皇室に関する国家事務を担う宮内庁。そのトップである宮内庁長官はどのような仕事をしているのか。
ジャーナリストの井上亮(いのうえまこと)さんが書いた『宮内庁長官 象徴天皇の盾として』(講談社現代新書)から、初代宮内庁長官の田島道治(たじまみちじ)が、昭和天皇から聞き取った「生の言葉」を紹介する――。
■「天皇の生の言葉」はどう伝えられてきたのか
天皇はふだんどのような会話をし、どんな考えを持っているのか。
天皇に接した人の証言が手がかりだが、それだけでは情報が少なすぎるし、天皇との対話をあるがままに外部に語る人はほとんどいない。やはり天皇という立場への配慮があり、「公式答弁」にならざるをえない。
天皇の「生の言葉」は、聞いた本人が公表する意図なく正直に書き留めた日記、備忘録、メモに表れている。昭和天皇に関しては、戦前は侍従武官長の本庄繁(ほんじょうしげる)、内大臣の木戸幸一(きどこういち)、侍従の小倉庫次(おぐらくらじ)、戦後は侍従次長の木下道雄(きのしたみちお)、侍従長の入江相政(いりえすけまさ)、侍従の卜部亮吾(うらべりょうご)など、数多くの日記が刊行物として世に出ており、私たちは非公式に語られた天皇の言葉を知ることができる。
そこには包み隠さない天皇のホンネが現れており、人柄、人間性とともに、さまざまな事象にたいしてどのような考えを持っていたかを知ることができる。日本の近現代史において天皇は欠くことのできないキーパーソンであり、その心の内が垣間見える側近の日記類は第一級の歴史資料である。
ただ、これらはオクの人たちによるものである。これまでオモテの長である宮内庁長官の日記、メモ類で世に出ているものは二例しかない。初代の田島道治と昭和末期の富田朝彦(とみたともひこ)のみである。やはり天皇に日常的に接しているオクの人間だからこそ聞けることがあるのだろう、とも思える。

その先入観を一変させたのが、2021年12月から『昭和天皇拝謁記』(岩波書店)として全7巻が刊行された田島の備忘録、日記、資料群である。
■昭和天皇による“驚きの人物評”
これまで刊行されたオクの人びとの日記に記されていた天皇の言葉は断片的なものや、いわゆる「丸めた」(筆者による要約)表現が多かった。ところが、田島の『拝謁記』は速記者が書きとった国会議事録のように、天皇との対話が詳細に記述されている。
まさに録音を再生したかのようで、記憶を元にまとめたとは信じがたい生々しさと分量だ。従来の側近の日記とは一線を画す、昭和天皇関連としては突出した資料といえる。天皇の人格、人間観、世界観、思想のすべてとはいえないが、そのかなりの部分を知ることができるといえよう。
『拝謁記』のような膨大な対話記録ができあがった背景には、占領期・象徴天皇制の揺籃期という特殊な状況で、オモテとオクを兼務したような田島の役割があったとみられる。
田島が聞き取った昭和天皇の戦争、歴史、象徴、家族への考えかたも興味深いのだが、読むものを驚かせるのが人物評である。まず、先の戦争に重大な責任がある二大人物、元首相の近衛文麿(このえふみまろ)と東條英機(とうじょうひでき)にたいする見かただ。
■「近衛は結局無責任のそしりを免れぬ」
1949(昭和24)年11月5日、天皇は前年3月まで首相を務めていた社会党の片山哲(かたやまてつ)について、善人だが押され弱いと評した。善人は弱く、逆に強い者は善人ではないところがあり、「人は難しい」と語った。
その流れで「近衛と東条との性格を一人にて兼備するものはなきか」と慨嘆する。
「東条は条件的にちやんちやんとやつた。近衛は結局無責任のそしりを免れぬ」のだという(『昭和天皇拝謁記1』)。同じことをくりかえし話していたようで、1カ月後も田島は「東条と近衛とを一身に持つ様な人間があればと思ふとのいつもの仰せを相当永くいろいろの実例にて御話あり」(11月30日、同)と書いている。
筆頭華族出身の育ちの良さ、長身で弁もさわやかで国民に人気があった近衛だが、実務能力に乏しく責任をすぐ投げ出す。東條はものごとに細かく、実務的なことはきちんと実行する。しかし、強権的で説明不足の面があり、人びとの恨みを買った。天皇はそれぞれ一長一短があったと感じていた。
■「太平洋戦争は近衛が始めたといつてよい」
ただ、ふたりを対等に見ていたわけではない。近衛にたいする評価の方が厳しい。
近衛は意思が弱いし、悪(にく)まれたくないし、聞き上手で誰れにもかつがれるし……。(略)近衛は数字が分らぬ。数字の説明など東条がすると、眠つて了(しま)ふやうな事がある。
本当に春秋の筆法からすれば、太平洋戦争は近衛が始めたといつてよい(1952[昭和27]年4月5日、『昭和天皇拝謁記3』)
私と近衛とが意見が一致してたやうに世の中は見てるようだが、これは事実相違だ。(略)近衛が私の考へと一致と見るのは皮相な事で、むしろ場合によれば正反対だ(略)近衛はきゝ上手又話し上手、演説も一寸要点をいつて中々うまいし、人気はあるし、中々偉い点もあつたやうだ。(略)いろいろ長所あつたが、余りに人気を気にして、弱くて、どうも私はあまり同一意見の事はなかつた。(同年5月28日、同)

