なぜ働かなければいけないのか。生物学者の池田清彦さんは「多くの人は『お金を稼ぐため』と答えるかもしれないが、日本人がお金のために働くようになったのは、実はたった150年ほど前のことだ」という――。
(第1回/全2回)
※本稿は、池田清彦『人はなぜ働かなくてもいいのか』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。
■人間は野生動物と同じだった
生物学的な用語でいうところの「ホモ・サピエンス」、すなわち「人間」という種がこの地球に現れたのは約30万年前で、その後、少なくとも29万年間は狩猟採集生活をしていた。
そのころの人間は道具や火を使いこなせるようになっていたとはいえ、基本的には野生動物と同じなので、たとえばライオンのような肉食動物にとっては獲物の一種でしかなかった。
そのような個としての弱さを補うために人間は、数家族がまとまって、数十人程度でひとつの群れを成して生きていたのだろうと推測される。
群れの規模は50人から100人くらいと考えられていて、狩猟採集社会では、このような規模の集団を「バンド(小集団)」と呼ぶ。
そして、バンドを構成する一人ひとりは、生き延びるために必要な行動(狩りをしたり、木の実や植物を採ったり、あるいは着るものとか住みかを整えることや子育てなど)以外のことはほとんどしなかったと思われる。
■食べる分さえ獲れれば、それでいい
必要以上のものをわざわざ手に入れようとはしなかったのは、燻製や乾燥といった簡単な保存法はあったものの、長期的に蓄えるための技術や発想をほとんど持たなかったせいもあるが、必要以上に獲りすぎるのは自分たちの首を絞める行為であることを、経験的によく知っていたからだろう。ヒキガエルじゃないけれども、必要以上のことをするのは滅びへの道なのだ。
たとえば、バンドの縄張りの中に、イノシシが500頭生息していたとする。
毎年そのうちの平均50頭を狩って食料にしていたとしても、イノシシの毎年の繁殖力が約10%だとすると、イノシシの個体群はほぼ500頭に保たれるので、バンドにとっては持続可能な食料になる。
もちろん時には狩りに失敗したりして食料にありつけない日もあるだろうが、1日や2日くらいならすぐに死ぬわけではないし、十分な数のイノシシがそこにいさえすれば、3日目、4日目にはありつける可能性は高い。つまり、長い目で見れば十分持続可能だと言ってよい。

■24時間中、労働は2~3時間
しかしある年に100頭も狩ったりすれば、イノシシの繁殖力は変わらなくても、前の年と同じ500頭を維持することは困難になり、イノシシの数そのものが減ってしまう。そうして十分な食料が確保できなくなれば、ありつけなかった者たちは飢えて死んでしまうよりほかにない。
つまり、狩猟採集民が生きながらえるために賢明な方法は、「その日食べる分だけを得たら、あとは何もしないこと」なのである。
だから、狩猟採集生活をしていたころの人間が働くことに費やす時間は1日2~3時間くらいだったようだ。それ以外は、だらだらするか、眠るか、たまにセックスするか、くらいしかやることはなかっただろう。生きるために必要なこと以外にできるだけ余計なエネルギーを使わないことは、結果として見れば、極めてサステイナブルな生存戦略だったと言える。
■飢えないために農耕を始めた説
西アジアでは約1万2000年前にムギやマメ、長江流域では約7000年前にイネ、黄河流域では同じく約7000年前にアワやキビ、中央アメリカでは約8000年前にトウモロコシの栽培が始まったと考えられている。
いわゆる「農耕」の始まりである。
ただし、中には農耕が始まらなかった地域もある。
たとえばオーストラリアでもアボリジナルは狩猟採集生活を続け、18世紀後半にヨーロッパ人が到達した時点でも農耕は一般化していなかった。
なぜ農耕が始まらなかったのかは一概には言えないが、少なくとも農耕に適した作物が見つかりにくかったこと、そして野生生物が比較的豊富で、飢餓に追い詰められることが少なかったことが理由として考えられる。
農耕は人間が賢くなったから始めたというより、それをしないと生きていけない状況だったことで始まった可能性が高い。

つまり、オーストラリアで農耕が始まらなかったのは、その土地では狩猟採集生活で十分生きていけた、というだけのことかもしれない。
なお、日本列島に大陸から稲作技術が伝わったのは約3000年前だと言われている。これが弥生時代の始まりで、ここから日本も本格的な農耕社会へと移行する。
■「貯蔵できる」が新たな欲望を生んだ
農耕の中心が穀物だったのは、貯蔵が利くという性質が大きく関係していたと思われる。貯蔵できるということは、「明日いきなり飢えるかもしれない」という恐怖から、多少は解放されるということを意味するからだ。
そして、この「蓄えられる」という性質は、その日食べる分だけを得ればよかった人間の生活を根本的に変えていく。
蓄えることができるとなれば、それは収穫量を増やすことへの動機となる。
たとえば、目の前にある食べ物を「今日中に食べきらなければ残りは腐ってしまうのですべて捨てる」と言われたら、人は食べ切れないぶんまでは欲しないだろう。どうせ明日には残らないのだから、今日必要な分だけあればいいと考えるのが自然である。
しかしそれが「1年間保存できる」とか「5年はもつ」と言われた瞬間、話はまったく変わっていく。
今は食べなくても、将来のために備えて取っておけるとなれば、できるだけ多く手に入れておきたいという気持ちが生まれ始めるのは当然だろう。
つまり、貯蔵できるという穀物の性質は、人間の欲望のあり方に大きな変化をもたらしたのである。

