■兵庫で生まれた「幻のコロッケ」
「43年待ち」――。この信じられない数字が指し示すのは、兵庫県高砂市にある老舗精肉店「旭屋」の「神戸ビーフコロッケ 極み(以下、極みコロッケ)」だ。
最高級A5等級の3歳雌牛の神戸牛と地元産の「レッドアンデス」種のジャガイモを贅沢に使った逸品である。
実際に食べた人からは、
「待つだけの価値はある!」
「普段食べるコロッケとは思えないような高級肉が入ってる」
「今まで食べたコロッケの中でダントツ美味しい」
との口コミが上がっている。オンライン通販のみで販売され、1日わずか200個の限定生産で続くこのコロッケは、その待ち期間を更新し続けている。
同商品の開発秘話を聞くべく、私は兵庫県高砂市にある旭屋の本店に向かった。
店を訪れると、このコロッケを開発した3代目店主・新田滋さんがバックヤードで牛肉を切っていた。筋張った腕で丁寧に牛肉を扱う姿は料理人にも見える。
作業を終えた新田さんが、歩いて数分のところにあるコロッケの製造場を案内してくれた。
■肉を売るために始めたが、コロッケが一人歩き…
製造場の中に入ると、2名の白い作業着を着たスタッフが取り組んでいた。極みコロッケを含む数種類のコロッケが、ここで作られているという。1日寝かしたコロッケの種を、専用の衣をつける機械へ通し、スタッフが一つずつ丁寧につけ直していた。
製造場の2階にある休憩室で、インタビューが始まった。私が「43年待ちって、途方もない年月ですね」と感想を伝えると、今年の10月で61歳になる新田さんは切れ長の目元に笑いジワを寄せながら語った。
「肉を売りたかったので、コロッケは足掛かりでええと思ったんです。それが、あっという間に一人歩きしてしまって……」
なぜ、地方の小さな精肉店で作られるコロッケがこれほどまでに人々を惹きつけ、半世紀近くもの「待ち時間」を生み出したのだろうか――。
この信じられない数字の裏には、父から受け継いだ「客の顔を覚える」という泥臭い商売スタイルと、誰もが諦めてしまうような経営危機を乗り越えた執念の物語があった。
■順調だったサラリーマン生活
旭屋のはじまりは大正15年(1926年)。石川県金沢市出身の祖父が、祖母と駆け落ちし、神戸の肉屋で修業を始めた。その後、競合店のいない地域を求め、高砂市に「旭屋」の看板を立てた。
海岸沿いの工業地帯であるこの町は、夕方5時頃になると、工場で働く人やその家族がひっきりなしに店を出入りした。肉だけでなく、夕食の1品になるサラダや、注文を受けてから揚げるとんかつが飛ぶように売れた。
新田さんが店を継ぐことになったのは30歳の時。当時、東京の大手宅配会社で手取りが100万円を超え、昇進の話が出ていたというほど、順調なサラリーマン生活を送っていた。
ある時、東京に遊びに来た妹から「お父さんが帰ってこいって言ってるで」と聞かされた。どうやら父の体調が芳しくなく、「店を継いでほしい」と言っているという。
まずは様子を見に行こうと実家に帰ると、父はすでに新田さんが通えるように食肉学校の入学手続きを済ませていた。いずれは戻るかもしれないとは考えていたが、これほど急な展開は予想外だった。
「まだ退職届も出してへんのに!」と思いながらも、跡を継ぐ準備を始めた。
■常連客の好みを知り尽くした父
食肉学校で1年間肉の基礎を学んだ新田さんは、その後正式に家業を継ぎ、肉の捌き方や客の対応など学びながら店を切り盛りする日々が始まった。父は休む日もあったが、新田さんとともに店頭に立った。父の仕事ぶりを見て一番驚いたのは、客からの過去の要望をすべて覚えていることだった。
例えば、常連客の女性が店にやってきて「今日は東京から息子が帰ってくるの」と言う。すると、父はすべてを理解して戸惑うことなく、赤身肉の準備を始めるのだ。父は客だけでなく、その家族の好みの肉の部位まで暗記していた。
