江戸城にあった大奥とはどんな場所だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「江戸城本丸御殿の約半分を占め、数百人もの女性が仕えていた。
ただ、将軍は好き勝手に『夜の相手』を選べたわけではなかった」という――。
■秘密のベールに包まれた大奥の真の姿
江戸城の最深部に位置し、1人の将軍のために何百人もの女性が仕えていた大奥。秘密のベールに包まれた場所として、いまなお好奇の的になっているが、実際に存在し、機能していた当時から、謎に包まれた場所だった。
というのも、大奥については残されている史料がきわめて少ないのだ。大奥の奥女中として採用される女性は、血判を押した誓紙を差し出すことが求められ、そこには「奥向きの事は親兄弟たりとも一切他言致すまじき事」などと書かれていた。奥女中たちは大奥について記録するのはもちろん、口外することさえ許されなかったので、その様子は当時から、外部に伝わりにくかった。
このため、これまで伝えられてきた大奥の姿は、主に幕末の混乱期に漏れた情報や、明治になって大奥関係者から聞きとられた内容が中心だった。しかし、ここにきて大奥の建築について研究が進むとともに、将軍家に御台所(みだいどころ)(正室)を嫁がせた公家や大名家、将軍の娘が嫁いだ大名家などに残されていた史料の解明が進むなどして、実態が少しずつ明らかになっている。
最初に、大奥がどこにあったのかを確認しておきたい。
■江戸城本丸御殿の半分を占める
大奥は徳川幕府の中枢である江戸城本丸御殿の一部だった。東京ドームの約2.5倍に当たる約3万5000坪の江戸城本丸は、130棟もの殿舎が連なる御殿で埋め尽くされ、その建坪は時期によっても異なるが、1万2000~1万6000坪におよんだ。
本丸御殿は手前(南)から奥(北)に向かって展開し、手前から順に3つに分かれていた。
諸大名が将軍に謁見し、役人たちが政務に励む「表」、将軍が起居して日常の政務にあたった「中奥」、将軍の御台所を中心に、側室や子女、奥女中らが暮らすプライベート空間の「大奥」である。
御殿のなかでは、官邸に該当する表や公邸に当たる中奥が広かったと考えて当然だと思うが、じつは、一番広かったのが大奥で、本丸御殿の建坪の約半分を占めていた。たとえば弘化2年(1845)の図では、1万1373坪の総建坪に対し、大奥は6318坪を占めている。
それほど広大なエリアなのに、中奥とのあいだは、上下2つの御鈴(おすず)廊下だけでつながれていた。廊下の入口には杉戸が立てられ、中奥側と大奥側にそれぞれ鈴があって、将軍が入るときと出るときに鳴らされた。
その大奥がさらに、将軍や御台所がすごす「御殿向(ごてんむき)」、奥女中らが暮らす「長局向(ながつぼねむき)」、大奥の事務をつかさどる「広敷向(ひろしきむき)」の3つのエリアに分かれていた。
■正室は30歳で将軍と夜を共にしなくなる
大奥といえば「男子禁制」の「女の園」と思われているが、じつは広敷向には300人程度の男性役人が詰めて、警備や事務に当たっていた。しかし、彼らも広敷御錠口から先には一歩も入ることが許されなかった。ただし、将軍や御台所の主治医にあたる奥医師だけはその先に入ることができ、彼らのための便所もあった。
このように大奥が男性の出入りを厳しく制限していたのは、将軍の血筋を正しく伝えるためだった。DNA鑑定などできない当時、将軍の子供が本当に将軍の血を引いているかどうか確認する術はなかった。だから、将軍以外の男性が奥女中と関係をもつことを徹底的に防ぐ必要があったのである。

御殿向のうち「御座所(ござしょ)」と呼ばれたのが御台所の御殿で、将軍が御成りのときは、御鈴廊下の先の「御小座敷」が寝床になった。御台所は、薩摩藩の島津重豪(しげひで)の娘だった11代将軍家斉夫人を除くと、3代将軍家光以来、京都の宮家や公家の出身だった。
食事からトイレ、風呂まで、すべて女中まかせの優雅で退屈な日々を送った御台所は、将軍の御成りがあれば、午後6時ごろから将軍と並んで夕食を食べ、御成りがなければ午後9時ごろには就寝した。しかし、わずか30歳をすぎたところで「御褥御免(おしとねごめん)」、すなわち将軍と床を共にしなくなる習わしだった。
歴代将軍のうち、御台所から生まれたのは3代家光しかいない(15代慶喜も正室の子だが、水戸斉昭と正室との子だから事情が違う)。「御褥御免」ひとつとっても御台所の役割は限定的で、将軍の血筋をつなぐためにも、大奥と奥女中の役割が大きかったことがうかがい知れる。
