91歳、朝ご飯の前に畑仕事を1人でこなし、午後は自らつくった地元のふれあいグループの世話をする。今も現役で村のために元気に動き回る桑原千絵さんは、かつては、姑のひどい嫁いびりに逢っていた。
それでも「よそ者」の嫁は、ただいじめられて泣き寝入りしてはいなかった。彼女が考え出した防衛手段とは――。
■「長野県北部地震」で過疎化が進んだ村
長野県の最北端、新潟県との県境に位置する栄村。JR飯山線の鉄路に沿って東西に滔々と流れる「千曲川」は、村の東端を過ぎて新潟県津南町に入れば、その名が変わり、日本一の大河「信濃川」となる。村の南部には、2000m級の山が聳える山峡「秋山郷」があり、マタギ文化が残る秘境として知られる。江戸期、秋田県阿仁から伝えられたその技術を継承するマタギたちは、今もこの地で春熊猟を行っている。
栄村は豪雪地帯としても知られ、村の中心にあるJR「森宮野原」駅には、1945年2月20日に、積雪が観測史上最高の7m85cmを記録したことを記す標柱が建てられている。
2011年3月12日、東北地方が大地震と津波に襲われた翌日の未明、栄村は最大震度6強という「長野県北部地震」に見舞われ、その影響で過疎化が進む。震災直前の2010年に2348人だった人口は、今や1656人、高齢化率は55%で、2人に1人が高齢者という山村だ。
■今も人との繋がりを楽しむ91歳
この土地に暮らす1人の女性を訪ねた。桑原千恵さん、91歳だ。千恵さんは、村の広報誌「広報さかえ」(2024年9月号)において、「栄村名人」6人のうちの1人として紹介されている。
曰く、「人との繋がりを大切にして伝統料理の会や手芸を楽しむ会を主催している」。
北陸新幹線「飯山」駅からJR飯山線で1時間、「森宮野原」駅の駅舎2階がインタビューの場所だった。
穏やかな日差しの昼下がり、人っ子一人いない駅前に現れた桑原さんに驚かされた。90歳を過ぎて今もお元気と聞いてはいたが、まさか誰の介助も付き添いもなく、一人で颯爽とシニアカーを運転して現れるとは、夢にも思っていなかった。
■70年、毎朝続けている畑仕事
千恵さんは、昭和9(1934)年2月生まれ。腰は曲がっているものの、階段を登る足取りは確かで、小柄だが足腰のどっしりとした強さにも驚いてしまう。飾らない、あたたかな笑顔に一瞬で吸い込まれる。誰の心のバリアも溶かす、チャーミングな表情だ。クリクリ動く瞳には、確かな好奇心の光が宿っていた。
「午前中は、いつも畑なんだよ。今はジャガイモ、トマト、ナス、ピーマン、ネギにサツマイモ。いろいろ、植わってるの。
畑はいいよ。自分一人で、自由にやれるから」
目を細めて、うれしそうに畑のことを話す千恵さんは、まるで少女のよう。
「本当に、楽しいんですよ。畑まではシニアカーで15分ぐらい、山を登るの。鳥が鳴けば、何ていう鳥だろう、きれいな花が咲いているけど、何の花かな、ああ、トノサマガエルが鳴いてんなって、いろいろ眺めながら、山道を登って行くのが楽しいの」
生まれは新潟県十日町市、22歳で栄村に嫁いでから70年近く、丹精込めて作物を作ってきた畑だ。
■連作、輪作、野菜作りで脳トレ
「自分の畑だから、自分の思うように自由にできるの。全部、自分の設計図だから。これは、脳トレの意味もあるんだよ。ナス科は、連作を嫌うの。連作をすると収量が落ちて、立ち枯れ病みたいになってね。だから、トマト、ナス、ジャガイモは4~5年は連作をしない。
白菜やキャベツは輪作してはいけないから、翌年は違うものを作る。
輪作は続けて作ってはいけないというものだけど、1年だけ開ければいいの。設計図も、なかなか複雑なんだよ。何年か先のことまで考えて、今、何をするか。それを考えるのが、楽しいの。家の裏に小さいのが1つ、山の上に2つ、自分の畑があるんだよ」
朝は4時半に起き、すぐに山の畑へ行く。一通り作業をしたら、7時ころにいったん家に戻り、同居している次男の妻が作ってくれる朝食を食べ、8時ころにまた山の畑へ。10時半で山の作業を切りあげて、温泉に浸かってから昼食。午後は好きな手芸に没頭し、夕食後は自室でテレビを見て、8時には就寝するという日々だ。
「好きなことだけしているから、今は最高。毎日、幸せだなーって思うんだよ」
「今は」とあえて付け加えるのは、つらい過去があったからだ。千恵さんは栄村に嫁ぎ、嫁いびりとよそ者差別という、理不尽な境遇に突き落とされた。
■姑から「能なしが来た」と嫁いびり
十日町の実家では、3代ぶりに授かった女の子とあって、家族や親戚から大切に扱われ、可愛がられて育った。
家業は、大規模経営の米農家。父親が40代の若さで急逝したため高校進学は叶わなかったが、それを不幸だとも悔しいとも思うことはなかった。
新制中学3年生のある日、存命だった父は千恵さんに、「学校を卒業したら、何をするんだ」と聞いてきた。千恵さんは「洋裁をしたいから、ミシンが欲しい」と答えたという。それが、その年の暮れのこと。戦後の物資不足の時代、父は千恵さんのために、十日町中を探して、ようやくミシンを見つけて買ってきてくれた。父が亡くなったのは翌年の3月、ミシンは父の形見となった。
「農繁期は家の手伝いをして、農閑期になると習い事をさせてもらっていたの。洋裁と機織り。十日町は絹の町だったから、母が機織りをやっていた。それを小さい時から見ていたから糸道がわかって、機が織れたんですよ」
叔父が栄村の製材工場で働いていた関係で、当時はどこにでもいた“世話焼き婆さん”「でしゃばりおよね」の口利きで、栄村に嫁ぐこととなった。夫は6歳上、役場の職員だった。

