※本稿は、勅使川原真衣『学歴社会は誰のため』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
■学歴は「能力の表層」なのか
労働=メンバーシップ型雇用で職務の詳細はほぼ不明のまま、日本企業への就職を前提とし、かつ、その達成は年収にあるという前提のもとでは、学歴が、仕事において発揮されるであろう「能力」の表象と化しがちです。通称「職務遂行能力」と呼ばれる能力ですが、「それをどう低コストでクイック(迅速)に測りましょうか?」と考えあぐねた末に、「受験戦争での戦歴を示す、学歴という属性を使うと良さそうだ!」と。そう社会が信じ切っていることを、我々は学歴主義社会と呼んできたわけです。
そうした前提においては、人事権(任命権)を企業側がもつ日本企業はとくに、学歴という個人情報をありがたがることになります。仕事として何をやらせるかが決まっていないのですから、我慢しながら努力してくれそうな実績を参照したくなるのも無理もないという話です。
■専攻した学問を社会で活かせていない人々
OECDが2024年12月に公表した「成人スキル調査2023」の次のファクトは気になるところです。
「46%の労働者は、最高学歴の専攻が自分の仕事に最も関連する分野でないため、専攻した学問分野の点でミスマッチとなっている」
最終学歴で学んだことがどのくらいいまの仕事に活かされているか? という、典型的な教育と職業のレリバンスに関する調査項目なわけですが、日本がOECD平均で言ってもミスマッチ度が著しいとの記述がありました。
これに対して専門家を名乗る方々が「日本の職業的レリバンスの問題が~」や、はたまた誤用ですが、「リスキリングに課題」などと発言されるのを見て、暗澹とした気持ちに……。私はこの結果自体についてつべこべ言いたいのではありません。ポイントは、大学の職業的レリバンスや社会人教育に問題があるかのごとく提起がされているものの、問題も何も、そもそも職務が明示されぬまま柔軟に請け負うスタイルが定着した、メンバーシップ型雇用のコロラリー(論理的帰結)だという点です。
メンバーシップ型だろうがなんだろうが、仕事を皆で「頑張って」やっていればそれなりに回っていたなら、文句はありません。
ただ、社会経済的な環境がかつてといまとで違うことが気になります。人口増加社会かつ、経済も右肩上がりならよかったかもしれませんが、いまやその真逆なので心配しているわけです。明らかな人口減少社会、すなわち労働力人口も減少することが目に見えているのに、大量消費型社会でやってきた社会原理(職務遂行能力を中心とした曖昧な企業中心社会における能力主義)のままで、うまいこといくのでしょうか。
■学歴による所得格差はもはや看過できない
社会の公正という観点でも、本人の努力の問題だけには到底できない学歴による所得格差というのは、もはや看過できないのではないでしょうか。加えて、過労や仕事を通じた精神障害の増加(正確には「精神障害に係る労災請求件数」の増加)なども憂慮します。
よって、間違いなく現行社会の見直しは迫られていると考えますが、私が問いたいのは、口角泡を飛ばしながらの学歴論争やら言説やらは、「具体的に何をどう見直せばいいのかを教えてくれますか?」ということなのです。
これだけ話題が移ろいやすい昨今にあって、いつの時代もどこかしこでも学歴の話題というのは消え失せない点はある種……見ものです。強い影響力の表れだと思いますが、問うべきは、
「学歴について言い争っていて、社会の、とくに『働くということ』そのものがよくなるのでしょうか?」
だと考えるのです。
結論から言えば、労働を通じた社会経済の好循環や公正な配分を考えるのに、人の学歴を言い争っている場合ではない、ということです。「働くということ」の内実を本当に考えているのならば、現状の議論では、はっきり言って……時間の無駄です。はたと立ち止まり、次のような思考のステップを踏みたいのです。
■【ステップ1】良し悪しや「唯一の答え」を探さない
学歴という情報を企業が知ってありがたがるのにはいくつもの前提があり、その前提自体が、いまや薄氷の上にあることをこれまで示してきました。
そのような大前提に触れることなく、多くのインフルエンサーたちが、諸説紛々の議論を続けているのが学歴論争です。生まれ落ちた家庭という意味での初期値の違いを置き去りにしたまま、「自分は大変だったけどいまやれている」というフレームに固執した、ポジショントークに終始しがちなことも述べてきました。
社会科学においてはさすがに、N=1のお気持ち表明はまさかいたしません。実証的に学歴社会のあり方を探究し、学歴社会を一朝一夕に変えることができないのなら、教育への公的支出を増やすべき、など政策決定者への呼びかけをしてくれています。