■原則として城から出られなかった
その奥女中たちは長局に住み込んでいた。彼女たちは将軍に直接お目通りできる「御目見得(おめみえ)以上」と、下働きで将軍には会えない「御目見得以下」に分かれた。御目見得以下は将軍の目に触れることがないので、一定程度の暇をとることができ、結婚することもできた。
一方、将軍が見初める可能性がある御目見得以上は、外部との接触が厳しく制限された。その役職は、公家の出身者が多く将軍の側近くに仕える上臈(じょうろう)御年寄(3人)を筆頭に、大奥の一切を取り仕切る御年寄(7人)、御年寄の指示で実働する中年寄(2人)、大奥に来た将軍を接待する御客会釈(おきゃくあしらい)(5人)、御台所や将軍の側に仕える御中臈(おちゅうろう)(8人)、タバコや手水などを給仕する御小姓(2人)などが続いた。
その下にも、さらに御錠口、御坊主、表使、御次、御右筆、御切手、呉服之間、御三之間など多くの役が連なっていた。

なかでも御中臈以上は、病気になっても暇をもらうのは難しく、多くの場合、一生を長局で暮らすことになった。長局は2階建ての長い建物が4棟、南から北へと順に建ち、役職や身分によって住む棟が決まっていた。
■大奥=ハーレムではない
奥女中の人数は時代によって変化したが、大奥がかなり廃れたとされる14代将軍家茂の時代でも400人ほどはいたという。だが、それを将軍のためのハーレムと捉えるのは正しくない。将軍は勝手気ままに夜伽の相手を選べるわけではなかった。
将軍の側妾になる可能性が高かったのは将軍付の御中臈だが、大奥内もその選定には慎重で、御年寄の合議を経て選ばれ、世話親がつけられた。そして、世話親の部屋に起居しながら、あらゆることについて世話親の指示を受けた。
要するに、将軍は事実上、好みの御中臈を夜伽の相手に選ぶのは困難で、大奥の推薦によって将軍付の御中臈になった女性の相手をするしかなかった。ちなみに、将軍が手をつけていない御中臈は「お清」、すでに手をつけた御中臈は「汚れた方」と呼ばれた(ひどい呼び方だ)。そして汚れた方であっても、将軍の子を身ごもるまでは独立した部屋をもらえず、大奥における地位も御中臈以上ではなかった。
また、大奥では、側妾が将軍に政治がらみの要望を伝えることを警戒した。将軍の政治判断が情欲に左右されるのを防ぐためだった。
このため、将軍の寝床に御中臈が呼ばれたときは、将軍と彼女が営んでいるすぐ近くに別の御中臈が寝て、次の間にも御年寄が寝て、会話をチェックしていた。
■53人の子女をもうけた11代将軍家斉
女性は大勢いるのに、側妾は自由に選べず、寝床に呼んでも監視の下。これでは将軍は安心して励めなかったかもしれない。
だから、NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」に即していえば、10代将軍家治には、側妾が知保の方と品の方の2人しか確認されていない。大奥との関係に品性を保ったともいえるが、結局、男子はそれぞれが1人ずつ生んだにすぎなかった。そして、品の方が生んだ貞次郎は3カ月で夭折し、知保の方が生んだ家基も17歳で急死したため、自分の血統を残すことができなかった。
一方、家治の跡を継いだ一橋治済の嫡男、11代将軍家斉は、大奥になんら遠慮をしなかった。確認されているだけでも16人の側妾がおり、むろん、相手は大奥から推挙された将軍付の御中臈だけではなかった。その結果、御台所を含む17人の女性とのあいだに男26人、女27人、計53の子女をもうけた(死産や流産の数え方によって、55人とも57人ともされる)。
大奥が将軍の血統をつなぐのを最大の目的とする組織であった以上、家斉のように「使い倒す」のも理に適っているのかもしれない。だが、私は家治の品位を好むけれど……。結局、両者の大奥との付き合い方の違いは、両者の政治姿勢の違いとして現れることになったが、血統を残すという点では、家斉に軍配が上がったには違いない。
大奥とバランスよく付き合うことの難しさが浮き彫りになった、といえるかもしれない。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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