大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(NHK)で桐谷健太が演じる大田南畝は、突然、作家活動を止めてしまう。歴史研究者の濱田浩一郎さんは「南畝は吉原の遊女を落籍し8年間妻と同居させるなどの破天荒な面もあったが、本質は幕臣で、中年になってから出世した」という――。

■文化人にして幕臣、大田南畝とは何者か?
大河ドラマ「べらぼう」において、江戸随一の文化人、天明期の狂歌のスター、大田(おおた)南畝(なんぽ)(別名・蜀山人(しょくさんじん)、狂歌での名・四方(よもの)赤良(あから))は俳優の桐谷健太さんが演じています。明るく、そしてひょうきんに南畝を演じている桐谷さんですが、大田南畝とは一体、どのような人物だったのでしょうか。南畝(通称は直次郎)が生まれたのは寛延2年(1749)のこと。「べらぼう」の主人公・蔦屋重三郎の生誕が寛延3年(1750)とされていますので、南畝が重三郎より1歳年上ということになります。
南畝は下級武士(幕府の御徒士(おかち)。家禄は70俵5人扶持。現在で言えば年収約300万円ていどか)である大田正智の長男として、江戸牛込仲御徒町で生まれました。その母は利世(りせ)と言う幕臣の娘です。南畝の父は幕臣ではありましたが、お目見え以下の御家人であり、微禄で低所得者層。南畝には姉2人に弟1人がいましたので、一家が食べていくのが精一杯でした。南畝が家督を20歳の頃に継いだ時も家には借金があったような状態だったのです。
■下級武士の家から学問での立身出世を目指す
生活が苦しい大田家。
その苦境を脱するには学問しかありませんでした。南畝の両親は我が息子に学問させて出世させようとしたのです。南畝の父・正智は「平凡な生涯を送った男」と評されているように出世したわけでもなく、学問に秀でていたわけではありませんでした(20歳の頃に将軍上覧の水泳大会にて褒美の時服を賜ったていど)。
一方の母・利世はなかなかに賢明で積極的な女性であったようで、自ら南畝の師匠を選んでいます。南畝が8歳の時に多賀谷常安という後に医者になる男に漢文の素読を習わせたのです。常安の次に南畝が就くことになる師匠(内山賀邸。常安の師)も一説によると、母が選んだものだと言います。利世は今風に言えば「教育ママ」だったのです。教育ママもしくは両親の「教育虐待」により人生や精神を狂わされてしまう悲劇が昨今問題となっていますが、南畝は幸いにもそうしたことにはなりませんでした。
■暇な公務員だったので本を書く時間があった
南畝は「早熟な天才」「神童」と評されることもありますが、新たな師匠の賀邸も南畝を見て「この児は大成する」と予言したとのこと。賀邸は儒学や国学を学び、更には「江戸六歌仙」の1人として有名だった人物。南畝が後に戯作や随筆、狂歌の世界にまで進出し名を高めたのは、少年期から賀邸のもとで学んだことが大きかったとされています。

