江戸時代に活躍した喜多川歌麿はどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「鋭い観察眼で傑作を次々に生み出した。
彼の作品を見るに、その眼は身近な女性にも向けられていたのではないか」という――。
■天才絵師・歌麿のすごさは「虫の絵」だけじゃない
喜多川歌麿(染谷将太)が蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)のもとに絵を持参し、「これが俺の“ならではの”絵さ」といって見せたのは、NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の第33回「打壊演太女功徳」(8月31日放送)の終盤だった。腕は立つのに、育った環境ゆえに心に闇をかかえ、「人まね歌麿」から抜け出せなかった彼が、ついに自分らしさを発揮した、という展開だった。
その絵には、トンボやチョウ、バッタやクツワムシ、ケラやハサミムシなどの昆虫から、ヘビやトカゲなどの爬虫類、それにカエルやカタツムリまでが、植物とともに美しい色彩で活き活きと緻密に描かれていた。その写実の才には、ただただ驚かされる。
続く第34回「ありがた山とかたじけ茄子」(9月7日放送)。天明7年(1787)6月19日に、いきなり老中首座になった松平定信(井上祐貴)は、田沼意次(渡辺謙)の、自由で奢侈が許された時代を全否定するように、質素倹約を押しつけた。これに反発したのが蔦重で、定信の治世をからかう黄表紙に加え、とびきり豪華な狂歌絵本を刊行すると決断。歌麿の虫の絵を使うことにした。
こうして翌天明8年(1788)正月、耕書堂の店先に歌麿画の『画本虫ゑらみ』が並ぶことになった。全15点の絵が15見開き30ページに載せられ、各ページに、そこに描かれた小動物にちなんだ狂歌が詠まれたこの狂歌絵本は、史実においても歌麿の出世作になった。
とはいえ、歌麿が後世にその名を大きく残したのは、やはり人物を描いたからであった。

■史実でも家庭を持っていたのか
実際、『画本虫ゑらみ』が刊行されたのと同じ天明8年、蔦重は歌麿の笑い絵、すなわち春画を集めた本『歌まくら』も刊行した。そこに至る経緯が第35回「間違凧文武二道」(9月14日放送)で流される。
歌麿は蔦重に、以前は描けなかった笑い絵を描いて届けた。そのときひとりの女性を連れてきた。それは第30回「人まね歌麿」(8月10日放送)で、歌麿が助けようとした女だった。歌麿は彼女が男に襲われていると思い、その男を石で滅多打ちにし、蔦重に止められたのだが、実際には、歌麿の母とその情婦の幻影を見ていただけで、男は女性を襲っていたわけではなかった。
ともかく歌麿は、その「おきよ」という耳が聞こえない女性と所帯をもつという。「ちゃんとしたい」「おきよを幸せにしたい」と語る歌麿に、蔦重は満足する。歌麿はおきよをモデルにして笑い絵を描いた、というのがドラマにおける設定なのだろうか。
現実には、蔦重は歌麿を吉原に送り、動植物に対するのと同じ観察眼で、男女の営みを観察させたのではないだろうか。実際、そう考える向きが多い。だが、いずれにしても、歌麿にはこの時期、女性をじっくり観察する機会があったはずで、そのことがのちの「美人大首絵」につながったと考えられる。

では、史実の歌麿に家庭はあったのだろうか。
■定信によって自殺に追い込まれた絵師
じつは、歌麿がどのような暮らしぶりの人物であったのか、なにひとつ伝わっていない。妻がいたのか、子がいたのか、正確なところは一切わからない。だから、「おきよ」とのエピソードもみな脚本家の創作である。この時代、武士を中心とする権力者階級を除くと、系図等によって記録を残す習慣がなく、町人階級は私生活の記録が残りにくかったのだ。
しかし、おそらく歌麿には妻子がいたであろうと考えられている。その理由は後述するが、まだ「べらぼう」では描かれていない歌麿の画業を追っていると、自然とそういう結論に至る。
田沼時代の重商主義のもとでは、出版にも比較的自由な主題が許されていた。だからこそ蔦重の成功があったのだが、松平定信の寛政の改革下では、正反対に取り締まりが厳しくなった。
蔦重はそれに抵抗し、世相をからかってやろうと考えたのだろう。天明8年(1788)には朋誠堂喜三二作『文武二道万石通』、翌寛政元年(1789)には恋川春町作『鸚鵡返文武二道』と、定信の文武と倹約の奨励を揶揄した黄表紙を刊行した。
だが、作者がふたりとも武士だったことも災いし、喜三二は戯作から身を引かざるを得なくなり、春町は死に追いやられるという悲劇に見舞われた。

