■なぜ「大奥」は閉鎖空間なのか
現在、上野の東京国立博物館の平成館で開かれている特別展「江戸☆大奥」を観に行った。愛子内親王などの女性皇族について考えていくと、現在の皇居の前身となる江戸城でどういった生活がくり広げられていたのか気になってくるからである。
大奥は江戸城にあり、徳川の歴代将軍の御台所(みだいどころ)(正室)や側室、さらにはそうした女性たちの生活を支える女中たちが暮らしていた場所である。
江戸城の本丸御殿は、「表」、「中奥」、「大奥」に分けられていた。表は政治や儀礼の場で、中奥は将軍が起居し政務を司った場である。大奥は、表や中奥とは銅塀で仕切られており、中奥と大奥をつなぐのは「御鈴(おすず)廊下」だけであった。大奥は男子禁制で、御殿医以外の男性は入ることができなかった。
平安京における後宮のあり方については、拙著『日本人にとって皇室とは何か』の第4章でもふれた。そちらが男子も自由に立ち入ることができる開かれた空間であったのに対して、大奥は閉鎖的な空間であり、その点で対照的である。
平安京における後宮が開放的であったことは、世界史的に見ても特筆すべきことだが、大奥の場合には、世界の王室に見られる「ハーレム」と共通する。将軍の血を引いた正しい世継ぎを確保できるよう、外界とは隔絶されていたのだ。
■正室から生まれた徳川家将軍は誰か
ところがである。
最後の将軍となった慶喜の場合には、正室の子として生まれてはいるのだが、父は水戸藩主の徳川斉昭だった。つまり、生母が将軍の御台所であったわけではない。
最初、徳川将軍の御台所は、豊臣秀吉の妹や養女であったりした。だが、第3代将軍の家光からは、摂関家や親王家から嫁いでくるようになる。第14代将軍の家茂ともなれば、その御台所は光明天皇の妹和宮(かずのみや)だった。
これは、当時進められていた「公武合体」の一環だった。公である朝廷の権威と、武としての幕府を結びつけ、開国を迫られた政治体制の強化をはかろうとしたのである。
だが、最も悲劇的なのは、第7代将軍家継の御台所となった吉子(よしこ)内親王だった。彼女は、第112代の霊元天皇の第13皇女だったが、婚約したのは満1歳のときである。ところが、納采の儀の2カ月後に家継がわずか6歳で夭折しているため、1歳7カ月で後家になっている。
■東京ドーム1.5個分にもなる広大な大奥
展示で目を引いたのが、「江戸城本丸大奥総地図」であった。これは江戸時代の19世紀に描かれたものである。縦横とも2メートルを超えており、大奥がいかに広大なものであったかがその地図に示されていた。
大奥の広さは約6300坪で、2万平方メートル以上ある。東京ドームのグラウンド部分が1万3000平方メートルだから、その約1.5個分になる。
大奥がそれだけ広かったのも、そこが閉ざされた空間になっていて、そこで暮らす人々は、御台所をはじめとして皆、特別な事情がない限り、その外に出られなかったからである。
徳川家の菩提寺である寛永寺や増上寺へ参拝する際、名代となって派遣されたのは高位の女中である「御年寄(おとしより)」だった。御台所自身が、江戸城の城外へ出ることは滅多になかった。
女中については、「宿下がり」といって実家に帰ることはできたものの、それも簡単には許されなかった。
大奥のトップになる「御年寄」をはじめ身分の高い女性たちは旗本の家から選ばれ、下のクラスになると旗本以外の武家や庶民の家の出になる。身分が高ければ、原則は「一生奉公」で、生涯を大奥で送ることとなった。それに見合うよう、大奥は広大な敷地面積を確保していたのだ。下のクラスの女中の場合は、10年程度の年季奉公で、花嫁修業としての性格があった。
■たとえ親族でも情報漏洩は御法度
大奥で生活する者に対しては、その規則が「大奥法度(おおおくはっと)」で定められていた。これは、第2代将軍の時代である1618年(元和4年)に定められたものだった。
大奥法度によれば、男子禁制である大奥は、女中の親族でも面会できる男性は9歳までだった。門限は夕方の6時で、それ以降は出入りできない。出入りには手形が必要で、大奥内部のことについては、たとえ親族であっても情報を漏洩(ろうえい)することは禁止されていた。法度の条文は紙に書き出され、女中が目にする壁や板に掲示されていた。そのため、それは「壁書(へきしょ)」と呼ばれた。
こうした体制が敷かれていたため、大奥が存在した江戸時代には、その内部の様子はほとんど外に伝えられなかった。したがって、「江戸☆大奥」展で、大奥での生活の様子を描いた絵画は、皆、明治時代になってからのもので、いずれも想像で描かれていた。大奥で暮らした女性たちの証言が記録されるのも明治以降である。
■「天下祭」の開放性と大奥の閉鎖性
「江戸☆大奥」展では、婚礼調度をはじめ、御台所や女中たちが身にまとった着物の数々、あるいは、かるたや楽器などの遊び道具が出品されており、そうしたものからはそこでの暮らしが想像された。