南畝は17歳の時、御徒士として出仕しますが、仕事は楽でした。月に数回ほど出勤すれば良いからです。貧しく金はないが、余暇がたっぷりあったこともマルチな文化人・南畝の誕生にいくぶんかは寄与したと思われます。その後、南畝は生涯の師とも言うべき儒学者の松崎観海(太宰春台の門人)に入門し、漢学を学びました。そして18歳の時にデビュー作『明詩擢材』(明詩を題材にした作詩用語字典)を刊行しているのだから、南畝が「早熟の天才」と言われるのも頷けます。
明和4年(1767)、南畝は狂詩・戯文集『寝惚先生(ねぼけせんせい)文集』を刊行し、同書は大いに評判となりました。同書の序文は交流があった平賀源内が書いています。若くして、文壇の寵児と南畝はなったのです。
■文壇の寵児となるも、収入が増えなかったワケ
南畝は狂歌や戯作の分野で有名となったこともあり、出世につながる儒学の分野からは離れていってしまいます。鮮烈なデビューを飾った南畝ですが、それで大田家が「夢の印税生活」を送ったかと言えばそうではありません。大田家は札差(蔵米取りの旗本や御家人に対して、蔵米の受け取りや売却を代行して手数料を得ることを生業とした商人)への借金で相変わらず苦しい状態でした。それは1つには当時は今とは違い、印税制度がなかったからです。
本が売れたら版元はもうかりますが、著者が潤うわけではありません。戯作(小説)の分野では小銭は入ってきたようですが……。南畝が黄表紙や洒落本を次々と書いたのは「小銭稼ぎ」が目的だったとも言われています。少しでも家計の足しになればと考えたのでしょう。
貧窮の中ではありますが、南畝は23歳の時、妻を迎えます。下級の幕臣の娘・理与(りよ)です。理与は南畝との間に一男二女を儲けました(結婚の翌年、理与は娘を産みますが、残念ながらその娘は生後1カ月ほどで亡くなっています)。
■蔦屋重三郎と交流し、吉原に通いつめる
貧乏生活だけならまだしも、南畝は妻に愛妾と同居生活をさせました。天下の有名人となった南畝は交友関係も広がり、次第に酒席や遊里にも出入りするようになりました。南畝が吉原遊廓に入り浸るようになったのは、蔦屋重三郎のせいとの説もあります。重三郎は著述出版の謝礼として、南畝を遊廓に招待したからです。南畝は天明3年(1783)の暮れに「今年三百六十日 半ばは胡姫の一酒楼に在り」との詩を作っていますが、1年の大半は酌婦のいる店で過ごしていたことが分かります。
現代ならばそれだけで離婚ものでしょう。
しかも南畝は遊女を身請けすることになります。それは吉原遊郭「松葉屋」の新造(しんぞう)(客をとり始めた若い遊女)三保崎(みほざき)です。三保崎との交流は天明5年(1785)11月から始まったようです。当時、南畝は37歳であり、まさに「中年の恋」でした。南畝が三保崎を身請けすることができたのは天明6年(1786)7月のことです。金を工面してまで通い詰めた甲斐があったというもの。身請けされた三保崎は名を「お賤(しづ)」と改めます。
■なぜ身請けした遊女を正妻と同居させたのか
しかし、南畝に妾宅を構えるお金は当然ありません。ではどうしたか。自宅を建て増しして、そこを「巴人亭」と名付けて、お賤を住わせたのです。つまり、妻妾同居の生活を南畝は始めたのでした。
しかしその生活は8年ほどで終わりを迎えます。
寛政5年(1793)、お賤が世を去ったのです。お賤は30歳ほどであったと言います。それにしても8年もの間、正妻の理与はどのような想いで暮らしていたのでしょうか。理与は貧窮生活や夫の愛人との同居生活にもよく耐えた立派な女性との評価が与えられています。
さて、南畝が吉原通いをする上で資金提供をしたと推測されるのが、交流があった旗本の土山宗次郎です。土山は勘定組頭であり、幕府随一の蝦夷通として知られていました。土山は高禄でもないのに、大豪邸を築き豪遊し、遊女・誰が袖を大金(1200両)で身請けしています。土山は「田沼派」だったのですが、老中・田沼意次が失脚して、松平定信が権力を握ると没落します。「べらぼう」でも描かれたように、免官されただけでなく「行状よろしからず」ということで死罪となるのです(1787年)。遊女を身請けして妾にした事や、公金(500両)横領したことが罪に問われたのでした。
■松平定信の弾圧で戯作を止め、45歳で官僚に出世
狂歌仲間でもあり、遊興仲間、そしてパトロンでもあった土山の刑死は南畝を怯えさせたとされます。
土山と親しかった南畝は土山の公金横領にまつわる件で取り調べを受ける可能性もあったからです。南畝は幸いにも取り調べや罪に問われることはありませんでしたが、この土山事件を契機にして狂歌や戯作の世界から去りました。南畝は用心深い性格だったと言えます(1787年に刊行された『狂歌才蔵集』からは土山と関係のあった平秩東作の狂歌を削除)。
南畝は土山に連座し、罪に問われることを恐れ、それを免れるために必死だったのです。人によっては南畝を小心と言うかもしれませんが、筆者はそこに南畝の人間臭さが感じられて好きです。
老中・松平定信による文武奨励令を皮肉った落首「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといひて夜もねられず」は南畝の作との評判が立ちますが、それにより上司から尋問されたとの話もあります。それによって南畝が狂歌の世界から引退したとも言われるのですが、南畝が狂歌から離れたのは定信による寛政の改革が本格化する前のこと。よって、前述の落首の件とは関係がないのです。
文学の世界から去った南畝は学問に精進し、寛政6年(1794)、学問吟味(幕府が幕臣とその子弟を対象に実施した学力試験)に首席で合格しています(2年前の学問吟味では落第)。これにより褒美として銀10枚を賜り、寛政8年(1796)には支配勘定(勘定奉行の配下)に任じられます。南畝は45歳にして長い御徒生活に別れを告げることになったのです。

参考文献

・沓掛良彦『大田南畝』(ミネルヴァ書房、2007年)

・小林ふみ子『大田南畝』(角川文庫、2024年)

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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)

歴史研究者

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師・大阪観光大学観光学研究所客員研究員を経て、現在は武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。歴史研究機構代表取締役。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

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(歴史研究者 濱田 浩一郎)

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