■江戸幕府は「米」で動いていた
最古の貨幣は紀元前7世紀ごろにまで遡(さかのぼ)るとされるが、近世に至って農産物以外の工業生産物が一般的になるまでは、庶民にとって貨幣はあまりなじみのあるものではなかった。貨幣が存在することと、社会全体が貨幣を中心に動くこととは別の話なのだ。
税についても長い間、多くの地域では農産物や労役という形で納められていた。ヨーロッパでも12世紀ごろまでは物納が一般的で、貨幣による納税が広がるのは14世紀以降である。
日本では、17世紀初頭から19世紀半ばまで続いた江戸時代においても、人口の80%前後を占めていた農民は年貢として米を納めていた。ヨーロッパで貨幣納税がすでに当たり前になっていたころも、幕府や各藩の財政はなお「米」を基盤にして動いていたのだ。
■外国と商売をするためには現金が必要
だからと言って別に大きな不都合はなかった。
国家の支出のほとんどは国内で完結しており、武士の生活費や城の建設費、役人の給料といった幕府や藩の主な支出も、突き詰めれば人の口を養うためのものだったからだ。つまり、集めた米をそのまま再分配すればそれで財政を回すことができたのである。
ところが、明治維新後の新政府はそれをよしとはしなかった。近代国家を築くには、銃や大砲を海外から購入し、鉄道を敷き、工場を建て、技術者を雇わなければならない。そうした支出は当然ながら米では支払えない。
米をいくら積み上げたところで軍艦も機械も買うことはできないのである。
しかも米は保管や輸送にコストがかかり、価格も天候に左右されやすい。これは国家財政の基盤としては極めて不安定だ。
そこで必要になったのが、全国から安定して現金を集める仕組みである。
こうして1873年(明治6年)の地租改正によって、年貢米による納税から通貨による納税へと転換が行われた。このときから、米ではなく、お金で税を払うことが国民に義務付けられたのである。
■「何のために働くのか」が激変した
年貢米だろうが税金だろうが、取られることにかわりはないと思うかもしれないが、地租改正による納税手段の変更は、人間が「何のために働くのか」という前提条件を決定的に変えることになった。
年貢米を納めていたころは農民はとにかく米を作ればよかった。
米のほかにも野菜などを育てていて基本的には自給自足の生活だし、衣服や日用品の多くは家内生産や村内の分業によってそのほとんどが賄われていた。お金を使う場面も多少はあったのかもしれないが、それは生活の補助的な手段であり、全面的に依存していたわけではない。ないならないでも生き延びることは十分可能だったのだ。
しかし、税をお金で納めろと言われると、そこに米があるだけではどうにもならない。
市場で米を売ってお金に換えるか、あるいは賃金労働によってお金を得なければならなくなるのだ。
つまり、国がお金での納税を強制するようになったことで、自給自足で十分生きられた人たちを含むほとんどすべての人々が「お金を手に入れなければならない存在」になり、「お金を媒介とする経済活動への参加」が絶対条件になったのである。
■「働くこと」=「お金を稼ぐこと」に
「お金を媒介とする経済活動への参加」を強力に後押ししたのは、本格的な資本主義社会への移行である。
18世紀後半のイギリスで始まった産業革命は、工場制機械工業を生み出し、資本を投じて労働力を雇い、利潤を再投資するという経済構造を確立させた。その仕組みが19世紀を通じて世界に拡大し、日本にも明治維新後に急速に流入してきたのだ。
そこで明治政府は「殖産興業」を掲げ、官営工場を設立し、鉄道を敷設し、近代的産業を国家主導で育成した。
つまり、地租改正によって国民は「お金を手に入れなければならない存在」になったものの、幸か不幸か、そのための賃労働の受け皿も近代化とともに確実に増えていったのである。
おそらくこのあたりから「働くこと」と「お金を稼ぐこと」が等価になり始めたのだろう。
もちろん都市部などでは賃労働に従事する人々もそれ以前から存在はしていたが、社会のほぼ全員がお金を必要とするようになり、「働くこと」と「お金」がこれほど強く結びついた歴史は、それ以前の日本には存在していない。
■1873年の地租改正が転換点になった
試しに「労働」を手元の辞書で引くと、
①からだを使って働くこと。特に賃金や報酬を得るために、心身を使うこと

②人間が道具を利用して自然の素材を目的に応じて加工し、生活に必要な財貨を生み出す活動
とある。
年貢米を収めればよかったころまでは、その意味は②に近かっただろう。

しかし、地租改正によってすべての人がお金を得なければならなくなり、多くの人たちが資本主義的な労働市場に組み込まれていったころから、「労働」すなわち「働くこと」の意味は①のほうに重心を移し始めた。
おそらく多くの現代人は、「お金を稼ぐために働く」のは当たり前のことだと思っているだろうが、少なくともほとんどすべての日本人が「お金を稼ぐため」に働くようになってからは、実はたった150年余りしかたっていないのである。

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池田 清彦(いけだ・きよひこ)

生物学者、理学博士

1947年、東京都生まれ。生物学者、評論家、理学博士。東京教育大学理学部生物学科卒業、東京都立大学大学院理学研究科博士課程生物学専攻単位取得満期退学。山梨大学教育人間科学部教授、早稲田大学国際教養学部教授を経て、山梨大学名誉教授、早稲田大学名誉教授、TAKAO 599 MUSEUM名誉館長。『構造主義科学論の冒険』(講談社学術文庫)、『環境問題のウソ』(ちくまプリマー新書)、『「現代優生学」の脅威』(インターナショナル新書)、『本当のことを言ってはいけない』(角川新書)、『孤独という病』(宝島社新書)、『自己家畜化する日本人』(祥伝社新書)など著書多数。メルマガ「池田清彦のやせ我慢日記」、VoicyとYouTubeで「池田清彦の森羅万象」を配信中。

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(生物学者、理学博士 池田 清彦)
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