田沼意次とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「進めようとした改革案を見るに、開明的な精神と果敢な性格の持ち主であったことがよくわかる。
だが、それゆえに守旧派から大きな反発を食らってしまった」という――。
■田沼意次がうけたあまりにひどすぎる仕打ち
田沼意次(渡辺謙)が権勢を誇ったのは、徳川家治(眞島秀和)が10代目の将軍職を継いで以来、側近く仕え、その後も終始、家治から絶大な信頼を寄せられていたからだった。しかし、NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の第31回「我が名は天」(8月17日放送)で、その家治は急病に倒れ、あっという間に逝ってしまった。
そのころの幕府では、昨今の日本の某政党によく似て、反田沼派による「田沼おろし」の機運が高まっていた。そのタイミングで最大にして唯一の後ろ盾を失ったのは、意次にとってあまりに痛かった。
第32回「新之助の義」(8月24日)で意次は、御三家のほか、次期将軍の父である一橋治済(生田斗真)ら御三卿の強い意向で、天明6年(1786)8月27日、老中職を辞職に追い込まれる。そればかりか、閏10月5日には謹慎を命じられ、老中在任中に加増された2万石を召し上げられてしまう。
その後、いったん赦免されるが、御三家、御三卿から処分がまだ甘いという声が噴出。翌年10月2日には蟄居および孫の意明(おきあき)への譲渡を命じられ、残りの所領3万7000石も居城の相良城(静岡県牧之原市)も召し上げられ、意明のために奥州下村(福島県福島市)にあらためて1万石があたえられた。
江戸時代に失脚し、これほどの仕打ちをうけた元実力者はほかにいない。それは意次が進めてきた、そして進めようとしていた政策があたらしく画期的で、それだけに守旧派には都合が悪かったからにほかならない。
■松平定信に完全否定された政策
意次が老中を辞めさせられてから蟄居を命じられるまで、1年余りの期間があり、その間に老中に就任したのが松平定信(井上祐貴)だった。

8代将軍吉宗が将軍の血筋を絶やさないために、自分の子や孫を家祖にしてつくった田安家、一橋家、清水家。その御三卿の筆頭である田安家に生まれ、聡明で将軍候補ともいわれながら、白河藩(福島県白河市)の松平家を継がされた――。そんな定信は、自分を白河に追いやった張本人として、意次を恨み続けてきた。
それだけに老中になると、いわばキャンペーンのように「反田沼」を高々と打ち上げ、田沼時代の政策を否定していった。
もっとも、最近では、定信が行った「寛政の改革」には、意外にも田沼政権との連続性が少なくない点が見直されている。とはいえ、一橋治済を筆頭に御三家、御三卿の後ろ盾で政権をになう以上、「反田沼」は下ろせない看板だった。
そして、定信が中止した意次の政策を見ると、田沼政治がいかに先進的であったか、如実にわかるのである。
■画期的な水上流通路
田沼時代は文化面での自由度が高かった。それが定信の時代になると、出版のほか、芝居などの庶民の娯楽にも厳しい統制が加えられた。「べらぼう」の主人公、蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)も風紀を乱したとして「身代半減」、つまり財産を半分没収という処罰を受ける。だが、ここでは主に経済面の施策を見ていきたい。
たとえば、歴史の授業でも習う下総(千葉県北部と茨城県南西部)の印旛沼と手賀沼の干拓事業。
これは農地を拡大して米を増産することも目的のひとつだったが、それ以上に大きなねらいがあった。利根川から印旛沼をとおって江戸につながる水上の流通路を、意次は整備しようとしたのである。
当時、東北地方や北陸地方の日本海側から、津軽海峡を経由し太平洋岸を南下して江戸に向かう東回り航路は、リスクが高かった。とくに冬の季節風や黒潮の影響を受ける房総半島沖は、航海の難所として知られていた。しかし、印旛沼を経由する流通路ができれば、リスクを回避できるうえ航路が大幅に短縮され、商品の流通がかなり活性化するはずだった。
ところが、「べらぼう」の第31回でも描かれたが、将軍家治が死去する1カ月前、関東平野が大洪水に見舞われ、3分の2は完成していた工事箇所の多くが土砂に埋もれてしまった。その後、定信は計画自体を中止にしている。
■設立間近だった「中央銀行」
意次は通貨政策も新しかった。江戸時代には金貨、銀貨、銭貨がそれぞれ独立していたので、それぞれの交換相場は状況次第で変動した。それでは不便なので、意次は8枚で小判1枚と交換できる純度が98%の銀貨「南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)」を発行。通貨の一元化を進め、貨幣の価値を安定させて、相場の変動にわずらわされないようにしたのだ。
金貨と銀貨の両替で利益を上げていた両替商は反発したが、大きな変革が起きるとき、古いシステムに依存する業者の抵抗は、いつの時代も起きる。
そんななかでも南鐐二朱銀は次第に定着しつつあったが、定信はこれを廃止した。
金融に関していえば、定信の時代を迎える前に頓挫したが、「べらぼう」第30回「人まね歌麿」(8月10日放送)で描写され、大名たちが激しく反発した「貸金会所」も、じつは画期的な構想だった。
これは幕府が、いわば銀行を設立し、商人のほか農民や寺社などからも金銭を少しずつ、幅広く集め、財政難の大名や旗本に救済資金として貸し出そうとしたものだ。意次は、現代でいう中央銀行のようなものを設立しようとしたのである。
ところが、あらたな税負担と受け止めた人たちばかりか、救済されるはずの大名や旗本も反発した。支配層の彼らにすれば、被支配層から徴収した金から融資を受けるのは、体面が許さなかったのだ。ともかく、こうして画期的な「中央銀行」設立は頓挫してしまった。
■意次と意知父子が画策していたこと
「べらぼう」で大きく取り上げられたのが蝦夷地(北海道)の開発だった。それまで蝦夷地を管轄していた松前藩は、アイヌに耕作をさせなかった。耕作して生活が安定すると狩猟を放棄し、鮭や毛皮が得られなくなると考えたからだった。ところが、意次はアイヌに農具や種子をあたえて農民化しようとした。
本土からの入植も計画し、さらに調査を進めて開発し、箱館を開港してロシアと貿易することも検討していた。

