■秀吉の下に馳せ参じていた名将
第15回:上月城(兵庫県佐用町)
「われに七難八苦を与えたまえ」と、三日月に祈ったとの逸話で知られる山中幸盛。一般には山中(やまなか)鹿之介(しかのすけ)という名で知られる戦国武将だ。主家・尼子(あまご)家の再興を企図し、仇敵の毛利家との戦いに後半生を捧げた忠臣として知られるが、そのクライマックスの舞台となったのが、播磨(はりま)国西端にある上月城(こうづきじょう)(図表1①兵庫県佐用町上月)だ。
織田信長と決裂した15代室町将軍・足利義昭が西国へ逃げ込み、信長から播磨平定を命じられた羽柴秀吉は、1577(天正5)年と翌年の二度、上月城で対毛利戦を繰り広げている。一度目は攻撃側として同城を攻め落として織田側のものとし、二度目は逆に守備側となって毛利家からの攻撃にさらされた防御戦だった。鹿之介は、その一員として戦いに参加していた。
その二度の合戦いずれにも、若き当主・尼子勝久とそれに仕える鹿之介がいた。強大な毛利軍によって尼子氏が居城を追われ流浪すること十数年。ゲリラ戦で対抗するもなかなか決定的勝利は得られなかったのが、信長の麾下(きか)に入り、秀吉率いる大軍の一員となった。「ついに、長年の苦労が報われる時が来た」と、否応にも気持ちが盛り上がっていたに違いない。
■信長の非情な命令に秀吉は…
ところが、その夢は秀吉の翻意によって、露と消えてしまう。
同じ播磨国、三木城(図表1②兵庫県三木市上の丸5)の城主・別所長治が、織田方から毛利方に寝返ってしまったのだ。より織田家の本拠に近い三木城への対処を優先せよ、との非情な命令。これにより秀吉は、上月城の兵たちを見殺しにせざるを得なくなる。そして「第二次上月城の合戦」は毛利家が勝利する。城は落城し、勝久、鹿之介はいずれも無念のうちに生涯を終える。
想定外の謀反が理由なのだから秀吉の決断もやむなし、と一見思える。が、あながちそうとも言い切れないのだ。その理由は、秀吉の「第一次上月城の合戦」の戦後処理での「重大な判断ミス」にある。
■「織田vs.毛利」最前線の城の実態
秀吉は何をしでかしてしまったのか。
縄張図の通り、東西に伸びる一本の尾根に曲輪が並ぶだけの比較的シンプルな縄張りだ。ただし城下の眺望は悪くない。東から西へ、城内をたどってみよう。
■上月城の掘切や竪堀の跡が残る
主郭東側の細尾根には、何カ所か堀切が切られており、傍には竪堀らしき凹みも見られる。ただしいずれも浅く、それほど堅固な印象はない。元の地形が細尾根なので、それだけでも防御上は効果がありそうだが……。
■急斜面で攻めてくる敵を防いだ
尾根幅が広くなり登った先が主郭。振り返るとなかなかの急斜面だ。やはり元地形が峻険なので、それで防備には十分ということなのだろうか。
主郭は東西、南北ともに20mほどとそれほどではないが、その先の西側の尾根上には削平された尾根が続いている。そこそこの兵が駐屯できそうだ。
■防御に気合いを入れた部分も
いくつかの曲輪を経て、城の西端にたどり着くと、なかなかの落差の切岸(人工的に削って角度をつけた崖)。その直下には二重堀切も切られている。この部分だけは相当、気合の入った山城という印象を受ける。
■非戦闘員の女も磔、子供は串刺し
上月城の主郭には三つの墓石が立っている。尼子勝久や山中鹿之介のものかと思いきや、そうではない。
中央の一回り大きな石には、「赤松蔵人大輔正範君之碑」の文字。この赤松正範こそが、「第一次上月城の合戦」での上月城の守将。秀吉と争った人物だ。秀吉の戦後処理での判断ミスとは、この正範にまつわるものだった。
■冷酷な処断によって人心が離れたか
「第一次上月城の合戦」の際、城内には兵士以外にも非戦闘員約200人も避難していたという。
秀吉はその申し出を無視し、非戦闘員も含め彼らを虐殺してしまう。女は磔にされ、子供は串刺しにされたという残忍さ。城主や城兵はともかく、非戦闘員まで根絶やしにしてしまうのは、いくら戦国の世とはいえあまりにひどい。主君・信長に勝るとも劣らぬ冷酷非情ぶりだ。
秀吉としては、「敵対すればこうなるぞ」と知らしめるため、敢えて行った虐殺だったのかもしれない。ただしそれは、逆効果だったのではないか。冒頭に挙げた別所長治の裏切りには、秀吉が別所家の婚姻や人事への介入が目に余るなど、複数の要因があったといわれる。そのひとつに、この戦後処理もあったといえなくはないだろうか。「これほど冷酷な男には、ついてゆくのは危険すぎる」と。
結果、別所長治に続いて、播磨の隣国・摂津(せっつ)(兵庫県南東部)でも荒木村重が織田から毛利へと寝返る。
■秀吉は支援できず、尼子氏は自刃
秀吉は、三木城の攻撃を継続させつつ、いったんは自らの手勢を率いて尼子軍支援のため、上月城の向かいにある高倉山に進出した。しかし、大軍で上月城を包囲した毛利軍は陣城を築き、空堀や塹壕を掘り、塀を巡らして柵や逆茂木で防備を固める。さらに連日、法螺貝や太鼓を鳴らして山上への威嚇行動を行い、兵糧攻めで尼子軍の戦意を喪失させた。
播磨にはさらに織田の軍勢が到着したが、信長は三木城の攻略と毛利軍の足止めを優先。このため秀吉も、目の前にある上月城に手を出すことはできず、援軍が期待できない尼子軍は絶望的な状況に立たされる。
やむを得ず高倉山の陣を引き払うことになった秀吉は尼子軍に「上月城を放棄し脱出せよ」という書状を出したが、尼子主従はあくまで徹底抗戦を選んだという。
ついに7月1日、尼子軍は城兵の助命を条件に開城・降伏し、尼子勝久・尼子氏久・尼子通久、そして勝久の嫡男である尼子豊若丸らは自刃した。尼子再興軍の中心的人物であった山中鹿之介も毛利軍の捕虜となり、護送される途上、殺害された。こうして70日に及んだ「第二次上月城の合戦」は幕を閉じ、武門としての尼子氏は完全に滅亡した。そのとき、秀吉はどんな心境だっただろうか。
二度も血なまぐさい戦いの舞台となった上月城。その跡に立ってみると、現在でも周囲を田畑に囲まれたのどかな風景の中に、武将の誇りをかけた男たちの無念がさまよっているようにも感じられた。
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今泉 慎一(いまいずみ・しんいち)
古城探訪家
1975年、広島県生まれ。編集プロダクション・風来堂代表。山城を中心に全国の城をひたすら歩き続け、これまでに攻略した城は900以上。著書に『戦う山城50』(イースト・プレス)『おもしろ探訪 日本の城』(扶桑社文庫)、監修書に『『山城』の不思議と謎』『日本の名城データブック200』(以上、実業之日本社)。『織田信長解体新書』(近江八幡観光物産協会)など、地域密着濃厚型のパンフレット制作を担当することもある。
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(古城探訪家 今泉 慎一)

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