■奥医師の判断前に女性に手をつけ妊娠させた
日本史上、最も子どもが多かった為政者は、おそらく江戸幕府11代将軍・徳川家斉(いえなり)(1773~1841)だろう。少なくとも側室が16人おり、53人の子どもがいたと伝わる。しかし、子の半分は成人になる前に死去してしまった。では、残りの半分、生きながらえた子どもたちは、どのような人生を全うしたのだろうか。
家斉の子どもは25男28女、計53人だが、死産した子どもを入れると60人近くいた。第一子が生まれたのは、家斉が満15歳4カ月の時。江戸時代とはいえ、かなり早熟だったようだ。その半年前に、家斉に女性を近づけて(=初体験させて)はどうかと奥医師たちが議論していたが、時期尚早ということで見送っている。
ところが、出産時期を逆算しておわかりの通り、当人はすでに済ませていたのである。一方、末っ子が生まれたのは53歳11カ月。家斉は満67歳4カ月まで生きたので、遠祖・家康を見習って60歳過ぎまで頑張ることもできたろうに。思ったよりも早いなと感じてしまった。
子どもの平均年齢は16歳5カ月(早世が多いので、何年何カ月まで生きたかを計算したが、閏月は考慮に入れていない)。意外に長生きだが、50歳以上が5人もいるので、かれらが平均年齢を引き上げたのだろう。最年長は14男の松平斉民の78歳7カ月である。
1歳未満で死去したのは7人(9%)、3歳未満だと19人(13%)、7歳未満だと実に29人(55%)が死去している。なるほど七五三で子どもの成長を願うはずだ。家斉は子どもが次々と早世するのを悲しみ、「せめて庶民の子どものように長生きさせてやれないものか」と懇願したという。だからというわけではないが、晩年に近いほど、子どもの早世は減っていった。
■12代将軍・徳川家慶を含め15男12女が成長
早世しなかった子どもたちであるが、男子は他家の養子になった者、女子は他家に嫁いだ者をカウントした。12代将軍・徳川家慶を含め、15男12女。計27人が該当する(うち3人は7歳未満で死去)。
■仮想外敵である島津家の姫が家斉の正室に
まず、4男・徳川敦之助がわずか3歳で清水徳川家の家督を継ぎ、翌年に死去している。これには特別な事情があった。
2024年放映のフジテレビ「大奥」は、10代将軍・徳川家治の正室(皇族)が妊娠するのを大奥の女性たちが阻止しようとするのが描かれていた。曰く、「公家(皇族を含む)の子が将軍職に就くと、朝廷が幕政に介入する」と。ところが、その家治の母が公家(梅溪(うめたに)家)出身なのである(笑)。
それより幕閣が恐れていたのは、外様雄藩の大名の娘が将軍の子どもを生んで、その子が将軍になることである。歴代将軍の正室は、3代・家光以来、京都の公家か皇族出身だったのだが、よりにもよって、家斉の正室・篤姫(のち茂姫、天璋院篤姫とは別人)は薩摩藩主・島津重豪(しげひで)の娘で、男子を生んでしまった。それが4男の敦之助なのだ。家斉はもともと一橋徳川家の世子で、10代・家治の子が急死してしまったので、急遽後継者に指名された。その時、すでに島津家の姫と婚約していたのである。
そこで、幕閣は一計を案じた。家斉の子どもは母親が誰であるかを問わず、みな篤姫の子どもという扱いにする。そうすると、篤姫に子が生まれても、庶腹の兄がいれば、嫡男にはならない。かくして、側室の子・家慶が、嫡出子・敦之助を差し置いて嫡男になったのだ。
■増えすぎた徳川のプリンスの養子縁組先
敦之助が死去すると、弟の6男・徳川斉順(なりゆき)がその跡を継いだ。ちょうどいい養子先が見つかったと、幕閣はホッとしたことであろう。
紀伊徳川治宝(はるとみ)には男子がおらず、8男・徳川虎千代がわずか3歳で婿養子に入ると決められたが、1810年に5歳で死去してしまう。しかし、こんないい養子の口を逃す手はない。婿養子にするには相応の年齢が必要で、当時、家斉の子で10歳以上の男子は斉順しかいなかったので、斉順が養子となった。斉順が紀伊徳川家に移ったため、清水徳川家は10男・徳川斉明(なりあきら)が跡を継ぎ、20男・徳川斉彊(なりかつ)とタライ回しにされた。
