全国から依頼が殺到するわら細工会社が長野にある。わらむの代表、酒井裕司さんは10年前に起業しわら細工に携わる人を70人育成してきた。
周囲から「頭がおかしい」と言われながら、儲からないとされた伝統産業に参入した理由とは――。
■絶滅の危機に瀕した日本のわら細工
正月に欠かせないしめ縄やしめ飾りだが、日本で流通する製品の多くが外国産だ。理由の一つに、低単価で稼げない産業構造が挙げられる。
儲からない伝統産業――。
この構造改革に真っ向から立ち向かう人がいる。長野県飯島町でわら細工をなりわいとする「わらむ」の代表、酒井裕司さんだ。
わら細工職人は減少し続け、国内で数十人いるかどうかという状況だった。製品をつくれる職人が少ないため、わらむには全国から多くの依頼が届き、日本で唯一、大相撲の土俵づくりを手がけている。春日大社をはじめとした全国約100社のしめ縄も製作する。
相撲の土俵も春日大社のしめ縄も、日本全国で職人を探しても見つからず、困り果てた関係者が、それこそ「わらにもすがる思い」で酒井さんに依頼してきたことから始まった。それほど、日本のわら細工は絶滅の危機に瀕していた。
酒井さんが2015年からひとりで始めたわらむは現在、約70人の職人を含む作業員を抱え、しめ縄やしめ飾りを年間約30万個製造している。
ホームセンターや量販店向けの製品をつくるほか、ビームスジャパンや中川政七商店などの企業からの依頼も受ける。
しかし、当の酒井さんはもともとサラリーマンで、「安定した会社員の仕事を一生続けると思っていた」という。一体なぜ「儲からない」といわれるわら細工の世界に飛び込んだのだろうか? 山々に囲まれたのどかな田園風景が広がる飯島町を訪ねた。
■アメリカ横断ウルトラクイズに憧れて
酒井さんは1975年、長野県下伊那郡のサラリーマン家庭に生まれた。果物の生産が盛んな地域で、りんごや梨畑を駆け回ってサバイバルゲームをするような活発な少年だった。
「家にいるよりずっと外で遊んでいた」という小学生時代の酒井さんが憧れたのは、テレビ番組の「アメリカ横断ウルトラクイズ」。ビデオに録画して答えを暗記するほど熱中した酒井さんは、「いつかこの番組に出たい」と、予選が行われる東京に思いをつのらせた。
しかし、上京して日本大学に進学した後に、すでに放送が終了していることを知る。番組に出ることだけを目標にしていた酒井さんは途方に暮れ、「4年間何をしよう」と悩んだ。いっそのことひとりで自転車横断をしようかとも考えたが、サバイバル技術を何も持っていなかった。大学に探検部があることを知った酒井さんはすぐに入部し、毎週野宿をするような生活のなか、1年間で技術を身につけた。
大学2年生の夏休み、先輩と2人で念願だったアメリカ横断を決行する。
サンフランシスコからニューヨークまでの約6000キロを60日かけて自転車で旅をした。テレビ番組を見て以来、ずっと憧れていたニューヨークに到着して自由の女神を見た時は「感無量だった」という。
■インドで倒れる
翌年、今度は後輩と一緒にインドへ。首都デリーからコルカタまで約1800キロを、50日かけて自転車で行く予定を立てたが、初日からお腹を壊し、最後まで体調不良に見舞われた。当時は清潔な水が確保できず、1カ月で体重は18キロも減少した。残り600キロ地点に到達した時に、とうとう体力が尽きて、道に倒れ込んでしまった。
「道路に寝転んだら青空が見えて、この空は日本につながってるんだなと思ったら、もう涙が出てきたんですよ。なんとかして日本に帰りたいと思って、『生きて日本に帰してくれるんだったら、日本のために役立つような人間になります』と神様にお願いしました」
このときの酒井さんを救ったのが、米だった。インド料理を受け付けなくなっていた酒井さんは持参したのりたまのふりかけと、途中で知り合った日本人に分けてもらった鮭フレークを白米にかけて食べた。慣れ親しんだ日本の味に元気を取り戻した酒井さんは、なんとか走り切り、ゴール地点のコルカタに到着した。
