※本稿は、北野隆一『側近が見た昭和天皇』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。
■侍従長の日記にみる戦前期の昭和天皇の実像
侍従長となった百武三郎の日記に戻る。
百武は海軍時代から日記をつけていたとみられるが、このうち東京大学には侍従長に就任する1936(昭和11)年以降のものが寄託され、閲覧可能となっている。以下、日記の記述をもとに昭和戦前期の昭和天皇や宮中の動きをたどる。
日記によると百武は、36年12月4日には戦後に首相となる吉田茂駐英大使からの情報を天皇に伝えた。「英皇帝[エドワード八世]はシンプソン夫人との結婚に固執せらるため、内閣と正面衝突し一般憂色[憂えている様子が]あり」と。4日の「昭和天皇実録」には以下のように書かれている。
侍従長百武三郎に対し、新聞報道されている英国皇帝エドワード八世に関する件につき、外務省とよく連絡をとり報告するよう命じられる。後刻、侍従長より、本日英国駐箚(ちゅうさつ)特命全権大使によりもたらされた情報として、同皇帝が米国人ウォリス・シンプソンとの御結婚に固執のため内角と衝突状態にある旨の言上を受けられる。
■英国王の訳あり退位に「中々困難なり」
当時英国王だったエドワード八世は米国人ウォリス・シンプソン夫人との結婚を望んだ。しかし英国教会は離婚歴のある女性との結婚を認めなかった。
「実録」によると12月11日、天皇は百武が入手した英国王退位に関する駐英大使の電報を見て、その内容について、式部職と連絡して処理するよう百武に命じた、とある。
百武は天皇から命じられた内容として「英帝退位につき、打電[電報の送信]は中々困難なり。ヨーク公[ジョージ六世]には践祚(せんそ)[王位につくこと]の挨拶、皇太后[英国王の母]には、ヨーク公御践祚の挨拶と御痛心の見舞いを言うべきか、式部と連絡処理するようにせよ」と日記につづっている。
戦前・戦中期、鈴木貫太郎と百武三郎、さらに後任の藤田尚徳(ひさのり)まで3人続けて予備役海軍大将が侍従長を務めた。その理由について天皇が戦後に語った言葉を、田島道治は1952(昭和27)年12月18日の『拝謁記』にこう記している。
■侍従長が政治的影響を失った契機
「侍従長を海軍のバックで[陸軍を]いくらかおさえる意味で、現役では余りいかんので予備又は予備にして[予備役(よびえき)や後備役(こうびえき)の]海軍大将にしたのだよ」。
予備役とは現役を退いた軍人が一定期間服する兵役のこと。平常は社会で市民生活を送り、非常時に召集されて軍務に服する。さらに予備役を終了した者を「後備役」とすることもあった。
ただ同じ予備役海軍大将でも、鈴木が45年の終戦時に首相を務め、「大物」と目されたのと比べ、百武と藤田はもともと「人柄」で選ばれたという点で、周囲の見る目は違っていたようだ。
田島の『拝謁記』によると、昭和天皇は「私は百武は侍従長として多少一本気の癖があることを知ってた」と戦後の49年4月13日に回想している。
百武が、侍従長としての政治的影響力を失う最大の原因となったのは37年1月、就任後初めて大命降下(たいめいこうか)にかかわった宇垣一成(うがきかずしげ)が、組閣を辞退した問題だった。
■「宇垣内閣流産問題」とは
当時は「宇垣内閣流産問題」といわれた。軍部の暴走を抑えるよう期待された予備役陸軍大将の宇垣が、天皇の命令(大命降下)を受けて組閣を試みたが、満州事変で関東軍参謀を務めた石原莞爾(いしはらかんじ)ら陸軍内の反対派に阻止された一件である。