天皇は近衛と馬が合わないが、内大臣の木戸幸一は「事務的」で「話がよく出来る」と言う。なぜなら「私自身も事務的だから」ということだった。
近衛はよく話すけれどもあてにならず、いつの間にか抜けていふし、人はいかもの食ひで一寸変つたやうな人が好きで、之を重く用ふるが、又直きにその考へも変る。政事家的といふのか知らんが、事務的ではない。
■東條には「いい面と悪い面」があった
近衛をこき下ろす一方で東條については「いい面と悪い面二つがある」とやや同情的である。
東条は之に反して事務的であつた。そして相当な点強かつた。強かつた為に部下からきらはれ始めた(略)東条は、政治上の大きな見通しを誤つたといふ点はあつたかも知れぬし、強過ぎて部下がいふ事をきかなくなつた程下剋上的の勢が強く、あの場合若し戦争にならぬようにすれば内乱を起した事になつたかも知れず、又東条の辞職の頃はあのまゝ居れば殺されたかも知れない。(同)
ただ、東條も天皇の意に添う人物ではなかった。
「東条も結論だけしか話さぬ式で、徹底する時は結構だが、納得して徹底せぬやうな傾きのある場合に結論だけいふのは駄目になる」(1951[昭和26]年9月8日、『昭和天皇拝謁記2』)とその欠点を挙げる。なによりも信頼を欠いていた。
東条は私の心持を全然知らぬでもないと思ふが、とても鈴木貫太郎(終戦時の首相)のやうに本当に私の気持を知つてない。終戦は鈴木、米内(光政、海相)、木戸、それから陸相の阿南(惟幾)と皆私の気持をよく理解してゝくれて其コムビがよかつた。東条と木戸わるくはなかつたが、とても鈴木の時のやうではない。(同年10月30日、同)
■「死刑でなきことは不思議」とまで言われた軍人も
軍人にたいする評は辛辣で、元侍従武官長の本庄繁、元参謀総長の杉山元(すぎやまはじめ)は戦犯になるのが嫌で自決しただけ、と吐き捨てるように言う。
東京裁判のA級戦犯で死刑を免れた元陸軍中将・企画院総裁の鈴木貞一(すずきていいち)、クーデター計画の三月事件・十月事件首謀者の元陸軍大佐・橋本欣五郎(はしもときんごろう)、親独派の元陸軍中将・駐独大使の大島浩(おおしまひろし)については「死刑でなきは不思議」とまで語っている。
皇道派の元陸軍大臣の荒木貞夫(あらきさだお)は「支那事変を拡大せしめた」と言い、同じく皇道派巨頭の元教育総監・真崎甚三郎(まさきじんざぶろう)は「士官学校で政治の事を青年将校にふきこんだ」として、二・二六事件の要因を作ったと見ていた。そして「軍人の派閥が天皇をかついで此間の戦争はやつたのだ。機関説を攻撃した軍人が機関説のひどい実行をしたのだ」(1952[昭和27]年12月18日、『昭和天皇拝謁記4』)と話した。
主権は国家にあり、天皇は国家の最高機関とする憲法学説「天皇機関説」を軍が攻撃し、天皇の神格化が進んだが、それを悪用したのが軍だという恨み節である。
■米国に戦争の責任を押し付けるような発言も