帰国した酒井さんは、すぐ実家に帰省。9月中旬のちょうど稲刈りシーズンで、高速バスから伊那谷に広がる田んぼの風景を見た時に、「生きて帰ってきた」実感が湧き、涙が出たという。

「その風景を見た時に、地元に戻って何か役に立つことをやりたいなと思いました。インドでお米に命を助けられたので、お米関係のことができたらいいなと思ったんです」
■「子どもたちのふるさとを守りたい」
酒井さんは「米関係の仕事がしたい」と思いつつ、農業の経験もなかったので、まずは地元の一般企業で営業の仕事をした。その後、結婚して子どもが生まれたタイミングで、先に酒井さんの親が移り住んでいた飯島町に引っ越すことに。その際、食肉加工で包丁を握る仕事の募集があることを知り、「職人仕事への憧れもあったから」と転職した。
その頃、少子高齢化で人口が減り、将来的に飯島町は消滅してしまうという報道を目にした。
「僕は海外に行った時に、ふるさとの大切さを認識しました。でも、このままだと子どもたちのふるさとがなくなってしまうと思ったらすごく切なくなって」
ふるさとを守るためには町おこしが必要だと考えた。マラソンが趣味だった酒井さんは、各地のマラソン大会にたくさん人が集まっているのを見て、経済効果があると感じていた。また、飯島町は「飯(めし)の島」の名の通り米の産地でもあることから、米を絡めたい。改めて飯島町の歴史を調べてみると、江戸幕府の直轄地で、町には陣屋(役所)があったことを知る。
「陣屋があるということは、年貢米が集まった地域じゃないかっていうのを想像して。米を届けるというテーマで、米俵を担いで走ったらおもしろいんじゃないかと思いつきました」
さっそく新聞広告を出すと、定員50人が3日で埋まった。
大きな反響に手応えを感じた酒井さんだが、ここからが誤算だった。
■米俵をつくれる農家がいない
「農家ならみんな当たり前に米俵をつくれると思ったんですが、何軒まわっても誰もつくれないことがわかりました。僕は農家出身じゃないから、その状況を知らなかったんです」
インターネットで調べると、米俵1俵は約9000円で売られていた。大会の参加費は2000円。50人分で35万円の赤字になってしまう。おこづかい生活のサラリーマンにとって、まずい状況だった。
酒井さんは「自分でつくればタダだ!」と思い立ち、近所にわら細工職人がいることを知り、弟子入り。2カ月後の大会に間に合わせるため、土日は職人のもとで学び、平日の夜は家で練習する日々を過ごした。徹夜しながらなんとか50俵をつくり、2013年、米俵マラソンを無事に開催した。この大会は飯島町の名物となり、今も継続している。
食肉加工の職人として働いていた酒井さんは、手を動かすことが好きだった。新しいわら細工の技術を覚えることは純粋に楽しく、わらの歴史も興味深かった。
諸説あるが、日本には約5000年前からわらが存在するといわれ、古事記にもその記載がある。
「すべての神事は米につながるという言葉も聞いたことがあります。米が子どもだとしたら、わらが親。米を生み出すわらにはものすごいパワーがあり、神様の宿る草ともいわれるんです。いい使い方をすると、いい神様が寄ってくると」
神社のしめ縄は、神様の通り道だと考えられている。わらの歴史や伝統にも愛着を感じ始めていた酒井さんだが、先生には跡継ぎがいなかった。「日本からわら細工の文化がなくなってしまったら、すごい罪悪感を覚えてしまう」と、わら細工サークルをつくった。しかし、趣味の活動ではいまいち熱意に欠け、技術も向上せず、最初は20人いたメンバーも次々と抜け、最後には1~2人になってしまった。
■一生、会社員のつもりだったが……
ちょうど同じ頃、勤めていた食肉加工の親会社で偽装事件が発生。器用な酒井さんは会社からも認められ、将来は跡取りとしても期待されていた。しかし、会社は倒産し、状況は一変した。
「土日休みで残業代もしっかり出て、安定した仕事って素晴らしいなと思っていました。
一生そこで働くつもりだったんですよ。でも、会社がなくなってしまって、人に人生預けとったらダメかなと思いました」