「あそこに行って買えば、これが出てくるから楽やわ」
「知ってる人が出してくれるから、(味も素材も)間違いない」
そうした客からの声に、新田さんは唸った。
「混んでいる時に、『おい親父。いつものやつ、切ってくれ』とわざとカッコつけたがるお客さんもいて。周りのお客さんは『この人、常連さんなんや』と。けど、その人は年に2回くらいしか来ない(笑)。それをステータスに感じてくれてたんでしょうね。父は商売上手でした」
新田さんも常連客を覚えようと、エプロンにノートを忍ばせ、客の情報を逐一メモするようになった。「ホンダのバイクで赤いヘルメットのおばちゃんは何を買うかとか、ようメモ取ってました。でも、バイクとヘルメットが変わって、誰かわからなくなった。
■大型スーパーに押され、ネット通販に挑む
旭屋は2026年で創業100年を迎える(戦時中の2年間は休業)。この間、何度も経営危機を乗り越えてきた。1996年のO-157問題や2001年のBSE(牛海綿状脳症)による風評被害、そして直近ではコロナ禍。それだけではない。新田さんが家業を継いだ頃、大型店舗規制法の改正によりイオンなどの大型スーパーが台頭し、価格競争が激化していた。旭屋の売り上げも下降傾向にあった。
この状況を受けて、新田さんはスーパーとの差別化を図るため、高価な神戸ビーフに特化し、売れ筋の惣菜に力を入れるべきだと思った。
そう感じてはいたものの、打ち手がなかった。その時、趣味でホームページを作っている知り合いの包丁販売店の社長がこう提案してきた。
「10万円できれい作ったるよ。ネットでお肉、売ったらどうや?」
新田さんは「そんなんで売れんのかいな」と半信半疑な思いを抱いたが、物は試しとホームページ作りを頼むことにした。
通販の可能性を感じた新田さんはさらに力を入れる。だが、注文客はほとんどが個人客。パソコンはブラウン管モニターの時代である。あるかないかもわからない店に、客が100g3000円以上する高級肉を注文するのかと思い悩んだ。
そこで一つのアイデアが浮かぶ。
「お試しで神戸牛を楽しめて、お店のコンセプトを詰めた商品を作ろう」。この“お試し”戦略が、「極みコロッケ」の生まれるきっかけとなった。この時はまだ、自分の作ったコロッケを何十年も待つ人が日本各地で増えることになろうとは夢にも思わなかった。
■徹底した地元産の食材へのこだわり
極みコロッケには、新田さんの職人気質なこだわりが詰まっている。
コロッケに使う牛肩ロースはサイコロ状にカットして贅沢に入れる。揚げた時に出る肉の旨みと柔らかい食感がジャガイモに染み込む相乗効果を狙っているという。
次はジャガイモ。神戸牛は旨味が強いのが特徴だ。それに負けない味や食感のあるジャガイモが不可欠だった。
「うちの店のコンセプトは初代の頃から変わらず、『顔の知らん人が作ったものは売りません』、『地元の物しか売りません』だったので。市場でジャガイモ仕入れて……という作り方じゃなくて、チームで作ろうと思ったんです」
新田さんが選んだのは甘味の強い「レッドアンデス」だった。しかし、この品種は北海道でしか作っておらず、コロッケを年中売ろうと思ったら二期作をしている農家から取り寄せねばならなかった。
地元の食材で作ることにこだわる新田さんは、車で1時間ほど離れた西脇市で牧場を営む知り合いに、ジャガイモの栽培を頼み込む。
「『じゃあ、苗を持ってこい』と引き受けてくれたんですが、『農薬や石灰、除草剤を使ったらあかん』って言ったら、『おまえ……わしを殺す気か?』って言われましたわ(笑)。それでも『ぼけへんためにも、ここの畑1枚分(1区画)でいいから』とお願いしました」
そこからジャガイモづくりの輪は、少しずつ広がっていく。「わし一人ではムリや」と言う牧場主のつてもあり、高砂市や姫路市の農家が生産を引き受けてくれるようになった。