江戸時代に描かれた絵の中には、「天下祭」の様子を描いたものがあった。天下祭とは、江戸総鎮守とされた神田明神の神田祭と、徳川家康が江戸城の鎮守としたことに始まる赤坂日枝神社の山王祭のことである。
これは隔年で開かれ、祭に出る山車や神輿は、江戸城内に繰り込み、それを将軍や大奥の女性たちが観覧した。彼女たちにとって、それが何よりもの楽しみになっていたことは、大奥の閉鎖性を考えれば十分に理解できるところである。
展示の中には、歌舞伎の衣装も数多く含まれていた。歌舞伎とは言っても、男子禁制の大奥に男性の歌舞伎役者が出向くわけにはいかない。演じたのは、芸達者な女中たちで、アマチュアの芝居に過ぎなかった。そもそも女性の歌舞伎役者は、歌舞伎が生まれた初期の時代にはいたが、それ以降は禁止され、存在しなかった。
■伝説のスキャンダル「江島生島事件」の本質
そうした大奥での最大のスキャンダルとなったのが、1714(正徳4)年に起こった「江島生島(えじまいくしま)事件」である。江島とは第7代将軍家継の生母となった月光院に仕えた御年寄のことである。
彼女は、月光院の名代として増上寺に代参に行くが、その帰り、懇意にしていた呉服屋の誘いで、木挽町の山村座で歌舞伎を鑑賞した。その後には、役者の生島新五郎を交えての宴席にもつらなり、それで大奥の門限を破ってしまうのだ。
江島は生島と密通したのではないかという噂も立ったが、それについては当人たちは否定している。しかし、背後には大奥内部での権力争いがあり、江島も生島も流罪に処せられている。この事件も、大奥がいかに閉鎖的な世界であるかを象徴するものとして、そのイメージ形成に大きく影響した。
将軍の世継ぎを確保するために、大奥という大規模な仕組みが作り上げられ、それを外界から隔絶させるために大きな努力が払われた。しかも、ここまで見てきたところから明らかなように、大奥を維持するためには莫大な費用が必要だった。
女中の数は、多い時で1000人に達し、年間の維持費は20万両になったとも言われる。今の貨幣価値に換算すれば、200億円から240億円ほどと見込まれる。にもかかわらず、御台所から生まれた将軍はたった一人だった。
■徳川家出身の女性皇族によるメッセージの重み
私が、「江戸☆大奥」展を見終わって思い出したのは、昭和天皇の弟である高松宮宣仁親王の妃、喜久子妃のかつての発言である。喜久子妃の父親は、慶喜の七男であった慶久であった。つまり、彼女は最後の将軍の孫であり、もともとは徳川家の人間なのだ。
彼女が高松宮宣仁親王と結婚したのは、1930(昭和5)年のことだった。徳川家で育った以上、世継ぎを確保することがいかに大変なことであるかを知り尽くしていたに違いない。
その喜久子妃は、愛子内親王が誕生した直後、『婦人公論』誌(2002年1月22日号)に「敬宮愛子さまご誕生に想う めでたさを何にたとへむ」という文章を寄稿していた。
その中で喜久子妃は、「一姫二太郎」という言葉にふれ、「『二太郎』への期待が雅子妃殿下に過度の心理的負担をお掛けするようなことがあってはなりません」と、雅子妃への配慮を示した後、次のように述べていた。
「それにつけても、法律関係の責任者の間で慎重に検討して戴かなくてはならないのは、皇室典範の最初の條項を今後どうするかでしょう。女性の皇族が第百二十七代の天皇さまとして御即位遊ばす場合のあり得ること、それを考えておくのは、長い日本の歴史に鑑みて決して不自然なことではないと存じます」
もちろんこれが書かれたのは、本年9月6日に「成年式」を迎える悠仁親王が誕生する前のことである。愛子内親王の次に男子の皇族が生まれるのかどうかわからない状況のもとで書かれている。
しかし、これが徳川家出身の女性皇族から発せられたメッセージであることを考えると、私たちはそれを重く受けとめなければならないのではないだろうか。
徳川家は、側室によって世継ぎを確保してきた。今、そうした方法はあり得ない。女性天皇、女系天皇への道を開いておくために皇室典範を改正することは、今こそ極めて重要な課題なのである。
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島田 裕巳(しまだ・ひろみ)
宗教学者、作家
放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、同客員研究員を歴任。『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)、『教養としての世界宗教史』(宝島社)、『宗教別おもてなしマニュアル』(中公新書ラクレ)、『新宗教 戦後政争史』(朝日新書)など著書多数。
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(宗教学者、作家 島田 裕巳)