しばらくは親会社で働いたが、「サークル活動では次に続かない。しっかり仕事として食べていけるようにしないとこの文化が消えてしまう」という思いがつのっていた。そして2015年、酒井さんは会社を辞めて、合同会社南信州米俵保存会(わらむの前身)を立ち上げた。
■妻から言い渡された「一生おこづかいなし」
しかし、わら細工はかけた労力に対して賃金が安い場合が多い。そのため、安い外国産に負け、職人の高齢化が進み、全国でも数十人まで減っているのが現実だった。「その状況のなか、わらで起業して食べていけると思っていましたか?」と聞くと、酒井さんはにこやかに答えた。
「思ってたんですよ。国内に神社はたくさんあるし、しめ縄やしめ飾りは絶対に必要なので需要はある。いつか必ず日の目を見る時が来るって思ってました」
しかし、需要はあっても技術が足りなければ話にならないと考えた酒井さんは、「1日の睡眠は3時間以上取らない」というルールを自分に課して、ひたすら練習に明け暮れた。
米俵マラソンの米俵をつくること以外はほとんど仕事がなかったため、新聞配達やソフトクリームの販売など6つのアルバイトを掛け持ち。当時、子どもは2人ともまだ小学生で、仕事を勝手に辞めたことを怒った妻からは「一生おこづかいなし」と言い渡されていた。
■周囲の「頭がおかしい」への反骨精神
酒井さんを突き動かしたのは、消えかかっているわら細工の文化を残したいという思いだけではなかった。
「周りから『頭がおかしい』とか散々言われたので、反骨精神ですよね。今やめたらそれこそ笑いものだなと。もうやるしかない、自分がへこたれちゃいけないと思いました」
周囲からネガティブな言葉をかけられたが、酒井さんにわら細工を教えてくれた先生は、起業することに対して何も言わなかったという。その後も継続して技術を教えてくれたり、わらを提供してくれたりしながら、苦しい状況にいた酒井さんを支え続けた。
■相撲関係者からかかってきた電話
転機となったのは2018年6月。突然、相撲関係者から「土俵はつくれますか」と、電話がかかってきた。
最初はまったく信じられず、「新手の詐欺かな」と思ったという酒井さん。半信半疑だったが、7月の名古屋場所に来るよう言われ、関係者口から入って話を聞いて、やっと「本当の話だった」と実感した。
くわしく話を聞くと、年6回ある本場所の土俵づくりはすべてひとりの職人が担っていたが、病気で倒れてしまったという。跡継ぎもおらず、全国で土俵づくりができる人を探していたところ、米俵マラソンの存在を知り、酒井さんに連絡したのだ。
酒井さんは土俵そのものはつくったことがなかったが、この時点で8人の職人を育成していた。米俵マラソンでつくった米俵は、参加者にプレゼントしていたため、毎年製作する必要がある。そうすることで、米俵をたくさんつくるきっかけにしようと考えていた酒井さんは、職人の育成にも取り組んでいた。米俵マラソンで培った体制が、大相撲の土俵づくりができる土台にもなったのだ。
■悪夢にうなされ、眠れない日々を過ごす
土俵づくりを請け負うことになったが、まずは作り方を覚えなければいけない。職人は病状が重く動ける状態ではなかったため、土俵を送ってもらい、それを見ながらつくり、送り返して電話でダメ出しをもらうことを何度も繰り返した。今までつくってきたわら細工と基本は同じだったため、土俵づくりにも応用がきいたという。
なんとか土俵はつくれるようになったが、本場所には66俵、巡業や相撲部屋には24俵が必要だった。巡業はほぼ毎日のようにあるので、休みなく土俵を送らなければならなかった。酒井さんは2日に1回しか睡眠を取れず、土俵を作り続けた。
「寝てしまうと夢を見るんです。僕が土俵の真ん中に座って、関取衆に取り囲まれて『お前のせいで相撲が取れなかった』って責められる。冷や汗をかきながらパッと目が覚めるんですよ。もう寝るのが怖かったです」