近隣の淡路には、特産の玉ねぎがある。その苗を地元の農家に持っていき、生産を頼んだ。コロッケの材料はこうして出そろった。
■1日200個しか「作れない」
「極みコロッケ」の秘密は、食材へのこだわりだけではない。新田さんが考え抜いた手間暇のかかる工夫にある。
例えばジャガイモ。糖度が高い「レッドアンデス」を収穫し、そこから3カ月間冷蔵庫で追熟させてさらに糖度を上げる。
皮むきは蒸した直後、ホクホクの状態で必ず人の手で行う。新田さん曰く、「ジャガイモの芋と皮の間に薄皮というのがあって、ここが一番美味しい」という。自動の皮むき器では、薄皮は皮ごと削られてしまうから使わない。玉ねぎもフードカッターで一気に切ってしまうと、素材の味が損なわれてしまうから使わない。
冒頭で述べたように、このコロッケは1日200個しか作らない。より厳密に言えば、200しか作れないのだ。これらの話を聞いて、大量生産が難しい理由に頷けた。過去に製造委託を試みたこともあったが、工場では手作業の工程が再現できず、味が大幅に落ちてしまったため断念したという。
「原材料も調味料も1gも変わらないんですけど、食べたら全然違う。担当した工場長もびっくりしていました。『なんでこんなに違うんやろうね』って。ジャガイモを蒸す。熱いうちに手で皮を剥く。タマネギは手でみじん切りにする。それを飴色になるまで炒める。この作業はやっぱりもう工場でできひん」
■「売れれば売れるほど赤字」の戦略
いくら素材にこだわっても、認知されなければ商品は売れない。このコロッケが、いかにして多くの人々に知られることになったのか。人気に火をつけたのは、2003年に神戸新聞に掲載された記事だった。
新田さんは、農家に対し「ジャガイモの栽培に牛糞(ぎゅうふん)の肥料を使用するのはどうか?」と勧めた。そのおかげで、ジャガイモが良く育った。その茎はいずれ牛の餌になるため、循環が生み出されることに注目した記事だった。
すると、このユニークな取り組みがマスコミ各社の目に留まる。全国ネットのテレビ放送で紹介されると「極みコロッケ」は瞬く間に5年、6年待ちとなり、放送後には10年待ちとなった。
「原材料を出し惜しみしちゃいけない」と語る新田さん。発売当時の原価は400円だったが、販売価格を300円に設定。売れれば売れるほど赤字だが、彼なりの戦略だった。
「また注文してもらおうと思ったら、一口食べた瞬間に『めちゃくちゃ美味い!』ってならなあきません。このコロッケを食べてもらったら、次は一緒に肉の注文が来るって確信しとったんです。結果的に、半数の方がコロッケとともに牛肉をリピートしてくれました」
■作っても、作っても、追いつかない
発売当初は週200個しか作っていなかったが、注文が3年待ちになった時点で1日200個に引き上げた。2人体制で製造しても生産が追い付かなかった。
「製造場の広さで人件費や今までの生産の段取りだと個数が限られるんです」と新田さんは言う。極みコロッケはリピート率が9割にも達し、一度食べた顧客が再注文。さらに口コミで広がり、注文が積み上がり、結果的に現在は43年待ちの状態になった。
私も試しにオンラインで注文してみた。すると、
《商品は「2068年9月の出荷予定」となります。》
との返信がきた。
「2068」という数字に、思わず噴き出してしまった。その頃には、私は80代になっている。「元気に生きているのだろうか?」「そもそも登録した住所に住んでいない可能性が高くないだろうか?」と心配ばかりが頭をよぎった。
予約待ちの客に「極みコロッケ」を発送する方法は、とてもシンプルだった。
注文客には、発送の1週間前にメールを送る。反応が返ってこない場合は、携帯電話の番号に今度はショートメール。それでも連絡がなければ直接電話をするそうだ。2人の発送担当のスタッフが行っているという。
