■東條英機らA級戦犯7人の遺体(遺骨)の行方
終戦記念日をもって、戦後80年の節目のセレモニーが終わった感がある。だが、1945(昭和20)年8月15日以降も「戦争」は続いた。
たとえば、戦犯の裁判と刑の執行である。A級戦犯は東京裁判を経て、25人が有罪判決を受け、東條英機ら7人に死刑判決が下った。後に、A級戦犯の「御霊」は靖国神社に祀られたが、彼らの「遺体(遺骨)」の行方や墓がどうなったのか、はあまり知られていない。
2021(令和3)年6月7日、毎日新聞は米軍公文書の機密解除に伴って、「昭和史の謎」とされていた「A級戦犯の遺骨処理の方法」が判明した、と報じた。死刑判決を受けたA級戦犯は以下の計7人である。
東條英機=元首相

広田弘毅=元首相

板垣征四郎=元陸軍大臣

土肥原賢二=元陸軍大将

松井石根=元陸軍大将

木村兵太郎=元陸軍大将

武藤章=元陸軍中将
絞首刑が執行されたのは、1948(昭和23)年12月23日。同紙や米軍資料などによれば、その際、処刑に立ち会った米軍少佐が「戦争犯罪人の処刑と遺体の最終処分に関する詳細」を記録していたという。
報告書によると、少佐は同日午前零時すぎ、巣鴨プリズンでの絞首刑を見届けた。
なお、7人のうち多くが処刑に際し、辞世の句を詠んでいる。
東條英機は処刑前日に複数の辞世の句を詠んだとされる。戦争犯罪人として重大な責任を負い、裁かれた人物ではあったが、最期は仏法に篤く帰依したのかもしれない。
「さらばなり 有為の奥山 今日越えて 弥陀のみもとに 行くぞ嬉しき」

(苦悩と迷いの現世を越えて、阿弥陀仏の浄土へ行けることは何という喜びであろうか)
また、松井石根も処刑直前に以下のような辞世の句を詠んでいる。
松井石根はハルビン特務機関長、台湾軍司令官などを経て、日中戦争では上海派遣軍司令官に就任。1937(昭和12)年の南京攻略では指揮にあたった人物である。
「天地(あやつち)も 人もうらみず ひとすじに 無畏(むい)を念じて 安らけく逝く」 

(天も地も人も恨むことなく、仏法に導かれて恐れることなく、安らかに逝く)
■昭和23年12月23日午前零時すぎ、巣鴨プリズンで絞首刑の後
絶命した7人の遺体は午前2時10分にトラックに載せられて出発。午前3時40分頃に横浜市の米軍第108墓地登録小隊(現横浜緑ケ丘高)に到着して、遺体は仮置きされた。午前8時すぎには同市内の久保山斎場に運ばれ、火葬された。
7人の遺骨はそれぞれ別の骨壺に入れられた。そして当日のうちに米軍機で相模湾沖30マイル(約48km)に運ばれ、先述の少佐らによって上空から太平洋にばら撒かれたのだ。指令文書には、「殉教者化を防ぐため墓を設けることを避け、遺灰を海に処分せよ」と明記されている。
つまり、7人は「水葬」にされていたのだ。B・C級戦犯に関しても、横浜裁判とマニラ裁判を受けた日本の軍人の一部は、水葬されたと報告されている。GHQは日本国内に「殉国者」の墓をつくらせなかったのだ。
米軍による敵対者の水葬の例は他にもある。
米同時多発テロ以降のイスラム過激派の指導者掃討作戦の中で、オサマ・ビンラディンが殺害されたのは記憶に新しい。彼の遺体は空母カール・ヴィンソンに運ばれ、イスラム教の葬送儀礼を行った後、アラビア海に水葬されている。これもやはり、墓がイスラム過激派の「巡礼地」になってしまうことを避けたためである。
先述のようにA級戦犯7人は、太平洋へと散った。GHQは当初、靖国神社にA級戦犯の御霊を合祀することを除外するよう指示したが、サンフランシスコ講和条約(1951年9月8日、日本と連合国48カ国との間で締結された平和条約)が発効して(1952年4月28日)日本の主権が回復すると、政府は戦犯を「公務死者」として名誉回復する方向に傾いていった。
およそ四半世紀後の1978年10月17日、靖国神社は独自の判断でA級戦犯合祀の儀式を実施した。つまり、A級戦犯の「遺骨」は存在しないものの、「魂」は靖国神社に祀られたのである。
ところが、である。実は、もう一つの物語が存在する。時計を再び終戦直後に戻す。
同紙に証言した関係者によれば、横浜市の久保山斎場で火葬された7人の遺骨であったが、戦犯の弁護士らが米兵の目を盗んで7つの骨壷から少しずつ、遺骨を取り出したというのだ。それを線香を焚いて供養していたところ、線香の匂いに米兵が気づいて回収されてしまう。