秦新二・竹之下誠一著『田沼意次・意知父子を誰が消し去った?』(清水書院)は、日本とオランダの交渉史に関する海外の文献等を調査し、田沼時代に開国が検討されていたことを明かしている。
同書によれば、意次の嫡男の意知が天明4年(1784)3月、佐野政言に斬殺された際、オランダ商館長のイサーク・ティチングは次のように記していた。「この暗殺のために、日本が外国人に開放され、日本人が他国を訪問するのが見られる希望はまったく絶たれてしまった。このような企てが成功するのにもっとも必要なものは、ただほんとに開明的な精神と果敢な性格の持主の人ということだけである」。
この記述から、意次が意知とともに「果敢な性格」で周囲の反対を押し切って、日本の開国を模索していたことが伝わる。
■ペリー来航より100年早い開国
意知が暗殺されたのちも、すでに日本を離れていたティチングは、バダビア(現在のジャカルタ)から1786年3月10日付で、親しい幕府御典医の桂川甫周(かつらがわほしゅう)へ宛てた手紙に、次のように書いていた。「私は五年以内に、何の制約もなく日本国内を自由に旅行し、動き回れることを確信しています。それはある方との約束により実現可能ですし、そのことについては最大の努力をすることを厭いません」。
「ある方」が意次を指すかどうかわからないが、少なくとも、意次が目指す方向について語られていることは間違いない。前掲書にはこう断言されている。「意次が求めたのはペリーより一〇〇年早い開国だった」。
もし、それが実現していたら、日本はもっと早い時期から欧米の列強に伍しつつ、少しずつ国力を高めていけたのではないだろうか。
明治維新のような、後年に大きなひずみを生む極端な改革をしなくても済んだのではないだろうか。そんなことを夢想してしまう。
だが、井の中の蛙である守旧派は、大きな流れに目を向けられない。古いしがらみに拠って立つ自分たちの足元が揺らぐのを嫌い、大きな流れに沿った改革を嫌う。だから、田沼意次は後ろ盾を失った途端に、無残なまでに排斥された。
このため、日本が世界の大波に乗るチャンスは失われ、改革を阻止した守旧派は、明治維新において手痛いしっぺ返しを食らうことになった。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。


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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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