※本稿は、林直樹『介護現場から生まれた 認知症の人に伝わるすごいひと言』(日刊現代)の一部を再編集したものです。
■自宅にいるのに「帰りたい」と呟く家族
「ここが家だよ」と伝えても、本人は首を横にふる。
「いや、違う。そろそろ家に帰らなきゃ」
でも、今いるのはまぎれもなく自宅のリビング。昨日もここでご飯を食べて、お気に入りのテレビを見ていたのに……。
今日は「ここじゃない」と、本人はまるで見知らぬ場所のように感じているよう。いったい何が起きているのでしょうか。
認知症の方の言葉には、想像以上に「本音」や「気持ちのサイン」が込められていることがあります。たとえば、「家に帰りたい」という言葉。これは介護施設だけでなく、そもそも「家」にいるはずの在宅介護の現場でも、実はとてもよく聞かれる言葉なのです。
それに対して、「ここが家だよ」といくら説明しても、うまく伝わらないどころか、かえって本人の不安が強くなってしまうことさえあります。
夕方になると、「帰りたい」という言葉がとくに多くなることがあります。これは「夕暮れ症候群」と呼ばれる現象で、認知症の方によく見られる特徴の一つです。夕方になると、不安や焦りが強まり、「家に帰る」と言い出すことが増えるのです。
日中に比べて視界が暗くなり、周囲の様子が分かりづらくなることや、体内時計の乱れ、疲れ、孤独感などが関係していると考えられています。見慣れた場所でもどこか違って見え、急に「ここにいていいのかな」「早く帰らなきゃ」という気持ちになり、心がざわついて落ち着かない時間帯なのです。
■「ここが家だよ」と伝えるのは逆効果
認知症が進行すると、時間や日付、場所の感覚が次第にあいまいになっていきます。
自分が今どこにいるのか、誰といるのか、今どういう状況にいるのかもわからなくなることがあります。たとえ目の前にいるのが娘や息子、親戚であっても、顔が分からなければ、「知らない人」と感じ、安心できずに「帰らなければ」と立ち上がってしまうことがあるのです。
どこに帰るのかは、本人にも分かっていないかもしれません。まるで、体に染みついた帰巣本能のように、理由もはっきりしないまま「家に帰らなければ」という衝動に駆られてしまうのです。「帰りたい」という言葉の奥には、「安心したい」「ほっとしたい」「自分をわかってくれる人のそばにいたい」という切実な思いが込められているのかもしれません。
「ここが家だよ」と事実を突きつけるのではなく、「そろそろ帰りたくなったよね」とまずは受け止めて、「一緒に甘いもの食べよう」「明日のお天気見てみない?」など、気持ちを切り替えることができたら、すいぶんと落ち着くこともあります。
■口元を見せながら、はっきり話すのが重要
「声かけ」は認知症の方の安心感を大きく左右します。ちょっとした言葉のかけ方一つで、気持ちが穏やかにも、不安にもなりやすい――認知症の方は、それほど繊細な感覚を持っているのです。
たとえば、「どの位置から声をかけるか」「どんな口調で話すか」という小さな配慮の積み重ねが、大きな安心につながります。ここでは、現場のスタッフが実践している声かけ時の4つの基本動作を紹介します。どれも特別な技術が必要なわけではありません。少し意識するだけで、今日からすぐに実践できるものばかりです。
①前方から声をかける
認知症の方は、視界の外から突然声をかけられると、不安を感じることや警戒心を抱くことがあります。まずは視界に入る位置に立ち、落ち着いた口調で話しかけましょう。
②目線の高さをそろえる
立ったまま見下ろすかたちではなく、できるだけ相手の目線の高さに合わせることが大切です。椅子に座っている方には、膝を折って視線を合わせるだけで、安心感が生まれます。
③声のトーンは高すぎず、低すぎず
高すぎる声は子ども扱いのように聞こえ、低すぎる声は威圧感を与えることも。自然で落ち着いたトーンが、一番心に届きやすいのです。
④ゆっくり、はっきり、口元を見せて話す
耳が遠くなっている方にとって、口の動きや表情も大事な手がかりになります。口をしっかり動かして、ゆっくり・はっきり話すことで、言葉が伝わりやすくなります。
■料理に異変を感じたら要注意
⑤短く区切って話す(短文が基本)
認知機能が低下すると、長い文や情報量の多い会話は理解しづらく、かえって混乱を招くことがあります。たとえば、「これをここにしまって、それからお皿を洗って、お茶をいれて、それが終わったら一緒にテレビでも見ましょうか」と、こんなふうに、句読点が何個も続くような長い会話は、途中で内容が分からなくなってしまうかもしれません。
その代わりに、「これを棚にしまいましょう」「次はお皿を洗いますね」「終わったら、お茶をいれましょう」と、一文ずつ区切って伝えると親切です。指示や説明は、「一つずつ、短く」という基本を意識することが大事です。
認知症の進行は、日常の何気ない場面にも表れますが、料理はその変化に気づきやすい代表的な例です。
材料を用意し、手順を考え、タイミングを見て火を入れ、味つけをする――こうした工程を、効率よく、順番通りに進めていく必要があります。料理は記憶力・注意力・判断力・段取り力など、さまざまな認知機能を総動員する作業なのです。そのため、認知症の進行によって、「料理の流れ」がうまく運ばなくなることがあります。たとえば、
・塩を入れ忘れる
・砂糖と塩を間違える
・鍋を火にかけたことを忘れてしまう
・途中で「何をつくっていたか」が分からなくなる
などです。
■「できない」よりも「まだできる」を見つける
こうした変化はよくあることで、認知機能の低下によって、「同時に複数のことを覚えておく」「順序立てて物事を進める」といった力が落ちてきているサインなのです。
また、料理に限らず、日常のあらゆる場面に影響を与えるようになります。だからこそ、声かけや説明も「一つずつ、短く」が基本です。「まず、これをやりましょう」「次は、これをしますね」と、短く区切って、順序立てて伝えましょう。
うまくできないことを責めたり、「もうできなくなった」と決めつけたりしないことも大切です。料理のなかでも、「材料を切る」「野菜を洗う」など、できる工程を一緒に探すことで、本人の自信や役割意識を支えることができます。
「できない」ではなく、「まだできる」を一緒に見つけていく。料理のなかには、そのヒントがたくさん詰まっているのです。
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林 直樹 (はやし・なおき)
介護施設経営者
さざなみ代表取締役。大阪市、東大阪市、京都市で介護施設(グループホーム・小規模多機能型居宅介護・住宅型有料老人ホーム)を運営するさざなみに入社。その後、同社代表取締役に就任。2023年には「認知症介護のプロ【はやし社長】」としてYouTubeチャンネルを開設し、認知症介護について発信。なかでも、介護現場で生まれた認知症患者への「とっさのフレーズ」を紹介するショート動画などは、YouTubeでの総再生回数2400万回以上(2025年5月時点)と、好評を博している。
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(介護施設経営者 林 直樹 )