたいなものさ――どんな結果でも甘んじて受け入れる、たとえ悪いものであってもね」
「それでもあなたは家族で過ごす楽しいひとときを味わうべきだ。
彼の助言には先見の明があったと証明されました。
パンデミックがオーストラリアで本格的に始まったのは、それから2、3カ月後の2020年3月で、すぐに国境が封鎖されました。ロックダウンの最中は家から5キロ以上離れたところには行けず、家族を訪ねるのもできませんでした。あの2019年のクリスマス、私が否定的な視覚化で、これが最後になると思い描いたあのときは、本当に最後になってしまうのかしら?
■別れを想像した瞬間「今」が特別になる
結果として最後にはならなかったのですが、すべての人の家族がそんな幸運に恵まれたわけではありませんでした。多くの人があの2年間に大事な家族を失い、葬儀に参列するのも、亡くなる前の最後の日々に寄り添うのもできなかったのです。
家族と会えなくなってから、皆が久しぶりに再会する楽しい時間が当然だとは思わず、とても特別なのだと分かりました。州境の閉鎖で家族と離れ離れになっていた2年以上の間、私は否定的な視覚化をきちんと行い、ただしアンドリューの助言どおりにほんの一瞬だけに留めるようにしました。
ロックダウンが一時的に解除になり、私が両親に会いに行けるときには、毎回これが最後の訪問であり、近々私たちの誰かが死ぬのだと想像しました。このように一瞬だけちらっと思い浮かべて、訪問するひとときを最大限に感謝して味わおうとしたのです。
両親と会う機会を毎回これが最後であるかのように大切にすることで、一緒に過ごせる喜びはより強くなったのです。
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ブリジッド・ディレイニー
ジャーナリスト
英国『ガーディアン』紙のジャーナリスト。毎週執筆している人気コラム「ブリジッド・ディレイニーの日記」は、オーストラリア、アメリカ、イギリスで広く読まれている。
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(ジャーナリスト ブリジッド・ディレイニー)