大きなプレッシャーを感じながら、無事に11月の九州場所の土俵をつくり終え、テレビで見た時は、「宙を浮くような、ふわふわと夢を見ているような感覚」だったという。以来、わらむでは現在も継続して相撲の土俵づくりを一手に担っている。
■全国100の神社にしめ縄を納める
2022年には、春日大社で20年に一度ある「式年造替(ぞうたい)」のため、しめ縄づくりの依頼を受けた。直径14センチ、長さ25メートル、重さ200キロの巨大なしめ縄だ。全国にネットワークがあるはずの春日大社でも、この大きさのしめ縄をつくれる職人を見つけられず、酒井さんに連絡が入った。「わらむに断られたら、もう神様を迎えられない」と切羽詰まった様子だったという。
わらむでは現在、全国約100社のしめ縄づくりを毎年請け負っている。多くの需要があることから、2024年に神事事業部をつくり、6人の職人で担当する体制を整えた。
■捨てていたわらが「儲かる作物」に変わる
ここで、原料となるわらについて紹介したい。ここまで読んで、「わらは神事に使う大切なもの」と思っていただけたかもしれないが、農家にとってはむしろ処分に困るような存在だった。酒井さんがわらむを始めたばかりの頃は、農家にわらを買い取らせてほしいと頼んでも、「金を出してわらを買うなんて信じられない」「詐欺師ではないか」と怪しまれたほどだ。
コンバインの普及によって短く刈り取ってしまうため、製品作りに使える長さのわらを確保するのは難しい状況でもあった。
酒井さんは協力してわらを栽培してくれる農家を少しずつ増やしながら、高品質のわらを育ててブランド化した。約1500年前から伊那谷地域にあるといわれる在来種「白毛餅(しらけもち)米」などを含めて、6種類のわらを育てている。相撲は土につくと負けを意味するが、倒れないように工夫して栽培することで「土がつかない=負けない」と考えられる。白毛餅米は勝ちを意味する「白星」ともリンクし、もち米なので粘りがある。縁起のいいわらとして、「勝藁(かちわら)」と名付けた。
酒井さんは農家と協力して耕作放棄地も活用しながら、わらを栽培している。中山間地域は小さな田んぼが多く、機械化が難しいため儲からない。結果、耕作放棄地が増えるわけだ。
しかし、酒井さんはわらを米の概算価格と同じ値段で買い取っている。さらに、1回目の稲刈りを行った後に、2回目の稲が自然に生えてくる「再生2期作」も行う。1つの田んぼで2回の収益が見込めるため、小さな田んぼでも儲かる仕組みだ。
農家は儲かり、わらむは必要なわらを確保でき、放置されて荒れた田んぼが蘇る。まさに、win-winのビジネスモデルだ。稲刈りと乾燥作業はわらむが行うため、農家にとっては少ない手間で収入を上げられる。
現在、年間20トンを確保しているが、将来的には200トンに増やすことが目標だ。さらに、酒井さんは「この地域で100億円の産業をつくっていきたい」と真っ直ぐな目で語った。
■不登校の子にわら細工を教える学校を設立
酒井さんは2024年に一般社団法人「わレらの学校」の設立にかかわり、不登校や引きこもりの子どもたちにわら細工を教えている。
なぜ子どもの支援が始まったのかを酒井さんに尋ねると、「PTAがきっかけで……」というから驚いた。睡眠を削って土俵をつくっていた人が、その合間にPTA活動もしていたというのだ。「頼まれると断れないんですよ」と酒井さんは照れくさそうに笑う。保護者や教員に「家にいてもわら細工ならできるのでは」と相談されたことから、子どもたちの支援が始まった。
「僕は引きこもりの子って無気力なのかなと思っていたんですが、対人関係が苦手なだけでやる気はあるんですよね。わら細工を教えると、一生懸命に練習するんです。不登校のままだと将来働けないかもしれない不安がある。でも、わら細工が仕事になるかもって希望を持ってやってるんで、すごくいいものをつくるんですよ」
わら細工は、材料さえあれば家でも仕事ができる。実際、職人のなかにも月1度の納品の時しか会社に来ない人もいるそうだ。その際、必要なわらを持ち帰り、また家で作業をするので、コミュニケーションが苦手な人でも自分のペースで働ける。
