■あれもこれも信長の前にやっていた
ときに戦国時代後期、荒れる畿内を平定、室町幕府の将軍を京都から追い出して実権を奪い、堺の商人を保護、西洋諸国との貿易を盛んに進め、キリスト教の布教も容認、鉄砲などの最新技術を導入……と、ここまで読んで「はああ、織田信長の話だろ」と思った人は多いだろう。これらは全部、三好長慶がやったことだ。
1522年、長慶は、室町幕府管領(かんれい)の細川晴元に仕える三好元長の子として生まれた。このころ室町幕府は、将軍家に成り代わって細川氏が実質的に政権を掌握してる状態だった。父の元長は主君の晴元と衝突したのち、1532年、一向一揆に攻められて堺の顕本寺で自害し、長慶はわずか11歳で家督を継ぐ。このとき晴元もまだ10代だ。以降の長慶は表向き晴元に臣従しつつ、「そのうち下剋上したるで」と力を蓄える。
■下剋上に成功して「三好政権」を築く
もともと三好氏は、細川氏の守護代だった。この点も尾張(現在の愛知県西部)を治める斯波(しば)氏の守護代だった織田氏に属した信長と同じ図式だ。信長に限らず、室町時代は守護大名がみずから直に領地を治めず、現地にいる守護代が下剋上を起こすパターンが多かった。
1549年、28歳となっていた長慶は、同族内で対立していた三好政長と晴元の軍を摂津(現在の大阪府北西部と兵庫県南東部)江口の戦いで破る。以降の十数年間は、長慶をトップとする三好氏が幕府に代わって実質的に畿内を支配したので「三好政権」と呼ばれる。
■信長が今川を破る一方、中枢8国を支配
事実上の三好政権が成立して以降も、晴元と将軍の足利義輝は逆襲をはかったが、長慶はこれを退け、義輝らの幕府要人を近江(現在の滋賀県)へと追いやる。のち長慶と義輝は潜在的対立を抱えつつも和睦し、義輝は長慶の懐柔をはかった。これも何やら、のちの信長と足利義昭が互いを利用しようとしていた関係にちょっと似ている。
ついでにいえば、のちに信長に仕える松永久秀も三好氏に仕えていた。とかく裏切りをくり返したイメージの強い久秀だが、長慶の死後も律義に後継者の義継を補佐している。
信長がやっと桶狭間の戦いに勝利した1560年の段階で、長慶は、摂津、山城、丹波、和泉、阿波、淡路、讃岐、播磨の8国を支配下に置いていた。おおむね現在の大阪府、京都府、兵庫県、奈良県、香川県、徳島県の範囲にあたる。
当時、上り調子だった関東の北条氏、中国地方の毛利氏も、支配下に置いた地域の広さ、そこから得られる石高(財力)、ほかの武将への影響力など、いずれも三好氏には及ばない。
■堺は絶賛されるほどの商業都市に
長慶は将軍家の関係者など旧来の有力者が多かった京都ではなく、摂津の越水(こしみず)城(現在の兵庫県西宮市)、芥川城(現在の大阪府高槻市)、河内の飯盛城(現在の大阪府四條畷市)に拠点を置いて政務を行った。
この点も、京都ではなく近江(現在の滋賀県)に安土城を築き、新たな政治の中心地にしようと考えていた信長の方針を先取っている。
そして、長慶のもとで堺は有力な商人らによる自治を維持し、明やヨーロッパの商人も行き交う商業都市として栄え、次々と多くの商品が流入した。長慶に布教の自由をとりはからってもらったポルトガル人の宣教師ガスパル・ヴィレラは、堺を地中海屈指の商業都市だったイタリアのヴェネツィアのようだと書簡に記している。
■「千利休の最初のパトロン」説も
長慶は文化的なセンスや教養も高く、和歌や漢詩にも通じ、長慶作の連歌は全31巻も残されている。弟の実休(じっきゅう)(義賢(よしかた))とともに盛んに茶の湯の会や連歌の会を開き、公家、高僧、大商人などの教養人とも交流を重ねた。
茶の湯をはじめとする中世文化が専門の歴史学者である永島福太郎は、千利休は信長に接する以前、長慶の保護を受けて室町幕府に仕える茶匠になろうとしていたのではないか? という説を唱えている。
文武ともにイケていた長慶だったが、1561年以降、弟の十河一存(そごうかずまさ)、嫡子の義興(よしおき)ら一族の有力者が相次いで没し、三好政権は急速に弱体化してしまう。最終的に長慶は家臣の松永久秀に実権を奪われ、1564年に43歳で没する。
■なぜ長慶の功績が評価されなかったのか
以上のように、かなり業績の幅広い長慶だが、戦国武将としての人気はイマイチだ。なまじ最初から権力の中枢に近い場所にいたので、たとえば毛利元就、武田信玄、上杉謙信らのように、地方から成り上がったという物語性が弱いのだろう。
織田信長の華々しい戦歴の第一歩といえば、やはり1560年の桶狭間の戦いだ。このとき信長の手勢が3000人、対する今川義元の軍勢は2万5000人といわれる。
そして、尾張(現在の愛知県西部)1国を支配する信長が27歳の若さで、駿河(現在の静岡県中部)、遠江(現在の静岡県西部)、三河(現在の愛知県東部)の3国を支配する今川義元に勝ったのだ。多くの人が「歴史的な大勝利だよな」と思うだろう。
■信長は「所領ガチャ」の勝者だった
ところがだ。
戦国時代の各地の国力を測るのは、石高(米の生産量)だ。豊臣秀吉による天下統一まで全国的なデータはないが、1598年の太閤検地の数値を参考にすると、濃尾平野の穀倉地帯を有する尾張は1国で約57万石。対して駿河は約15万石、遠江は約25万5000石、三河は約29万石なので、3国合わせて約69万5000石だ。
当時の多くの国は10~20万石で、人口の多い大和(現在の奈良県)、面積が広い陸奥(現在の青森県、岩手県、宮城県)などを除けば、50万石以上の国はわずかしかない。
しかも信長は、桶狭間での勝利後、早い段階で約54万石の美濃(現在の岐阜県南部)も手中に収めた。農業生産力が高ければ当然ながら金もある。金があればそれだけ多くの兵員を雇い入れたり、大量の武器を購入できる。
もちろん信長自身の力量も大きかったろうが、戦う前から「所領ガチャ」でレアな当たりを引いていたといえる。
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小和田 哲男(おわだ・てつお)
静岡大学名誉教授
1944年、静岡市生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程満期退学。文学博士。
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(静岡大学名誉教授 小和田 哲男)

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