静岡県伊東市・田久保眞紀市長の学歴詐称疑惑をめぐる騒動は今も続いている。感染症医の岩田健太郎さんは「大学の卒業証書をもらっていようが、もらっていまいが、そんなことはどうでもいい。
だがそのような『どうでもいいこと』に拘泥してつまらぬ言い訳を繰り返す不誠実さは、政治家としての職能欠如を端的に表している」という――。
■学歴に関心が高い医学界隈
私は「学歴」に関心がない。関心がないだけなので、別に「学歴」を憎悪しているわけでもなく、「反学歴」主義なわけでもない。とにかく興味がないのだ。
誰かを雇用するときも、出身校を採否の根拠にすることは皆無だし、ほとんど見てもいない。雇用したあとも各人の出身校も覚えていない。私の職場界隈は、むしろ「学歴」に非常に関心が高い人達が多いので、私が各人の出身大学に無関心で無知なことに呆れ返っている。
私は島根県の町立小学校、町立中学校を卒業し、学区内にある県立高校を卒業した。島根医科大学(当時。現・島根大学)に進学したのはもっぱら「カネの都合」である。できるだけカネをかけずに医学部に行こうと思ったが、自治医大や防衛医大などの義務年限が面倒くさかったので、次いで「安上がり」だった島根医大に推薦入学したのだ。
他の大学は一切受験しなかったし、運よく浪人もしなかったので、「カネをできるだけかけずに」当初の目的は果たせたものと思う。
当時は国立大学の学費はいまよりずっと安かったし。学費が高額なアメリカの医学校に行かず、アメリカで研修医(給料がもらえる)になったのは非常にコスパのいい学習パスウェイだった。
■「MARCH」知らずの常識知らず
同期の研修医たちの多くは医学校の学費を借金で賄っていたため、高収入が得られやすい職種や職場を探していた。幸い、私には借金が皆無だったために、給料がさほど高くないことで有名(?)だった感染症科を生業(なりわい)にすることができた。
私は「カネで苦労はしたくない」と思っていたが、金持ちになりたいという欲望は強くない。そういう欲望が強かったならば、今のキャリアパスをたどることはなかったはずだ。
そんなわけで、全国の偏差値が高い進学校について私はあまりに無知である。東大や京大くらいはさすがに知っているが、「MARCH」と言われてもどの大学の話か言い当てられない。「産近甲龍」というコトバは今年になって初めて知った(笑)。
そうそう、神戸大学に赴任するまで私は関西に住んだことが一度もなかったので、「常識」を知らずにずいぶんとくだらぬ失敗をした。“西宮が三宮の東にある”のを理解できなかったくらいは御愛嬌だが、「うちの娘に灘校は難しいだろうか」と同僚に相談したときはさすがに相手は絶句していた。非常識にも程があるので、最近はさすがに少しずつ勉強している。

■過去は現在も未来も保証しない
そんなわけで、田久保眞紀市長が大学を卒業したのかしなかったのかで揉めている、という話を聞いたときの私の感想は、「なぜ、そんなどうでもいい、くだらないことで嘘をつかねばならないのか」であった。いまでもくだらないと思っている。
「学歴」はその名の示す通り、「歴史」であり「過去」である。過去は現在を保証しないし、未来についてはさらに保証しない。大谷翔平を評価するのに必要なのは、「いま、ここ」のバッティング能力やピッチング能力であり、彼がどの野球部に所属していたか、ではない。また、大谷翔平と同じ野球部に所属していた人物が大谷レベルのプレーをできるわけでもない。私が履歴書の「学歴」に無関心なのもそのためだ。
「いま、ここ」の目の前にいる人物の有り様だけが私の関心事だ。もっとも、私にはさして人を見る目もないので、優秀な人物を常に採用し続けているわけではない。とはいえ、「学歴」を学んだからといってその人物考査能力が高まるとも思えない。
■「職名」でなく「職能」が大事
「学歴」も「職名」も実態のない、あるいは実態の乏しい、ぼんやりした概念だ。私は常々、「大切なのは『職能』であり、『職名』ではない」と繰り返している。