■傑作「美人大首絵」が生まれた意外な経緯
寛政2年(1790)5月、定信による町触が出された。内容は、好色本を新規に制作するのは好ましくない、草双紙に昔のことに装って不謹慎なことが書かれることが増えた、というもの。後者はまさに、喜三二と春町の著作を指している。蔦重は「出る杭」として打たれる対象になったのだ。
それなのに翌寛政3年(1791)、吉原や深川を題材にした山東京伝の洒落本を3冊刊行し、今度はあえて前者に抵抗した蔦重。結果として身代半減、すなわち財産の半分没収という手痛い処分を受け、京伝も手鎖50日の刑に処されてしまう。
事ここに至って、さすがの蔦重も戯作本の出版を控えざるをえなくなった。それでも本の仕事を続けるべく、巻き返しに刊行したのが、歌麿による美人画だった。ただ、巻き返すには、それなりのインパクトが必要だ。そこで考案されたのが、上半身やバストアップを大きく描いた「美人大首絵」だった。
当時、この手のブロマイド的な錦絵は役者絵にかぎられていた。だが、それを美人画に適用したからといって、簡単に売れるものでない。
そこで、さまざまな工夫が凝らされた。それまでの美人画は髪型や装いの変化で見せるものだったが、アップになった分、わずかな仕草や顔の傾きなどによって、人物の性格や立場までが読みとれる絵が「大首絵」として登場したのである。
■「会いに行けるアイドルのブロマイド」
ただ、だれにでも描けるものではない。歌麿の力量があってのことだった。若い女性でも既婚女性でも、その心情をも浮かび上がらせてしまう力量は、歌麿以外の画家には望めず、そのことを蔦重が見抜いていたということにほかならない。
寛政4年(1792)に刊行された初の美人大首絵シリーズ『婦人相学十躰』は、描かれた一人ひとりの女性の心情を見る人に想像させる。半身像のなかで、少しの手の動きや身体の傾き、微妙な表情の違いを描き、その女性の性質や感情を見事に伝える。
蔦重と歌麿が組んだなかでも、とりわけ大ヒットしたのが、難波屋おきた、高島屋おひさ、富本豊雛の3人を1枚に描いた『当時三美人(寛政三美人)』だった。寛政5年(1793)ごろに刊行され、前者2人は茶屋で働き、最後の1人は富本節の名取で、まさに身近なアイドルのブロマイドとして評判を呼んだ。
だが、蔦重はどこまでも「出る杭」として目をつけられた。寛政5年、絵に評判の娘などの名を入れてはいけないという町触が出された。そこで歌麿が実践したのは、名前を「判じ絵」にして示すという洒落た趣向だった。
たとえば「難波屋おきた」なら、菜っ葉を2杷描いて「なにわ」、弓矢の矢で「や」、海の沖で「おき」、田んぼで「た」、と表現した。
■あまりにもリアルな母子像
しかし、こうした判じ絵も寛政8年(1796)には禁じられてしまう。松平定信はその2年前に老中を罷免されていたが、質素倹約を押しつけ出版統制を強める寛政の改革の方向性は、むしろ定信の失脚後、より極端なかたちで推進された。
じつは、寛政6年(1794)から同7年(1795)を最後に、歌麿の錦絵は蔦重のもとから刊行されなくなる。当局の姿勢に対してどこまでも怯まない歌麿と蔦重のあいだに齟齬が生じたと指摘する向きもある。
ともかく歌麿は、さまざまな版元から錦絵を出し続ける。だが、寛政9年(1797)に蔦重が死去したのち、同12年(1800)には、ついに大首絵までが禁止されてしまう。歌麿がねらい撃ちされたわけだが、それでも歌麿は描き続けた。たとえば、だらしない女性を描いて長い説明文をつけ、教訓を伝える絵。浄瑠璃の主人公の名を明記した絵もあった。
とくに目立ったのが、母と子を主題にした絵だった。母親が、嫌がる男の子を行水させている絵、ぐずる子を蚊帳から外に出して用足しをさせる絵、悪い夢を見て泣き出した子供を眺める絵……。

いずれも幕府の禁令に触れないように、女性に子供を添えて描いているのだが、それだけにとどまる絵には見えない。母子の関係がとても微笑ましく、なにより現実感があふれているのだ。妻子がいないのに描けた絵とは到底思えない。したがって、「べらぼう」の脚本家が歌麿に所帯をもたせたのは、妥当な選択に思える。
歌麿が日々、妻子に向けた鋭い観察眼は、ほかにもさまざまな絵に活かされたのではないだろうか。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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