最初の結婚相手に浮気され、離婚。48歳で再婚した相手の家庭環境も複雑なものだった。
50代女性が同居する高齢の義母は2度目の脳梗塞でほぼ全介助が必要な状態に。医師からは「回復の見込みはなく、自宅介護は無理」と言われたが、女性は自宅介護を敢行した。その背景にあったものとは――。(後編/全2回)
前編のあらすじ】関東地方在住の知立(ちりゅう)瑠美さん(仮名・50代)の両親は、母親が16歳、反社会的勢力に属する父親が25歳の時に結婚。母親が17歳の時に知立さんが生まれた。まだ若い母親は、生後2カ月の知立さんを祖父母の家に置き去りにし、5歳まで祖父母に育てられる。その後も知立さんの生活は安定せず、両親や祖父母、叔父、叔母の家を転々とし続け、小学校4年から父親から性暴力を受けていた。
成人した途端、母親に家を追い出された知立さんは、27歳の時に10歳年上の男性と結婚。しかし同居の義母や義妹から虐められ、33歳の時に夫の浮気が発覚すると、翌年離婚。2012年に48歳で3歳年下の男性と再婚すると、75歳の義母と同居が始まる。義母は64歳まで長女(夫の姉)と暮らしていたが、63歳の時に義父を亡くして以降、長女が豹変。義母にろくな食べ物を与えなくなったため、うつ病や骨粗鬆症、脳梗塞を起こし、左半身に麻痺が残った。
そんな状況を見かねて夫は義母を引き取っていた――。

■2度目の脳梗塞
2024年7月9日はデイサービスが休みだった。休みの日の義母(87)は、起きていても昼過ぎまではリビングに来ない。
しかし14時近くになっても来ないので、知立(ちりゅう)瑠美さん(仮名・50代)は義母の部屋に向かう。
「お義母さ~ん? そろそろ起きてご飯食べないと……」
知立さんの声に反応し、のっそりとベッドから起き上がった義母の下半身に何気なく目をやると、ぐっしょりと濡れている。
「義母はリハビリパンツを使用中していたにもかかわらず、失禁してシーツや敷布団にまで尿が浸透していました。私は『え? これって1回分の量じゃないよね?』と驚き、動揺しました」

「お義母さん、大丈夫?」
と声をかけるも、義母は返事をしない。
「お義母さん、お風呂で体洗わなきゃだから立って!」
浴室に連れて行こうとするが、義母は体に力が全く入らない様子。
その姿にさらに動揺し、慌てた知立さんは、10年前、子どもたちが小学校に上がったことをきっかけに、近くのマンションに移った30代の義娘に電話する。
パートの仕事が終わった義娘は、状況を知ると、10分ほどで行くと答えた。電話を終えて振り返ると、義母は失禁を繰り返しながらも、這いずってリビングに向かおうとしていた。
駆けつけた義娘と一緒に義母を洗い、部屋や寝具類の後始末をすると、義母にお粥を食べさせる。