米兵は取り上げた7人の遺骨を1つに混ぜて、火葬場の残骨灰を入れる穴に放り込んだのだ。この様子を火葬場長らが見ており、処刑から2日後の12月25日深夜、先の弁護士、火葬場長、戦没者慰霊に深い関わりをもっていた興禅寺住職らがこの穴から遺骨を回収した。
■すくい取られた7人の遺骨はその後、どこへ運ばれたか
骨捨て場の穴は深くて手が届かなかったため、火かき棒の先に空き缶を結びつけて苦心して遺骨をすくい取っていったという。最終的には骨壺1つ分を拾い上げ、密かに持ち帰った。そこには、他の人の遺骨が混じっていた可能性は捨てきれない。
回収された残骨灰は、しばらく興禅寺に安置されていた。そして1949(昭和24)年5月、熱海・伊豆山の慰霊施設「興亜観音」に極秘に埋葬された。そして「七士之碑」が建立され、吉田茂元首相の書が刻まれた墓所として整備された。以後、興亜観音は「第二の靖国」と呼ばれるようになった。
そのため、安保闘争時(1950年代後半~1970年代)には過激派に狙われることになった。実際、1971年(昭和46年)12月、「東アジア反日武装戦線」を名乗る過激派グループが、七士之碑を爆破。碑は後に修復された。

ところで、興亜観音に祀られた7人の遺骨だが、後に改葬の運動が持ち上がる。先のA級戦犯の弁護士が主導となって1958(昭和33)年、日比谷で開催された極東国際軍事裁判弁護団解散記念会で、霊廟建設が正式に発表された。
それが愛知県西尾市東幡豆町、三ヶ根山山頂付近に建てられた「殉国七士廟」である。建立は1959年(昭和34年)。興亜観音の七士之碑から分けて埋葬され直した。墓碑は約5メートルと大きく、石碑の中央部には「殉国七士墓」と刻まれている。揮毫は岸信介元首相によるものだ。
靖国神社でのA級戦犯の祀り方について、戦後80年を経た今も外交と内政の両面で賛否が渦巻いている。そこは、宗教とイデオロギーが入り混じり、穏やかな弔いの場でなくなっているのが残念だ。殉国七士廟や興亜観音へ関心が集まることも、ほとんどない。
A級戦犯の7人の責任は極めて重い。他方で、仏教には「怨親平等(おんしんびょうどう)(敵も味方も関係なく、等しく往生できる)」という慈悲の精神がある。
仏教者として筆者は、壮絶な時代を生きた七士の墓に、静かに手を合わせたいと思う。

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鵜飼 秀徳(うかい・ひでのり)

浄土宗僧侶/ジャーナリスト

1974年生まれ。成城大学卒業。新聞記者、経済誌記者などを経て独立。「現代社会と宗教」をテーマに取材、発信を続ける。著書に『寺院消滅』(日経BP)、『仏教抹殺』(文春新書)近著に『仏教の大東亜戦争』(文春新書)、『お寺の日本地図 名刹古刹でめぐる47都道府県』(文春新書)。浄土宗正覚寺住職、大正大学招聘教授、佛教大学・東京農業大学非常勤講師、(一社)良いお寺研究会代表理事、(公財)全日本仏教会広報委員など。

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(浄土宗僧侶/ジャーナリスト 鵜飼 秀徳)
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