よって、学歴社会を所与とした場合の適応策については研究者にお任せするとして、さらに私は次のことにも挑戦したい気持ちでいます。それは、
「学歴にどうすれば『正しい』えさをやることができるか?」
という問いへの答え探しに固執せず、こう問うてもいいのではないか? と思うからです。
「共創のために本来必要なのに見過ごしている情報がほかにあるのではないか? それを追求することで、学歴にえさをやらないことになるのでは?」と。
■真の「公正さ」はまだ議論され尽くしていない
賃金格差にあえぐ人に対してアファーマティブに、「格差是正のための取り組みをして学歴をつけてもらいましょう」という方向の支援策はすでにあるにはあります。しかしそれは、「機会の平等」では掬いきれなかった層に対して、結果の不平等へのアクションをとっているものの、「公正」の議論はされていない、とも言えるのではないでしょうか。
もっと平たく言うと、「誰が『正しい』か? 誰が正統で、誰が未熟か?」などという問いが頭のなかを占拠していないか? 自らも、周囲もそうした泥仕合に躍起になっていたら、自覚し、議論の土俵を整える人でありたいものです。
現状の社会構造をオセロの石をひっくり返すがごとく一度に変えることは不可能だとしても、問題の重層的な構造を把握したうえで、対症療法だけではなく、根本治療に向けたムーブメントもつくりたい。それはハックでもチートでもなく、公正さを見据えてのことです。
■【ステップ2】複眼的に問題の構造を把握する
「正しさ」に拘泥しないことについて【ステップ1】で述べました。そのうえで、問題の根っこを探るべく、連関し合うシステムとして事象を眺め直すことが肝要です。
重層的、多面的、複眼的であれ
教育社会学を苅谷剛彦氏から学ぶ際に、この言葉を何度言われたかわかりません。「世の中の事象は個々に真空状態にあって、浮遊しているわけではない。連関し合うシステムだ」──と。
システムとしての社会を見たときに、この世の議論の大半が、連関し合う存在のはずなのにある一部だけを捉え、連関を切り離した状態で検討していることが多いのなんの。
ゆえにたとえば、学歴と職業との連関に問題が生じていそうだ、と仮にも疑うのならば、それは教育の側からレリバンス(関連性・妥当性)を疑うだけでは不十分だということです。教育から職業へのトランジション(移行)という一連のダイナミクスを捉えるのなら、職業側の問題(たとえば、メンバーシップ型などの雇用システムの前提の問題)を挟み込むように思考することが不可避なのです。
そのうえで「いったい全体、学校から職業への移行に際して、学歴というシグナルで判断し続けていていいのか?」という問いに戻りましょう。
「学校で教えるべきことの問題(職業的レリバンス)もあるでしょうが、それがすべてではない。職業(労働)の側は側で、学問に何か具体的に求められるほど、職務を明確にしてきたんですか?」という問題もさして取り上げられずに残されているわけです。
よって、ここであらためて明らかにしてみたいのは、「仕事って何ですか?」という怖いくらいにプリミティブな問いです。
■【ステップ3】問題構造の上流に分け入って解きほぐす
職務遂行の予見に学歴が使える・使えないの議論の前に、その職務遂行=仕事をするとはどういうことか? とやらの解像度は十分なんでしょうか? という話をしています。
もっと言えば、
「その営為の予見に必要な情報が、学歴に(本当に)詰まっているのか?」
これをいまこそ真正面から問うべきです。多くの人が観たいものを囲い込む必要がそもそもあるか?(学歴論で言えば、学歴がないと満足な職に就けないことを見直す余地はないのか?)と、公正の観点から思い直してみることとも言えます。
職場のつぶさな営為はどう構成されているのか。学歴が予見材料になるようなことが、本当に仕事の実像なのか。これについて、今こそ真正面から向き合うべきだと思います。
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勅使川原 真衣(てしがわら・まい)
組織開発者
東京大学大学院教育学研究科修了。BCGやヘイグループなどのコンサルティングファーム勤務を経て、独立。教育社会学と組織開発の視点から、能力主義や自己責任社会を再考している。2020年より乳がん闘病中。著書に『「能力」の生きづらさをほぐす』(どく社、紀伊國屋書店じんぶん大賞2024 第8位)、『働くということ』(集英社新書、新書大賞2025 第5位、紀伊國屋書店じんぶん大賞2025 第11位)、『職場で傷つく リーダーのための「傷つき」から始める組織開発』(大和書房)、『格差の“格”ってなんですか? 無自覚な能力主義と特権性』(朝日新聞出版)などがある。
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(組織開発者 勅使川原 真衣)