そうこうしているうちに夫が帰宅したため、義母を病院に連れて行くことに。
CTや血液検査を行った後、医師が「前から口って曲がってました? もしかしたら脳梗塞かもしれないのでMRI撮りますね」と言う。
結果はやはり脳梗塞だった。
「義母は64歳の時に脳梗塞を起こしていますが、その頃夫も義娘も、もちろん私も一緒に暮らしていなかったため、脳梗塞がどんな病気でどんな前兆があり、どんな症状を起こすのか、全く知識がありませんでした」
義母はそのまま入院することになり、知立さんと夫は入院や治療に関する説明を受けた。
「退院後の患者さんですが、どこか施設など探されますか?」
最後に看護師からこう尋ねられると、知立さんはびっくりして
「えっ? 家に連れて帰りますけど?」
と即答。
「退院したら当然家に連れて帰るものだと思っていた私は、『なんで施設?』と、その質問に驚きました。その時の私は、脳梗塞といっても小さかったし、その後の生活がそこまで変わるなんて思いもしなかったのです……」
■退院後の選択肢
翌日、知立さんが着替えなど、入院に必要なものを持って再び病院を訪れると、昨晩とは別の看護師がまた「退院後は施設を探しますか?」と質問してきた。
知立さんは、「業務連絡がしっかり行き届いていないのかな?」と思いつつ、「家に連れて帰ります」と答えた。
その日の夜、漠然とした不安を感じていた知立さんは、帰宅した夫に病院でのことを報告する。すると夫は、
「一度目の脳梗塞の時だって、最初は左半身麻痺が出ていたけど、1カ月もしない内に動けるようになったし、大丈夫だって。お袋は自分の父親が脳梗塞になった時の姿を見てるから、脳梗塞になると足が動かなくなると思い込んでるだけだから」
と笑った。
「義母は『脳梗塞になるとこうなってしまうんだ!』という思い込みで、左足を引きずって歩いていたし、食事の時以外は手が動かなくなりました。
医師からも、『後遺症が残るような大きな梗塞じゃないんだけどなぁ』と不思議がっていました」
知立さんは、「今回も思い込みならいいんだけどね……」と呟いた。翌朝、医師から説明があるため来てほしいと電話がある。医師は、
・右半身麻痺

・右半盲

・右の聴覚もない

・言語障害
であることを説明。
「右半身麻痺が出切ってしまっているため、退院後、自宅介護することは難しいと思いますよ」
と言った。
知立さんは、「だから何度も看護師さんに聞かれたのか」と合点がいった。
14日土曜日、夫と病院を訪れると、面会が可能だと言われる。
5日ぶりに会った義母は、車椅子に乗って現れた。
知立さんや夫が声をかけるが、反応はなく、視線すら合わせようとしない。右側は見えない聞こえない状態なので、左側から声をかけたが同じだった。
「またくるからね」
知立さんは左の耳元でそう言って帰路についた。
そして在宅介護の準備に入った。
「夫は以前1人で義母を介護したつらい経験から、『何かあったら施設を探す』と言っていました。
でも実際問題として、施設にいくらかかるかをケアマネさんに聞いたことがありますが、安いところでも月10万円くらいはすると……。義母の年金では足りません。夫は、実際に介護をするのは私なので、『お袋を介護してくれ』とは言えないんだと思います。そして私も、やってもいない内から無理だと諦めるのは嫌でした」
■退院後の奇跡
入院中の義母は、コロナに感染。その3日後には胆嚢炎を起こして緊急手術を受けた。
それでもなんとか8月13日に退院を迎えた義母を目にした時、知立さんと夫は「この一年もつかどうか?」と思った。
「1回目の脳梗塞で左半身に麻痺が残り、杖をつけば歩ける程度にまで回復したにもかかわらず、2回目で右半身が麻痺し、使えるのは左半身のみで手足を軽く動かせる程度。座位も保てず自力で座ることもできず、もちろん立つこともできません。医師は『言語能力が回復することはまずないでしょう』と言っていました。水のみを持たせたら口に運んで、こぼしながら飲むくらいはできますが、ほぼ全介助状態でした」
それまで通っていたデイサービスは「受け入れられない」との回答があり、別の施設を探した。義母は座位が保てないため、自宅の浴室を利用する訪問介護サービスではなく、簡易浴槽を使う訪問入浴サービスの契約をした。
知立さんは、地域の家族介護支援センターの訪問レッスンサービスを利用して、オムツ交換や車椅子への移譲、衣服着脱や食事介助、口腔ケアの方法やミキサー食の作り方など、さまざまな介護ノウハウを学び、義母の退院に挑んだ。

