ロシアによるウクライナ侵攻が3年半を迎えるなか、停戦に向けた動きが出ている。拓殖大学客員教授の名越健郎さんは「停戦の鍵を握るドンバス地方には両国ともに譲れない条件があるが、ここにきてロシアが歩み寄りを見せている」という――。

■ウクライナ政府関係者が「北方領土」を口にするワケ
ウクライナ戦争停戦の焦点は、東部ドンバス地方(ドネツク、ルハンスク両州)の線引き問題と戦後ウクライナの安全保障の行方にかかってきた。
ロシアのプーチン大統領は8月15日にアラスカで行われた米露首脳会談で、停戦条件としてウクライナ軍のドンバス地方からの撤退と全域の割譲を求め、見返りに再攻撃しないことを書面で約束すると提案したが、ウクライナが支配するドネツク州の残る25%から一方的に撤収することは困難だ。
しかし、現在の前線で停戦すれば、ウクライナはロシアの実効支配を認める構えで、これは「北方領土方式」の決着となる。ロシアがそこまで譲歩しない可能性もあるが、領土線引きの駆け引きが今後激化しそうだ。
在京のウクライナ外交筋は、「ゼレンスキー大統領は北方領土方式なら受け入れるだろう。ロシアの支配地域を法的にロシア領と認めることはあり得ない」と語った。
北方4島(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)は旧ソ連・ロシアが戦後80年間実効支配するが、日本政府は「4島は法的に日本領」と主張し、外交交渉でロシアに返還を求めてきた。日露間では領土をめぐる武力衝突は一切なく、ウクライナ侵攻前までは正常な関係が維持された。
「ウクライナ憲法は領土の割譲を禁止しており、大統領が法的に領土を明け渡すことはできないが、実効支配の黙認なら憲法違反にならない」と同筋は指摘した。疲弊するウクライナにとっては停戦が最優先であり、現在の前線上で戦火を凍結したいようだ。
80年間ロシアの支配が続く北方領土問題では、ソ連邦崩壊直後の千載一遇の好機を日本外務省が逃すなど、日本側の外交失敗も目立った。現在のロシア占領地にはウクライナ人が多数居住しており、いずれ到来するプーチン後の時代に外交交渉で一定の領土奪還は可能と同筋はみている。

■ドネツク州を「大坂夏の陣」にさせない
停戦交渉で焦点になるドネツク州の残る25%は、両国にとって死活的に重要な要衝だ。
8月24日で3年半が経過したウクライナ戦争で、ロシア軍はドンバス地方を構成するルハンスク州をほぼ制圧し、ドネツク州は約75%を支配。スロビャンスクやクラマトルスクなど物流の拠点でもある戦略都市で激しい攻防が続いている。
米シンクタンク「戦争研究所」は、ウクライナはドネツク州西部に強固な要塞地帯を築いており、ロシア軍がこれを奪取するには数年を要し、膨大な犠牲とコストを要すると分析した。プーチン氏のドネツク州明け渡し要求は、犠牲を避けるために無血開城を迫る虫のいい主張だ。
ウクライナにとって、ドネツク州全域をロシアが支配すると、隣接するハルキウ州とドニエプロペトロフスク州への侵攻ルートを提供することになる。ここには強力な陣地がまだなく、第二の都市ハルキウ、第四の都市ドニプロの攻略に道が開かれる。
かつて、江戸幕府と豊臣家の大坂冬の陣で外堀、内堀を埋められた大坂城が夏の陣で落城したように、ドネツク州の一方的譲歩はキーウ陥落の「夏の陣」となりかねない。「再攻撃しない」というプーチン氏の書面約束を信じるウクライナ人はいないだろう。
■ロシアの「記録的な進撃」のウソ
トランプ氏がプーチン氏との会談後に言及した「土地の交換」とは、ロシアが支配下に置く東部ハルキウ、スムイ両州の狭い地域から撤収する代わりに、ウクライナはドネツク州の広大な地域から撤退することを見込んでいるようだ。
英国のロシア専門家、マーク・ガレオッティロンドン大学名誉教授は8月18日、「ウクライナの運命はスラビャンスクなどドネツク州西部の4つの要塞都市にかかっている」とし、不動産ビジネス出身のトランプ氏が主張する「土地の交換」はウクライナにとって極めて困難な選択だと英週刊誌「スペクテーター」の電子版で指摘した。
ロシアのSNS、テレグラムで発信する情報チャンネル「インサイダーT」によれば、プーチン氏はアラスカ首脳会談で、前線からの報告を引用し、「ロシア軍がドネツク州で記録的な速度で進撃しており、数カ月内に全州を制圧できる」「これにより、土地の交換は必要なくなる」と話し、トランプ氏は「ボールはロシア側にあると悟った」とされる。