一方で海軍軍人には比較的好意的で、「海軍将官級中、山梨の絶対なること仰せあり」(51[同26]年7月2日、『昭和天皇拝謁記2』)と田島は記している。
海軍次官時代に軍縮に奔走し、退役後に学習院院長を務めた山梨勝之進(やまなしかつのしん)のことだ。
天皇は山梨の「徹底的の軍縮及英米主義」と「平和に処して常に一貫した態度」を高く評価していた。政治家に関しては近衛以外にもさまざまな人物について話しているが、開戦時の商工大臣でA級戦犯容疑者だった岸信介(きしのぶすけ)(のちの首相)が公職追放を解除された際は、「主戦論者」の岸の解除は「おかしい」「失当」と文句を言っている。
戦前、戦中の政府中枢のことは田島にはあずかり知らないことなので、近衛や東條ら軍人についての天皇の評については聞き役に徹していて、とくに意見を述べていない。天皇が近衛らに手厳しいのは、「輔弼機関責任論」が確たる信念としてあったからだろう。無意識の自己責任回避だったのかもしれない。それが行き過ぎることも再三だった。
「私の勝手のグチだが」と断りながらも、「米国が満洲事変の時もつと強く出て呉れるか、或いは適当に妥協してあとの事は絶対駄目と出てくれゝばよかつたと思ふ」(1950[昭和25]年12月1日、『昭和天皇拝謁記2』)として、満洲事変の際の米国の対日姿勢が融和的だったがゆえにのちの太平洋戦争を招いたかのようなことを話している。
■屁理屈的な発言に、宮内庁長官もたじろぐ
さらに米・英・日の主力艦比率を五・五・三に決めた1922(大正11)年のワシントン海軍軍縮条約までさかのぼり、これが海軍を刺激して戦争へとつながったと言う。
春秋の筆法なればHughes国務長官(軍縮条約調印当時の米国国務長官ヒューズ)がパールハーバーの奇襲をしたともいへる(同)
真珠湾攻撃は米国が引き起こしたという言い分は、春秋の筆法=論理の飛躍どころではない、責任逃れの屁理屈であろう。田島はさすがにまずいと思ったのか、「これは此御部屋の中だけの御話でございます」と釘を刺した。

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井上 亮 (いのうえ・まこと)

ジャーナリスト

1961年大阪府生まれ。
全国紙記者として皇室、歴史問題などの分野を担当。元宮内庁長官の「富田メモ」報道で2006年度新聞協会賞を受賞。2022年度日本記者クラブ賞を受賞。2024年4月に新聞社を退職。著書に『比翼の象徴 明仁・美智子伝』(上中下、岩波書店)、『天皇と葬儀』『焦土からの再生』(ともに新潮社)、『熱風の日本史』(日本経済新聞出版社)、『天皇の戦争宝庫』(ちくま新書)、『象徴天皇の旅』(平凡社新書)、『宮内庁長官 象徴天皇の盾として』(講談社現代新書)などがある。

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(ジャーナリスト 井上 亮 )
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