家に戻ってきた義母は、ほぼ一日中眠っていた。それでも知立さんは、少しでも元気になるようにと、義母が食べられるものを探す。カロリーメイトやレトルトの介護食もいろいろ試した。
すると少しずつ食べられる量が増えていった。
そして8月22日。仕事から帰宅した夫が、いつものように義母に「ただいま」と声をかけると、「おかえり」と一語一語絞り出すように声を出した。
知立さんと夫は顔を見合わせた後、大喜びした。
■いいときも悪いときもある
しかし介護はきれいごとでは済まされない。
義母は9月に要介護5という結果が出た。
義母の介護は基本、知立さん1人で行い、夫は気が向いた時に手伝う程度。相談や愚痴は聞いてくれるが、どうしてもやりきれい思いに囚われ続けてしまうこともある。
「介護に関わるまで、こんなに大変だとは思わず、そして自分の内面とまで向き合うことになるとは思いませんでした。
通常の家事の他に介護が加わり、全てが自分1人にのしかかります。思うようにならない苛立ちから、声を荒らげたり、きつい物言いをしたりしたころもあります。それによって罪悪感に苛まれ、自分の本質と向き合うハメになります。介護する人はこれが一番キツイと思います……」
介護には大きな波、小さな波がある。精神的にも肉体的にも疲労が溜まると、どうしても矛先は一番近くにいる人に向かう。
「先日も義娘や孫たちが遊びにきている前で夫と言い争いになり『もう無理かもしれない』と思いました。しかし真剣に話し合い、『自分や母親、血の繋がらない娘や孫の事まで、いろいろやってくれて感謝しかない。それなのにイライラしてすまない。甘えていたのだと思う』と言って謝ってくれました。私自身も余裕がなくて、夫を労れなかった部分はあったと思います」
■義母の介護をする理由
知立さんが在宅介護に固執するのは、経済的な事情もあるが、自身の生い立ちにも深く関わっている(前編参照)。
「小さな頃から親戚中を転々としていた私には、家族関係が希薄でした。なので自分に家族ができた時は、精いっぱい愛情を注ごうと決めていました。だから在宅介護を経験してみることなく、義母を施設に入れるという考えは私にはありませんでした」
それでも溜まってしまうどうしてもやり場のない気持ちを吐き出すために、知立さんは在宅介護が始まった昨年の7月からブログを開設。ブログのおかげで同じように介護をしている人たちと出会い、その存在が励みになっているという。
また、1週間ごとに担当者が訪問し、介護のノウハウを教えてくれる家族介護支援センターも支えになった。昨年9月の2週目に訪れた担当者は、
「一週間前より顔つきがしっかりしてきて、すごい回復ですね」
と言ってくれ、知立さんは嬉しかった。
「正直、私が再婚したばかりの頃の義母は、言わなきゃ着替えも歯磨きもしないだらしがなく、愛想も趣味も向上心もないような、生きていて何が楽しいんだろうと思える人で、私は義母が嫌いでした。それが今は、本当に良く食べるようになってくれたし、話しかけると片言の返事を返してくれるようになり、可愛いとさえ思うようになりました」
キャンピングカーで出かけることが好きな知立さんは、時々ショートステイを利用してキャンピングカーで遠出するなど、自分を甘やかす時間を設けている。
「正直、介護にやりがいは感じませんが、目標はあくまでも在宅での看取りです。もちろん完璧ではありませんし、これからも夫とは喧嘩をするのだと思います。まだ介護1年生なので偉そうな事は言えませんが、介護に軽い、重いはないと思っていますし、介護は本当に孤独です。けれど、これから介護をする人、今介護をしている人には、一人ぼっちではないと知ってほしいです。とにかく溜め込まないで、どこかに吐き出すこと。介護に『こうあるべき』なんてルールはありませんから、自分の時間を持ち、手を抜けるところは抜くようにしてください」
「親を施設に入れる」という選択をしたとしても恥ずかしいことではないし、誰にも責める資格はない。むしろ子どもが楽になることで、最期まで良好な関係で親を見送ることができる場合が多い。介護にルールはない。だからこそ自分を優先して、できる範囲で介護に挑んでほしい。

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)

ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー

愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する~子どもを「所有物扱い」する母親たち~』(光文社新書)刊行。

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(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)
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