こういうことを申し上げると、イワタは奇矯(ききょう)な人物であると捉えられがちだが、これが「奇矯」であるのは、日本だけ……あるいは東アジア諸国のみの話であり、国際社会ではむしろアタリマエ、常識の範疇(はんちゅう)にある。
よく申し上げることだが、日本の医学界、医療界ではすぐに「職名」や「出身大学(すなわち「学歴」)を尋ねられる。お前は教授なのか、助教なのか。医者なのか、看護師なのか、薬剤師なのか。出身大学はどこか。卒業年度は何年卒だ。こういう話題が大好きである。
そこで得られたデータベースをもとに、その人物は目の前にいる人に上から目線でタメ口をきいていいのか、へりくだって敬語で喋るべきかを決定するのだ。これもよく引用する笑い話(ただし実話)だが、ある准教授が教授になった翌日から、それまで使っていた私への敬語が急にタメ口になって驚かされたことがある。
■政治家としての職能欠如の証し
海外で仕事をしているとこういうことはない。あるミッションに携わっていてチームメイトから訊かれるのは「お前は何ができるのか」だけである。できることはやらされ、できないことは任されない。
ミッションが終了する直前に、そのチームメイトが看護師だったと教えられる、なんてことも多い。会話では常にファーストネームで呼び合うのだ。
そんなわけで、私が市長や議員に求めるのは「職能」だけである。「学歴」にはなんの関心もない。中卒でも優れた政治家はいるし、どんなに有名な大学を卒業していてもポンコツな政治家もいる。
大学の卒業証書をもらっていようが、もらっていまいが、そんなことはどうでもいい。どうでもいいが、そのような「どうでもいいこと」に拘泥(こうでい)し、卒業していないのに卒業しているかのようなふりをし、論点をずらしまくり、つまらぬ言い訳を繰り返す不誠実さは、政治家としての職能欠如を意味している、と結論付けざるを得ない。
選挙で選ばれるか選ばれないかは私の知ったことではないが、とにかく「政治家には職能が必要で、学歴などというどうでもよいことにすら嘘を重ねるような人物は政治家としての職能を欠いている」という私の判断に変わりはない。どうせ、選挙の結果は政治家としての能力の有無とは関係ない話なのだから。昨今は。
■医局臨床部門の根拠なきリーダー選
政治家の話ばかりではなんなので、医学界隈の話もしよう。
現在も、残滓(ざんし)があるのだけれど、日本医学の歴史は長く、基礎医学重視、臨床医学軽視、臨床研究ガン無視の時代であった。

大学医局のリーダーたる教授たちの業績は主に基礎医学の研究の業績であった。教授選のときの人物評価で「臨床、研究、教育のいずれにも優れた業績を」とよく言われるが、ただのお題目に過ぎず、実際には研究面しか査定されていない。
研究業績は過去の論文からインパクトファクターや引用数、獲得研究資金など事細かに査定されるが、臨床業績は「なんとか病院で何年外来やってた」、教育は「長年授業をやっていた」程度の申告で十分だ。
もちろん、基礎医学の業績があることは全く問題ではない。基礎医学の業績を根拠に教授を選出することにも、それ自体では何の問題もない。
問題は、そのような根拠で選出された教授が臨床部門のリーダーになり、教育の責任者になってしまうことだ。日本医療が長く「臨床三流」と言われ、教育は適当だったのも無理はない。なにしろ大学教員になるのに、教員免許すら必要としないのだ。
■仕事を三流にする「できます」宣言
医学領域において、教授は所属する医局の「ボス」であり、その医局について、全方位的に責任を取らねばならない。しかし、全方位的に才能や能力を発揮できる人などいない。
研究もできて、教育もできて、臨床もできて、かつ教室運営にも長けているようなスーパーマンは稀有な存在だ。「二刀流」は不可能ではないが、それをトップレベルで実現するのは大谷翔平のようなトップ・オブ・トップの超稀有な存在だけだ。
高校野球レベルであれば「投げては先発、打っては四番」は成立しうるが、両方トッププロレベルでデキる人はそういない。ましてや、四刀流、五刀流となると凡人ではまず無理だ。
大学教授など、所詮は各大学に何十人もいる「凡人」の集団なわけで、大谷翔平のようなスーパーな天才は大学に一人いるか、いないかだろう(たいていはいないだろう)。そんな凡人が五刀流をプロレベルでこなすことなんてできるわけがない。あくまでもアマチュアの(高校野球のような)レベルでしかそれは可能ではないのだ。
であれば、必要なのは適材適所だ。研究も臨床も教育も「できます」と言った時点で嘘になる。三流の仕事でも「できた」ことにしてしまう。基準が下がり、レベルが下がる。だから、各教授は「できない」とカミングアウトしたほうが良い。自分にできていること、できてないことの基準を明確にしたほうが良い。「外来を担当しています」を「臨床ができる」と誤魔化してはいけない。バッターボックスに立つことが、優れたバッターである証しにはなり得ないのだから。

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岩田 健太郎(いわた・けんたろう)

神戸大学大学院医学研究科教授

1971年島根県生まれ。島根医科大学(現・島根大学)卒業。ニューヨーク、北京で医療勤務後、2004年帰国。08年より神戸大学。著書に『新型コロナウイルスの真実』(ベスト新書)、『コロナと生きる』『リスクを生きる』(共著/共に朝日新書)、『ワクチンを学び直す』(光文社新書)など多数。

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(神戸大学大学院医学研究科教授 岩田 健太郎)
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