「嫁に来てみたら、十日町とは違ってこっちはものすごく封建的で、男女平等なんてものはどこにもない。主人は、7人きょうだいの男1人。小姑が6人いて、いびられたねー。姑からは、『能なしが来た』ってはっきり言われた。高校を出ていないだけで、能なしってバカにされたの」
■よそ者の嫁7人が結束、グループを作る
嫁入り翌日に辱めを受けるとは思いもしないことだった。
「嫁入りの翌朝、姑が近所のおばちゃんたちみんなに、私の嫁入り道具を開けて、中身を見せているんですよ。洋服ダンスや引き出しを全部、開けて。嫌だったなー、あれは。母が頑張って、いっぱいに詰めてくれたから良かったけど。
父の形見のミシンも持ってきたけど、当時、ミシンを持ってくる嫁なんていなかった。だから、おばちゃんたち、ミシンになんか、全然、興味ないわけ。ただ、箪笥だけ。
『あの嫁、どこからきたか、わからんものが』って、私の実家からは30キロしか離れていないのに、露骨なよそ者扱い。本当に、ここは封建主義のところだと思ったね」
たまたまだが、近所に同じような境遇の嫁が7人いた。千恵さんは姑にいじめられている嫁同士で、すぐにグループを作った。これが、千恵さんの生涯を貫く、“グループ作り”の始まりだ。
「名前は、『福寿草グループ』にしたの。雪が溶けたら、一番先に咲く花だから。みんなで雪の上の陽だまりで日向ぼっこをしながら、おしゃべりをするの。姑にこう言われた、苦しかった、悔しかったって。そして、この話はここだけで収めよう、決して外には漏らさないって決めたの。家にはおっかないのがいるから、いつも外で青空教室ですよ。みんな、子どもをおんぶしたり、抱っこしたり、お腹に子どもがいたり……」
■「福寿草グループ」で生活改善
苦しい胸の内をぶちまけて、それを受け止めてもらえる仲間がいることで、嫁たちは理不尽さに耐えた。それだけでなく、「福寿草グループ」は生活改善にも取り組んだ。
「あの頃はグループ作りを県が奨励していて、県の生活改善普及員の方が集まりによく来てくれたの。県からグループ育成費が出て、みんなで衣食住のことを勉強したんだよ。周りに白い目で見られながら、改善に取り組んだ。よく勇気があったと思うよ」
まずは、子育てだ。山の上の畑に行った仲間の赤ちゃんがお腹を空かせば、誰でもおっぱいをあげ、グループの子どもを共同で育てた。
「おっぱいの足りない人がいたから、ヤギを飼いましょうって、県から補助をもらった。可愛いのがきたんですよ。血統書付きの山羊だから、乳がいっぱい出て、グループ内で飲みきれないから、近所の人にも分けて回ったの」
当時、嫁の大事な役割に農業があった。
「夫はたいてい職人とか勤め人だから、あの頃はどこでも“母ちゃん農業”。農業も、共同作業にした。今日はここの家の田んぼ、明日はここの家の田んぼって」
■新しく導入した農具でさらなる嫁いびり
農業先進地域の十日町から嫁いで来た千恵さんは、新しい手法も十日町から持ってきた。
「嫁に来た頃は田植えの時、稲を真っ直ぐに植えるために、田んぼの両側で紐を張っていた。その紐を、私ら嫁が植え終わらなくても、意地悪して両側の人がピンと引っ張るの。それをやられると、泥が顔まで跳ねてきて目に入るし、着ている服まで泥まみれになっちゃう。姑さんたち、そんな意地悪をしてきたの。だから私は、線をつける道具を十日町から持ってきた。その方が能率がいいし、意地悪されないから。
そしたら、“お母ちゃん盛り”の人たちが、足でぐちゃぐちゃに線を消して回るの。新しいことをやるのが気に入らないと。効率より、自分たちが慣れてることをやった方がいいと思っていたんでしょ。でも7人は、これでやると決めたから、その上にまた線を引くんですよ。それを何年かしていたら、とうとう(意地悪な)お母ちゃんたち、折れたっけな」
