9月6日、「成人式」を恙なく終えた秋篠宮悠仁さん(19)は成年皇族としての第一歩を歩み出した。
NHKは30分にわたり特番を組み、めったに見られない奈良時代から続く厳かな式典を生中継した。
前日からの大雨が止んで青空が広がり、成年皇族の誕生を祝福しているかのような清々しい空気の中で儀式は進んだ。
「加冠の儀」の後、伝統的な装束から一転、燕尾服に着替えた悠仁さんが両陛下に感恩の辞を述べる「朝見の儀」では、「本日の成年式にあたり、冠を賜り、天皇、皇后両陛下のご臨席の下、成年式を終えることができましたことに、深く感謝申し上げます。成年皇族としての責務の重さを自覚し、さらに勉学にいそしむとともに経験を積み、これまで賜りましたご恩にお報い申し上げたく存じます。ここにお礼を申し上げます」と述べた。
雅子皇后からは直接、「これからもお体を大切にされ、どうぞお元気に、さまざまな経験を積まれますよう、お祈りしております」という祝福の言葉をいただいた。
夜の祝宴は帝国ホテルで行われた。事前の報道通り、愛子さんは「加冠の儀」に出席した後、新潟での公務のため東京駅へ向かったため、画竜点睛を欠く式ではあったが、成年皇族としての第一歩をしるされた悠仁さんのこれからを祝福するのに十分な晴れやかな宴であった。
だが、成人式を無事終え、幼さがまだ残る悠仁さんの初々しい成年皇族誕生に、日本中が熱烈歓迎し、これまで何かと世間からの逆風が吹いていた秋篠宮家への風向きが変わるのではないかと期待していたが、どうもそうはならないようである。
■初公務が世界陸上への違和感
9月17日、悠仁さんは成年皇族としての「初公務」として姉の佳子さんと連れ立って世界陸上を見学した。大阪・関西万博にも公務として出かけるそうだ。
世界陸上に行ってはいけないなどというつもりはない。だが、テレビで見る限り毎日満員だそうである。
警備の問題である。9万人近い観客の中に不心得者がいないとは限らない。万が一に備えた警護が非常にやりにくい場所だということは素人でもわかる。動員した警察官の数は相当なものになったのではないか。
国立競技場ほどではないかもしれないが、大阪・関西万博会場の警護も大掛かりになることは間違いない。
ちなみに愛子さんの成年皇族としての初公務は、東京都千代田区の国立公文書館を訪れ、春の特別展「夢みる光源氏」の視察だった。
言葉は悪いが、物見遊山的なこうした公務を最初に選ぶというのは、違和感を禁じ得ない。
ついでにいえば、秋篠宮夫妻の悠仁さんの大学選びにも疑問がわく。御所から70キロも離れ、警護区域は東京都をふくめて3都県にまたがる。さらに筑波大学は構内を自転車で移動しなければならないほど広大である。
■雅子さまと紀子さまの宿縁
ましてや大学内には様々な人間が行き交い、警護のことだけを考えれば、非常に厳しい選択ではなかったか。
皇位継承順位第2位の悠仁さんに“万が一”がないよう万全に警護するのなら東大か学習院、のほうがベターであることは間違いない。
ここでも、秋篠宮夫妻の考え方に、やや違和感を覚えざるを得ないのだが。
週刊誌は愛子さんと悠仁さんを“対比”させて、両親想いで日赤に勤務し、その間を縫って公務に励む愛子さん。両親に反抗心がやや出てきたが、何かあるといつも母親のスカートの陰に隠れてしまう悠仁さんと“囃し立てて”きた。
だが、最近は、雅子皇后と紀子妃殿下の間には長い「宿縁」があると言い出している。
例えばこうである。
「特に、紀子さまの雅子さまへの配慮が少なくなったようにも感じられました。当時の雅子さまにお仕えしていた元側近は、“舅姑から厳しい指摘を受けるのは、まだ納得できるもの。しかし弟の妻、義理の妹にないがしろにされるのは、大変厳しものだ”と、雅子さまのお気持ちを拝察し、しみじみと言葉を絞り出していたといいます。
先日の『ナイチンゲール記章授与式』で物議を醸した、紀子さまによる雅子さまへの無礼とも取られかねない浅い角度でのお辞儀も、こうした行動の延長線上にあるのかもしれませんね」(宮内庁関係者=女性セブン9月25日・10月2日号)
■誕生日の文章にあった変化
週刊文春(9月25日号)は、9月11日に59歳の誕生日を迎えた紀子さんが公表した過去最長の文書について報じている。ギリギリまで推敲が重ねられた文書には、天皇家への言及について、重大な変化があったという。
宮内記者会から寄せられた3つの質問に回答する形式だったが、異例だったのは、そのボリューム。