■つくった商品はすべて買い取る仕組み
わらむではつくった商品をすべて買い取っている。技術が上がれば稼げる金額も上がるので、モチベーションにもつながっているようだ。
現在、わレらの学校には小学生から30代くらいまでの若者が所属し、このなかから職人になった人は13人いる。さらに、自ら企画してヒット商品を生み出す人も出てきた。生産が追いつかないほど人気になり、「出来上がるまで帰らない」と遅くまで作業をしている姿を見て、酒井さんは「こんなガッツがあったのか」と驚いたという。
「今では、僕より技術を持っている子もいます。こういう子たちにわら細工を任せておけば安心だなって思いますね」
■わら細工業界の発展を願って
わらむを立ち上げた時は400万円に満たなかった売上が、2026年度は7000万円を超える見込みだという。
人材の育成や乾燥機などの設備に投資していたためずっと赤字続きだったが、2025年に初めて黒字化した。稼げないために後継者が育たず担い手がどんどんいなくなっていた業界で、会社が潰れず継続してこられたことに酒井さんは手応えを感じている。
今の課題は何かと聞くと、「僕の健康面ですね」と苦笑いが返ってきた。
「人よりかなり睡眠時間が少ないので、長生きできないかもしれません。僕がいなくなるとたぶんすべてが終わってしまうので、今は経営を担ってくれる人を探しています。みんな技術は持っているので、彼らを引っ張って経営してくれる人がいると安心ですね」
わらむは相撲や神社など日本の伝統を支える、日本にとってなくてはならない会社になっているはずだ。今50歳の酒井さんは、自分がいなくなった後でも継続できる体制をつくらなくては、という使命感を持っている。
酒井さんはわらむの存続だけではなく、わら細工業界の未来も考え、「今年中にわら細工協会をつくりたい」と話す。この業界は横のつながりがあまりなく、技術を習える場所も少なかった。全国的な組織をつくることで、わら細工の技術だけではなく歴史まで総合的に学べるようにすることと、わら細工を教える講師を養成することが目標だ。
全国的に神社のしめ縄をつくれる人材が不足し、なかには化学繊維を使用しているところもあるという。それでは、神様は来てくれないのではないか。「奈良の神社のしめ縄は奈良の職人がつくったほうが、神様は喜ぶと思う」と酒井さんは考える。わら細工協会をつくって人材を育成し、地元の人が神社のしめ縄をつくれるようになることを目指す。
■神様を信じないタイプだったのに
さまざまな神事に関わり、取材中も「神様」に言及することが多かった酒井さん。最後に、「もともと信心深いタイプだったんですか?」と聞いてみた。
「神様とかはまったく信じてなくて、自分で切り拓くタイプだったんです。でも、この業界に入ってから、神様って本当にいるんだなと感じるようになりました。土俵の話が来た時もそうですが、つらくて大変なときに助けがくるし、やっぱり神様は見てくれているんだなと思います」
インドで倒れた時に「役に立つ人間になります」と誓ったのは、「単なる困った時の神頼みだった」と酒井さんは笑う。けれど、真摯にわらと向き合う酒井さんの姿を見て、神様はその誓いをちゃんと見届けているような気がした。

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中谷 秋絵(なかたに・あきえ)

インタビューライター

名古屋市在住。インドでの就業や事務職などを経て、2021年よりライターとして活動。経営者インタビューや地方創生、地域企業の挑戦をテーマに取材を重ねている。熱意を持って行動する人々の物語を発信し、社会をよりよくするヒントを届けることを目指す。インドダンスのパフォーマーとしても活動中。

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(インタビューライター 中谷 秋絵)
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