「学歴なんて必要ない」と声高に叫ぶ国内外のドラマや物語は少なくない。しかしそれでも学歴に期待が寄せられるのはなぜなのか。
組織開発専門家の勅使川原真衣氏は「学歴は企業から見て“仕事でも頑張れる人なのかどうかのシグナル”になっている」という――。
※本稿は、勅使川原真衣『学歴社会は誰のため』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
■「学歴=仕事のパフォーマンス」という解釈
学歴による賃金格差、また学歴の再生産、その不平等さの問題に次いで、研究者たちが学歴を眺め直す視点には「学校教育で教わったこと×仕事内容」の整合性の問題もあります。
というのも、学歴が仕事を采配していくのであれば、学歴(学校システムにおいて測定される範囲の学力)と仕事のパフォーマンスとに密接な関係性が見られてしかるべきです。が、実際にはどうなんでしょうか。逆に問うならば、学歴は何の象徴として、職業采配機能を担うまでの存在に成りあがったのでしょうか。1つずつ見てみましょう。
■「社会に出たら学歴なんて関係ねぇ!」説
とある不良軍団に参与観察・インタビューの形で迫る、社会学者(ポール・ウィリス)。彼のインタビューの様子が次です。
筆者(ポール・ウィリス)

「きみたちにはあって、〈耳穴っ子〉(優等生一派を指す)にはないってものが、なにかあるかい?」

スパイク(という名の不良少年グループの一人)

「ガッツ、決心……。ガッツじゃなくて厚かましさかな……連中よりもおれたちのほうが世の中を知ってるよ。やつら、数学や理科ならちょっとは知ってるかもね、でもそんなこと、どうってことないや。
あんなものだれの役にも立つもんか」(括弧内、および太字は筆者による)
──これは社会階層・再生産研究の代表作の1つ、ポール・ウィリス『ハマータウンの野郎ども』からの引用です。私も修士課程時代に読みました。
この本の主人公たちは、いわゆる最底辺の暮らしを親の代からしてきています。さぞ彼らは学歴社会を恨んでいるのかと思えば、彼らは彼らで「男らしさ」「からだで稼ぐ」(肉体労働)などのコミュニティ内の規範を内面化し、「能力主義競争にコミットすることを忌避して、学習=労働に自己限定的に関わろうとする」姿がエスノグラフィックに描かれています。
前掲の不良少年の語りにもありますね。学校の勉強なんて「だれの役にも立つもんか」と。ましてやその学びの遍歴なんてのが、社会生活でも作用するなんてばかばかしい、と言わんばかりですが、ここのポイントは、社会階層の低い側がそう思い込むことで、最底辺の肉体労働者の道しか残っていない自分たちを鼓舞するメカニズムが描かれている点です。言い換えれば、学歴はウィリスが分析対象にしたイギリスでも、しかと職業を采配しているのです。
■日本でも溢れる「成功=学歴ではない」の声
ちなみに「イギリスでも」と言いましたが、こうした、「学歴なんて……」の内面に迫る研究の国内版も充実しています。こうした学歴をはじめとする能力主義的序列づけと距離のあるコミュニティにおける文化研究というのはあちこちでされています。『暴走族のエスノグラフィー』は言わずと知れた名著ですし、2024年に逝去された打越正行氏の『ヤンキーと地元』も代表的です。そのほかにも「学校で踊る若者は『不良』か? ストリートダンスはどのようにして学校文化に定着したか」や、『搾取される若者たち バイク便ライダーは見た!』などもご存じかもしれません。