しかし、現実には「記録的な進撃」とは言えず、トランプ氏にウクライナを説得させるためのレトリックとみられる。ロシア側は国民に勝利を宣伝する必要があり、そのシンボルとしてドネツク州の全面制圧に固執しているようだ。
■「2州返還」の可能性はあるのか
ドネツク州の線引き問題で、高飛車に出るロシアは「前線での停戦」に応じそうにない。
ただ、ロシア側がこの間、一定の譲歩を見せていることも事実だ。たとえば、プーチン大統領は2024年6月、外務省幹部を集めた会合で、停戦交渉を始めるための条件を明らかにし、ドネツク、ルハンスク、ザポリージャ、ヘルソン4州からのウクライナ軍の完全撤退を挙げた。
しかし、アラスカでの首脳会談でプーチン氏はドネツク州全域を割譲すれば、南部のザポリージャ、ヘルソン両州は現在の前線で戦闘を凍結すると表明した。南部2州については、ウクライナ側が両州都を含め全体の約3割を支配しており、戦闘凍結を認めることは、24年6月の要求からの譲歩となる。
ロシアは22年9月、これら4州を一方的にロシア領に編入し、憲法にも書き込んだ。20年の憲法改正では新たに「領土割譲の禁止」をうたっているため、南部2州の一部放棄は憲法違反となる。
ただ、改憲は同時に、「(割譲禁止条項は)周辺国との領土画定交渉には適用されない」と例外規定も設けている。4州境界線の線引きでは、ロシア側も柔軟に対応できることになる。ロシアとの結びつきが薄い南部2州は、将来的に「2州返還」の可能性もあろう。

■侵攻の発案者「戦争を終わらせるべき」
ウクライナや欧州にとっては当面、現在の前線で戦闘を凍結する「北方領土方式」が望ましいが、ロシアがそこまで譲歩するかはプーチン政権の対応にかかってくる。
この点で、テレグラムで発信する情報チャンネル「SVR将軍」はアラスカでの首脳会談を前に、「ウクライナ侵攻の事実上の発案者である強硬派オリガルヒのユーリー・コワルチュク・ロシア銀行会長でさえ、今ではこの冒険を終わらせるべきだと考えている。指導部内の戦争への疲労感はとてつもなく大きい」と伝えた。
別の情報チャンネル「シピオン(スパイ)」は、西側の経済制裁で航空機部品や石油掘削用資材などの不足、IT人材の出国、先端技術の立ち遅れから、製造業の後進性が強まっており、経済テクノクラート(技術官僚)は早期停戦を切望していると報じた。
プーチン氏ら高齢の強硬派政権幹部は思考が硬直化しているが、実業界やテクノクラートには厭戦気分が強まっているかにみえる。
トランプ政権はロシアの12倍の経済規模を背景にロシアの弱点を衝く仲介外交を進めるべきだが、「親露派」トランプ氏では期待薄かもしれない。

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名越 健郎(なごし・けんろう)

拓殖大学客員教授

1953年、岡山県生まれ。東京外国語大学ロシア語科卒。時事通信社に入社。バンコク、モスクワ、ワシントン各支局、外信部長、仙台支社長などを経て退社。2012年から拓殖大学海外事情研究所教授。国際教養大学特任教授。
2022年4月から現職(非常勤)。著書に、『秘密資金の戦後政党史』(新潮選書)、『独裁者プーチン』(文春新書)、『ジョークで読む世界ウラ事情』(日経プレミア新書)などがある。

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(拓殖大学客員教授 名越 健郎)
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