「昭和天皇実録」によると、1月23日に広田弘毅(ひろたこうき)首相からの辞表を受け、天皇は百武を通じて静岡県興津の西園寺公望に、東京まで参内(さんだい)するよう命じた。次の首相指名について意見を聞くためだった。
しかし西園寺からは翌24日朝、病気で来られないとの返事があり、湯浅倉平内大臣が興津に派遣された。戻ってきた湯浅は午後8時、陸軍大将の宇垣一成を推薦する、との西園寺の言葉を天皇に伝えた。
百武を通じて宮城(きゅうじょう)に呼び出された宇垣は25日午前1時40分、天皇から組閣するよう「大命降下」を受けた。
ただしその際、「宇垣内閣誕生に対する不穏な情報がある」として、天皇は組閣の成算があるかどうかを尋ねた。宇垣は「2、3日の猶予をいただき、諸般の情勢を考究熟慮の上でお答えしたい」と答えた。
■陸軍内からの反対論
百武の日記にも25日午前1時5分、宮城に到着した宇垣について、早くも陸軍内から反対論が出ていることが、侍従武官などから伝わっていたと書かれている。
大命降下の後、中島(鉄蔵)侍従武官が激昂し、宇佐美興屋(うさみおきいえ)侍従武官長に対して二・二六事件後に天皇から陸軍に下された「御沙汰書」を広げ、「宇垣に大命降下[首相の候補者に組閣を命じる]は、之れ[御沙汰書]に矛盾する。明日自分が陛下に申し上ぐる」と言い出した、とも日記にはある。
「実録」によると、天皇は同日午前9時45分、面会した百武に対し、こう説明した。
「三月事件に関与した宇垣に組閣を命じることは、昨年の二・二六事件後の3月10日の陸軍大臣に対する訓戒と矛盾するとの議論があるが、訓戒は陸軍にしばしば起こる不祥事の根源を探究するよう諭したもので、特定の人物を否定したものではない」
百武の日記には、このときの詳細な天皇の言葉が書かれている。
■「どーも陸軍のものは常識が乏しい」
「陸軍は困る」「全体陸軍は虚偽を云ふじやないか」「尚三月事件などと云ふが、元来朕は其(その)事は陸軍よりは何等報告を得ず、知らないのだ。自分は屢(しばしば)不祥の事があるから其根源を極める様に諭したので、誰々が悪るいなどと人を攻めたのではない」。さらに「どーも陸軍のものは常識が乏しい」とも語ったという。
「三月事件」とは31年3月、陸軍内で計画されたクーデター未遂事件のことだ。前年11月に東京駅で銃撃され負傷していた浜口雄幸(はまぐちおさち)の内閣を辞職させ、当時の宇垣一成陸軍大臣を首相に指名させる計画だった。宇垣は決行直前に反対したといい、クーデターは中止されたが、計画に関与したとの疑惑が持たれていた。
宇垣の組閣に対する陸軍内の反対は強く、宇垣は37年1月29日、「陸軍当局から陸軍大臣の推薦を得られず、個別に就任を交渉した現役将官からも受諾の回答は得られず、万策尽きたため、大命を拝辞する」と報告し、組閣断念を伝えた。
■陸海軍が大臣を出さないと組閣が不可能
陸軍内の反対により組閣が阻止されてしまったのは、このとき政府が「軍部大臣現役武官制」をとっていたからだ。
宇垣は25(大正14)年、加藤高明内閣の陸軍大臣だった際、世界的な軍縮の動向や23年の関東大震災の復興費用捻出を名目にした「宇垣軍縮」を実施。陸軍二一個師団のうち四個師団を廃止していた。
西園寺はこの軍縮を評価し、宇垣なら陸軍を抑えられると考えて首相に推薦したのである。
しかし三月事件への関与疑惑が問題視されていたこともあって、陸軍内の反発は根強かった。
茶谷誠一は『昭和天皇側近たちの戦争』(104~105頁)で、「陸軍中堅層が宇垣を忌避した真の理由」について「中堅層のめざす軍部主導の国家体制構築の計画に対し、宇垣が元老や宮中側近、政党勢力と組んで軍部を統制する可能性があったため、是が非でも宇垣の組閣を阻みたいという意図がこめられていた」と解説する。