と、少し細部に入りましたが、要するに
・仕事の出来は、学校の勉強の出来とは違う論理が働くんだぜ

・「成功」は学歴じゃわからないぜ
といった声はよく漏れ出るもので、また、「不良」でなくても個人の側も、「学校で教わることは本当に仕事の役に立つんですか?」という問いが一度や二度、頭をもたげたことがあるはずです。そのくらい「役に立つかどうか論」って、そこかしこに跋扈しており、それゆえ、研究もしかとされてきているということなのです。
■学校は仕事に活きる学びを提供しているか
学校教育と仕事内容との関係性はいかほどなのか問題。教育・仕事の「中身」の話は、教育社会学の真骨頂。専門的には、「職業的レリバンス」研究が解明を試みてきています。その歴史は長く、学校、とくに就職との結節点である大学が、仕事で活きるような学びを提供しているのか否かを論じています。
たとえば、私も大学院でお世話になった本田由紀氏はそのど真ん中の研究者の1人です。『教育の職業的意義』をはじめ、近年では『文系大学教育は仕事の役に立つのか 職業的レリバンスの検討』も、的を絞った問いで読み応えがあり、ほかにも、濱口桂一郎氏の『新しい労働社会 雇用システムの再構築へ』は、日本型雇用が生む独特の職業的レリバンスやキャリアパスの特色などを紐解いた論説の1つでしょう。
興味の湧いた方は当該書を直接お読みいただくのがベストだと思いますが、本田氏の言葉で骨子をおさらいすると、あるべき「教育の職業的意義」を「特定の個別の職種にしか適用できないような、がちがちに凝り固まった教育ではなく、ある専門分野における根本的・原理的な考え方や専門倫理、あるいはその分野のこれまでの歴史や現在の問題点、将来の課題などをも俯瞰的に相対化して把握することができるような教育である。それは、一定の専門的輪郭を備えていると同時に、柔軟な発展可能性や適用可能性に開かれているような教育である」と定義し、現状は(我々の印象どおり)不十分であると述べます。
■学校で学ぶであろう「柔軟な専門性」
とくに興味深いのが、「キャリア教育」の存在が「教育の職業的意義」を押し上げているかに見せて、「為政者の願望」にすぎない、何なら先の意味の職業的レリバンス(意義)の向上を阻んでいると喝破する点です。
ちなみに本田氏の代案は「柔軟な専門性(flexpeciality)」という概念にあるとし、「一度身につけた専門性は、その後に隣接領域、一見関連のない領域に移った場合でも、実質的な有効性を発揮しうる」「社会の現実と同様に、知識や技能も網の目状につながっているのであり、初発の専門性は、その後の展開の種子としての意味をもっている」状態への道筋を照らします。
また、企業側に対しても、職種別採用の推進や「キャリアラダー」の活用など、日本型雇用を所与のものとしない取り組みを諦めずにやっていく必要性を指摘します。
■学校に対する企業からの風当たり
他方で、レリバンスが云々かんぬんと言ったところで、学校教育というのは万年、その後の受け皿となる企業側から文句を言われているような気もします。
「学校ではろくなことを教えていない。仕事に必要なことをもっと叩き込んでくれよ」
と。教育サイドが反論しにくい文句を、企業側が都合よく偉そうに言っているだけの話のような気もしますが。
だって「企業は企業で人材育成してくださいよ」なんて吠えたところで、「じゃあお前みたいなのは雇ってやらないからな」と言われたら終わりなんですもん。生殺与奪、つまり「もらい」を給与というかたちで、決める側(=雇う側)が握っているのです。まぁこの時点で私からしたら大いに疑問ですが、社会システム(流れ、構造)として起きていることを理解する必要性が伝わると幸いです。
本筋に戻りますが、「学歴が職業選択にも影響するのであれば学校で学ぶことと仕事内容は当然、バッチバチにリンクしているんですよね?」という議論。これは専門的になされてきていますが、大手を振って、「学校は職場における即戦力を育成しています!」と言える状況ではないことは確からしい模様です。
■「訓練できる人」というシグナル
さて、先にもう1つの検討事項を挙げました。学校教育の職業的レリバンス研究に加えて、「学歴は何の象徴として、職業采配機能を担うまでになったのか?」という点です。

職業的レリバンス研究で言うと、学歴が仕事の遂行の上手さそのものを指し示す(占える)ものとは言えなさそうでした。となると、学歴は……いったい何を私たちに教えてくれる情報だと思われているのでしょうか。
専門的には「難しい大学に入り、長い間高等教育を受けたのなら、少なくとも仕事をさせたときの『訓練可能性』はあるよね」という見地から、学歴の有用性が説明されてきた流れがあります。つまり、仕事のパフォーマンスを具体的に占うことはできなくとも、
「この人、(仕事でも)頑張れますよ!」
というシグナル(目印)、お墨付きが必要ならば、それを表すのが学歴だ、ということです。何を学び、何をどうやっていくか? は未知でも、「訓練可能性」としての「学歴」を見れば、一定の達成を予見することはできなくない気もしてくると。
これを良しと考えるか悪しきと考えるかはここでは問いませんが、学歴が職業的成功を采配していくという一面は、「訓練可能性」で仕事をする様子を想像するしかないと考える理屈に下支えされているわけです。職に就いてからの具体的な仕事内容が詳らかでないとしても、歯を食いしばれる人かどうかは、学歴からわかる──いまだに企業の人事担当者も、表立っては言いませんが、まぁ否定できない見方とは言えそうです。学歴フィルターなるもので就活生を選抜している企業も、大学で学んでいることが、そのまま企業の発展に役立つとは思っていませんから。
ただ、ある程度の素地と、多少つらいことがあっても学び続け未来を切り拓いていけそうか? そんなことは見ているようです。
■「情報の非対称性」が看過されている
余談ながら、マイケル・スペンスの「シグナリング理論」は、ミクロ経済学の概念ですが、その背景には欧米諸国における労働が大前提として「ジョブディスクリプション(職務要件)」がしっかりとした状態であることは付言しておきましょう。企業の採用活動において、「学生の本当の能力ってわからないよね」という「情報の非対称性」を基にした議論です。
他方で日本は、ジョブディスクリプションもないのに、「学生側の『能力』がよくわからない」という点だけを問題にしている状況が続いているように思います。
つまり、就職活動時の大前提が欧米諸国と異なるのに、「情報の非対称性」や(企業と個人との)「権力勾配」の問題が都合よく看過されたままであることは押さえておきたい視点です。

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勅使川原 真衣(てしがわら・まい)

組織開発者

東京大学大学院教育学研究科修了。BCGやヘイグループなどのコンサルティングファーム勤務を経て、独立。教育社会学と組織開発の視点から、能力主義や自己責任社会を再考している。2020年より乳がん闘病中。著書に『「能力」の生きづらさをほぐす』(どく社、紀伊國屋書店じんぶん大賞2024 第8位)、『働くということ』(集英社新書、新書大賞2025 第5位、紀伊國屋書店じんぶん大賞2025 第11位)、『職場で傷つく リーダーのための「傷つき」から始める組織開発』(大和書房)、『格差の“格”ってなんですか? 無自覚な能力主義と特権性』(朝日新聞出版)などがある。

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(組織開発者 勅使川原 真衣)
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