では、清水徳川家以外の御三卿、田安徳川家・一橋徳川家はどうなったのか。
■御三卿の田安・一橋両家へも家斉キッズが
一橋徳川家は家斉の実家で、3代・徳川斉敦は家斉の同母弟だったから、幕閣も遠慮していたのかもしれない。5代・徳川斉位(なりつら)の妻に家斉の27女・永姫が嫁いでおり、6代当主に家斉の孫・徳川慶昌(よしまさ)が就いているくらいで、激しい養子押し込み運動はなかったようだ。
一方、田安徳川家は1774年に2代・徳川治察(はるあき)が死去し、開店休業状態だった。「べらぼう」でも描かれたように、家斉の異母弟・徳川斉匡(なりまさ)を田安徳川家当主とした。
しかし、家斉はこの弟がかわいくなかったらしい。斉匡に男子がいるにもかかわらず、1813年にわずか4歳の11男・徳川斉荘(なりたか)を婿養子とさせて、1836年に家督を譲らせてしまう。にもかかわらず、1839年に尾張徳川斉温(なりはる)(家斉の18男)が死去すると、その6日後に斉荘を尾張徳川家の養子とした。斉荘が死去すると、幕閣は斉匡の10男・徳川慶臧(よしつぐ)を尾張徳川家に送り込んだ。
何代にもわたる家斉ファミリーの養子押し込めは、尾張藩附家老・成瀬家が幕閣と結託して実施したものである。成瀬家は代々徳川(旧松平)家に仕えた譜代家臣。その祖・成瀬正成は晩年の家康の最側近だったのだが、尾張藩附家老とされた。附家老は将軍家直臣なのか、陪臣(家臣の家臣)なのか曖昧な立場で、成瀬家はそれが口惜しくてたまらない。家斉の子どもを藩主に迎える代わりに、大名並みの待遇をもらえるように闇取引した。
■尾張徳川家、水戸徳川家は受け入れたのか
ところが、尾張徳川家には高須松平家という支藩があり、その子どもたちは「高須四兄弟」と呼ばれて極めて優秀だったので、藩士の不満は頂点に達して猛反発。
同様に水戸藩でも徳川斉脩(なりのぶ)に子がないまま死去すると、家斉の子・斉彊(のち清水・紀伊徳川家を継ぐ)を養子に迎えて金銭的な補助を得ようとした。斉脩に家斉の8女・峯姫が嫁いだことで、幕府からの借財20万両がチャラになり、年間1万両の助成金が与えられたので、夢をもう一度というわけである。
ただし、斉脩は5男6女の兄弟で、優秀な弟が部屋住みとして待機しており、弟を推すべしとの声が大きかった。揉めに揉め、結局、峯姫が斉脩の遺言といって弟を後継者とした。徳川斉昭である。斉昭が幕府に食ってかかったのは、この時の恨みがあったからかもしれない。
■徳川家・親藩だけでは子女をさばききれず…
家斉は子だくさんなので、御三家・御三卿に押し付けただけではまだ足りない。21男・松平斉善(なりさわ)を御三家に次ぐ名門・越前松平家に出した。
御三家・御三卿、さらに親藩大名に押し付けただけではまだ足りない。12男・斉衆(なりひろ)を因幡鳥取藩32万石の池田斉稷(なりとし)、22男・斉裕(なりひろ)を阿波徳島藩25万7900石の蜂須賀斉昌(なりまさ)の養子とした。
江戸時代初期であれば、これらの子どもを立藩させ、大名として遇することができたかもしれないが、当時の財政状況ではどうにも無理な話だった。だから、諸大名の養子押し付けを画策したのだが、これがどうにも評判が悪く、江戸幕府崩壊を早めたとも噂されている。家斉の子作りは高くついてしまったのだ。
家斉にはこれだけ多くの子がいたにもかかわらず、孫は数人しかおらず、男系の曾孫は津山松平家と蜂須賀家しかなかった。その蜂須賀家も一人娘の蜂須賀正子しかおらず、現在、男系で残っているのは津山松平1家だけになってしまった。
----------
菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。
----------
(経営史学者・系図研究者 菊地 浩之)