■百武の情熱
百武は怒った。侍従長として初めてかかわった天皇の組閣命令が、陸軍の横車により断念に追い込まれたからだ。遺族が東京大学に寄託した百武の文書のなかには、37年1月28日に百武が松平恒雄宮内大臣あてに書いた「辞職願」の下書きと思われるメモが残っている。
「時局重大なるに感ずるところあり、敢(あえ)て職権外の奏上をなし官規を紊(みだ)りたる罪、恐懼(きょうく)の至りに堪へず。謹んで骸骨(がいこつ)を乞ひ奉る」と書かれている。
「骸骨を乞う」とは中国の故事成語。
百武はあて先不明の「覚書」にもこう記し、宇垣内閣待望論を説いた。
「国民は今や小心翼々(しょうしんよくよく)として我邦[国]の如何(いか)になり行くかを痛心し、輿論[世論]殆ど挙(こぞ)つて宇垣内閣の成立せんことを希望す」「幸に宇垣大将は敢然として時局を拾収し国家を救はんと奮闘しつゝあり」。
■昭和天皇の独白
『西園寺公と政局』によると、百武は松平に「自分は侍従長の職をやめても陛下の大権を護りたい」とまで語り、同様の意見をしたためた書簡を西園寺に送りもしたという。
ただ百武の熱情とは裏腹に、昭和天皇はじつは宇垣をあまり評価していなかったともいわれる。昭和天皇が戦時中を回想して戦後に語った話を宮内省御用掛の寺崎英成ら側近がまとめた『昭和天皇独白録』(文藝春秋、1991年)によると、天皇は宇垣について「この様な人は総理大臣にしてはならぬと思ふ」と述べている。
以下は『独白録』(文庫版は文春文庫、1995年、48~49頁)から。
外務大臣の宇垣一成は一種の妙な僻〔癖〕がある、彼は私が曖昧な事は嫌ひだといふ事を克(よ)く知つてゐるので、私に対しては、明瞭に物を云ふが、他人に対してはよく『聞き置く』と云ふ言葉を使ふ、聞き置くといふのは成程(なるほど)その通りに違ひないが相手方は場合によつては『承知』と思ひ込むことがありうる、
■内閣流産の陰に天皇の意志
天皇はさらに「この曖昧な言葉が間違ひを惹起(じゃっき)した事件がある、それは[昭和]13年7月に起つた張鼓峯(ちょうこほう)事件である」と続ける。
張鼓峯事件とは、「満州国」とソ連との国境にあり朝鮮国境にも近い「張鼓峯」という丘陵をめぐって、38年7月に日本がソ連と武力衝突した事件のことだ。
当時外相だった宇垣は陸軍が張鼓峯を急襲する計画について、「内閣は之に反対である」と天皇に話した。
ところが板垣征四郎(せいしろう)陸軍大臣は天皇に「この急襲案は宇垣外務大臣も賛成したものである」と報告。
『独白録』を読み解いた作家の半藤(はんどう)一利は「宇垣を首相にしてはならぬ、という昭和天皇の発言はじつに意味深長である。昭和12年の宇垣内閣流産の蔭(かげ)に、昭和天皇の意思が働いていたのであろうか」と感想を記している(文庫版50頁)。
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北野 隆一(きたの・りゅういち)
朝日新聞記者
1967年、岐阜県生まれ。90年に東京大学法学部を卒業し、朝日新聞社に入社。新潟、宮崎県延岡、福岡県北九州、熊本の各市に赴任し、東京社会部デスクや編集委員を経て現在、社会部記者。皇室のほか、慰安婦問題などの戦後補償問題、拉致問題などの日朝・日韓関係、水俣病、ハンセン病、在日コリアン、人権・差別などの問題を取材。著書に『朝日新聞の慰安婦報道と裁判』(朝日新聞出版)、『プレイバック東大紛争』(講談社)など。
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(朝日新聞記者 北野 隆一)