「お母ちゃん盛り」とは、40代ぐらいの、子どもがすでに大きくなっていた人たちのことだ。千恵さんは迫害にもめげず、作業の能率を良くするために、一輪車に除草機、歩行用コンバインも十日市から持ち込んだ。
「長男がお腹に入っている頃に、稲刈りの時期にあたってしまったから稲を背負うのが大変で、それで一輪車を実家から持ってきたんですよ。若くて体力もあったから、持ってくることができたんでしょうね。飯山線で、持ってきたんですよ。みんな、『あんなもん、あんなもん』って馬鹿にしたんですよ。『あの嫁は、まったく……』って言われたけど、それに負けないでね。一輪車なんか、2~3年したらどこの家にも軒並みあるし、コンバインも結局はすごく重宝がられました」
■嫁7人で作った山の上の田んぼ
福寿草グループは、結成後ほどなく、山の上の畑を田んぼに開墾した。
「山の上まで歩きで登っていって、7人の母ちゃんたちみんな、鋤で土を起こしてさ。30町歩、6枚の田んぼを作ったの。水を張れるようにドロドロにして、苗は背負って上がっていた。よくあんなことができたと思うよ。今思えば、夢のようだよ。最近、若い衆に『山の上の田んぼ、私ら7人で作った』って話したら、びっくりしてさ」
次に取り組んだのが、「住」の問題だ。
「どこの家も襖だらけで、吹雪の日なんて、柱と襖の間から雪が家の中に入ってくるわけ。隙間に新聞紙を入れるとか、カーテンをつけるとか、雪を防ぐ方策にみんなで取り組んだ。室温は何度が適温なのか、グループで勉強もしたね。グループ育成費が入れば、『今度は、あなたの家に子ども部屋を作ろう』って。あの頃、子ども部屋なんてどこの家にもなかった。だからこそ、順番に子ども部屋を作っていったの」
周囲から白い目で見られていた嫁たちの活動が、集落で認められるには10年はかかったという。
「どこから来たかわからない者が、新しいことをやるから、風当たりがすごかったけど、認めてもらうまで頑張りましたよー」
■「仲間づくりが好きなんですよ」
福寿草グループを起点に、千恵さんはその先にいろいろなグループを作っていく。
「私、仲間作りが好きなんですよ。仲間はいいですよ。楽しいですよ」
可愛らしい笑顔で、千恵さんはにっこりと微笑む。飾らず、気負わず、自然体で当たり前のように、人との繋がりを作っていく。こんな91歳女性がいるなんて……。
栄村で千恵さんの名を出せば、誰もが「あの人は、素晴らしい」という言葉が返ってくる。地震後、故郷の集落を300年先まで続くように復旧・復興に邁進する60代男性は、「あの人のようになりたい」とまで言った。新潟から、縁もゆかりもない土地に嫁いだ一介の嫁は、まさに、「村の宝」となったのだ。

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黒川 祥子(くろかわ・しょうこ)

ノンフィクション作家

福島県生まれ。ノンフィクション作家。東京女子大卒。2013年、『誕生日を知らない女の子 虐待――その後の子どもたち』(集英社)で、第11 回開高健ノンフィクション賞を受賞。このほか『8050問題 中高年ひきこもり、7つの家族の再生物語』(集英社)、『県立!再チャレンジ高校』(講談社現代新書)、『シングルマザー、その後』(集英社新書)、『母と娘。それでも生きることにした』(集英社インターナショナル)などがある。

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(ノンフィクション作家 黒川 祥子)
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