「それだけ世間にお伝えしたい内容が多かったということなのでしょう。特に今年は、直前の九月六日、長男の悠仁さまの誕生日に成年式が行われましたし、文書も、成年式と悠仁さまに関する内容から始まっています」(皇室担当記者)
「宮内庁関係者が声を潜める。『実は、今年の紀子さまの文書には、過去にはあった特定の表現が抜け落ちているのです。それが天皇皇后両陛下への敬意の念です』」(文春)
文春は、今上天皇が即位されて以降の、紀子さんの誕生日文書を遡って見ている。
■「天皇家への敬意」が抜け落ちている
〈新たな立場に伴う責任を感じつつ、宮様とご一緒に天皇皇后両陛下をお支えできますよう、私自身の健康にも気をつけながら、力を尽くして参りたいと考えております〉(令和元年)
令和2年の文書にも、〈両陛下をお支えできますよう、努めて参りたく存じます〉と綴られている。
令和3年は〈お健やかにお過ごしに〉なることを願う表現。令和4年、5年も同様の記述が確認できる。
異変が見て取れるのは、昨年、令和6年からだという。文書では天皇皇后への言及そのものがなくなり、今年は、
〈天皇陛下から賜った冠をお受けするお儀式に始まり、天皇皇后両陛下にご臨席を賜りました「加冠の儀」、宮中三殿での拝礼に臨む「賢所皇霊殿神殿に謁するの儀」、天皇皇后両陛下にご挨拶申し上げる「朝見の儀」をはじめとする一連の儀式が執りおこなわれ、内宴には上皇上皇后両陛下にもご臨席を賜りました〉
悠仁さんの晴れ舞台を振り返る過程で天皇皇后には触れられているものの、確かに、かつては表明していた天皇皇后をお支えする覚悟や健やかな日常を願う思いが、一切出てこないのだ。
■紀子さまの心境の変化
宮内庁関係者は文春でこう話している。
「お誕生日当日に公開される文書の完成版ができあがったのは、前日の夜のこと。小室圭さんと結婚し渡米した長女の眞子さんや、今年生まれたお孫さんのことも綴られた文書では、『長女』を『眞子』表記に変えるなど細かな修正が繰り返されました。そこまでこだわられた過去最長の文書に、書き洩らしがあるとは考えにくい。両陛下の記述に関する変化は、紀子さまが“敢えてしていること”とも捉えられる」
名古屋大学大学院の河西秀哉准教授も、この文書への疑問をこう話す。
「紀子さまは、上皇后の美智子さまのなさりようをお手本に、ご公務にあたってこられた。お誕生日に認めた文書でしっかりとご自身の思いを伝えようとされているのも、美智子さまを踏襲しているものと思われます。ただ、美智子さまが同じお立場なら、今回の文書では、きちんと両陛下への感謝に言及していたはずです」
文春は、「波紋を厭わぬ書き様は、“未来の国母”の焦りか、自信の表れか」と結ぶ。
紀子さんの心境にどんな変化があったのだろう。この文書問題、両家の関係に禍根を残すかもしれない。
■やっぱり愛子天皇は認めるべき
私は、あのひ弱そうだった悠仁さんが順調に育って、成年皇族に相応しい気品のようなものも出てきたのを嬉しく思っている一人である。
だがまだ19歳。昭和天皇は父親が早く亡くなったため満25歳という若さで天皇になったが、現上皇は55歳、現天皇は59歳で天皇に即位している。
悠仁さんは19歳だから、もし現天皇が80を超えて「生前退位」を言い出したとしてもまだ30代後半である。相当なプレッシャーが彼を襲い、よほど優れた側近たちが彼を支えなければならないはずだ。
さらに結婚問題がある。悠仁さんがどのような女性を選ぶかわからないが、その女性には雅子さんの時以上に、男の子を生まなければならないというプレッシャーが圧し掛かる。
現上皇には男の子2人と女の子が生まれたが、天皇は女の子一人、秋篠宮も最初は女の子2人で、少し間が空いて待望の男の子が誕生した。
悠仁さん一人にこれだけのプレッシャーを背負わせていいのだろうか。
愛子天皇を認めて、悠仁さんのプレッシャーを軽減してあげるのが、政治家がやるべきことではないのか。
今の政治家たちは真剣に「皇統の存続」ということを考えていないと思わざるを得ない。
このままいけば近い将来、男系男子がいなくなる可能性大である。皇室の安定的な継承を確保するためには女性皇族が結婚後も皇族の身分を保持することや、女性、女系天皇を認めることを即刻、議論するべきである。
政争などに現を抜かしている時ではない。
----------
元木 昌彦(もとき・まさひこ)
ジャーナリスト
1945年生まれ。
----------
(ジャーナリスト 元木 昌彦)