ちなみに極みコロッケは通販だけの販売だが、牛肉とじゃがいものグレードを変えた2015年発売の「神戸ビーフプレミアムコロッケ」は店頭や催事場ならその場で揚げてもらい、すぐに食べることも可能だ。
■牛肉の価格高騰、手作りを続ける難しさに直面
2023年3月には配達が多い神戸に2店舗目を構えた。24年4月に神戸市中央区に移転し、10席のイートインスペースもつくった。コロッケだけでなく、「すじ玉どん」や「神戸ビーフカレー」などが注文できるように、新しい精肉店のかたちを模索している。ランチの仕込みの様子をYouTubeで配信するなど、ファンの獲得にも余念がない。
だが、新田さんを取り巻く環境は、決して明るくはない。理由は牛肉の価格高騰だ。
「東京オリンピック以降、ぐんぐん上がって。前はうちで神戸牛のサーロインステーキを100g2000円で売っとった。今は5000円です。牛肉の海外輸出が多くなって、頭数が足りなくなったんです。牛は人間と一緒で、一度の出産で1頭しか生みません。それに牛飼いも跡継ぎがいないなか、休みなしでしょう。従業員増やして交代で休みというが、今若い子が入ってこうへん。結局、家族経営になって、なかなか頭数が増やせないんです」
今年から最低賃金が上がり、売り上げは右肩上がりだが、利益は年々減っているという。社員とアルバイトを20人に減らし、機械に任せず、いままでやってきた。しかし、人件費をかけてコロッケを一つ一つ丁寧に手作りすることが現実的に難しくなっているという。
■「もうやめようとかなと」とは言うものの…
いままで通りの商売が通用しなくなっている。新田さんはインタビューで「ある程度採算取れるようになったら、もう(極みコロッケを)やめようかなと思うてます」と率直な苦悩をのぞかせた。それでも心折れずに店を続けているのはなぜか。
「地元で牛を飼ってる人やその子どもとよく飲みに行くんです。『この子が今こういう気持ちで育てた牛なんだな』とか、『このおっさんがええエサで、ええ環境で育てた豚なんや』とかね、よう知ってるから。こういう人の気持ちを、どうやってダイレクトに消費者に伝えるかというのが僕らの仕事だと思っているから。それを一生懸命やることで、利益は後でついてくるやろうと思ってます」
精肉店が生産者と消費者をつないでいる。そんな新田さんの自負を感じた。
取材中に気になったことがある。新田さんに休日はあるのだろうか。午前中は本店、午後は神戸の2号店、日によって精肉市場の競りに自ら向かう。
「僕は休めないですね。引退したらゆっくり旅をしたい」というが、それはもう少し先になりそうだという。お盆をひかえたこの日、ふと思い出したように、彼はこう語った。
「お盆の時期はね、懐かしいお客さんに会えるんです。昔、汗臭いグローブ持ってコロッケ買いに来てた野球部の子が、大人になって『おっちゃん、覚えてくれとんの?』って来て。『どうしてもここの味が忘れられへんかった』って言うんです。長い商売やってると、そういうのがあるんやなぁと。だから、部活帰りのチャリンコで店に寄ってくる子らは大事にしないとって思う。将来のお客さんやからね」
またあのコロッケが食べたい――。そう思わせる商品を生んだ新田さんは、どこまでも「食」と「人」を愛していた。
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池田 アユリ(いけだ・あゆり)
インタビューライター
愛知県出身。大手ブライダル企業に4年勤め、学生時代に始めた社交ダンスで2013年にプロデビュー。2020年からライターとして執筆活動を展開。現在は奈良県で社交ダンスの講師をしながら、誰かを勇気づける文章を目指して取材を行う。『大阪の生活史』(筑摩書房)にて聞き手を担当。4人姉妹の長女で1児の母。
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(インタビューライター 池田 アユリ)