1万円札の顔としてすっかりおなじみになった幕末~昭和期の経済人・渋沢栄一。系図研究者の菊地浩之さんは「渋沢は第一銀行など企業を多数立ち上げたが、限られた資金は他の会社設立のために充て、企業の株式を保有し続けて支配下には置かなかった」という――。

※本稿は、菊地浩之『財閥と閨閥』(角川新書)の一部を再編集したものです。
■「日本資本主義の父」の生い立ち
渋沢栄一(1840~1931)は武蔵国榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深谷市血洗島)の農家に生まれた。血洗島には渋沢姓の家が17軒あったという。だから家の位置によって「東の家うち」「西の家」「中の家」「前の家」「新屋敷」などと呼んで区別した。
渋沢家の墓石を調査した橋本昌平氏(渋沢家から橋本家へ養子)によれば、渋沢家の本家にあたる「遠前の家」の先祖は甲斐武田氏の支流で、1590(天正18)年に血洗島村に入植し、その四代目の弟・渋沢保右衛門が「前の家」を興した。保右衛門の子・渋沢宗助が「東の家」を興して大いに栄えた。
「遠前の家」から分かれた「中の家」は家運が傾いたので、長女のえい(栄)に、「東の家」の二代目宗助の三男が婿養子に迎えられ、渋沢市郎右衛門美雅(号・晩香)と名乗った。渋沢栄一の父である。
市郎右衛門は些細なことにも几帳面でよく働いた。農作だけではなく、副業として藍を栽培して藍玉造りに精を出した結果、栄一が物心つく頃には、「中の家」が「東の家」に次ぐ財産家と知られるほどになった。
市郎右衛門は3男2女の兄弟で、長兄・渋沢宗助は「東の家」の三代目を継ぎ、次兄・渋沢文右衛門は新たな分家「新屋敷」を興した。また、姉は岡部藩徒士格・尾高勝五郎保孝、妹は須永伝右衛門に嫁いだ。

■幕末期、ヨーロッパに渡った体験
渋沢栄一は2021年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公として、その生涯は世に知られることになったので、ここでは紙幅の関係で大幅に割愛してしまうが、栄一は農家の出身でありながら、幕末に倒幕運動に身を投じ、ひょんないきさつから一橋家家臣・平岡円四郎を通じて、1864(元治元)年2月に一橋家の家臣となり、1866(慶応2)年に一橋家当主・徳川慶喜が徳川宗家の家督を継ぐと、幕臣に取り立てられた。
パリの万国博覧会に慶喜の異母弟・徳川昭武が参加することになり、同1866年11月、栄一はその随員の一人として一行の庶務会計係を命じられた。博覧会の式典後、スイス・オランダ・ベルギー・イタリア・イギリスと欧州各地を視察、西洋文明を見聞した。この時の経験が、のちの「日本近代資本主義の父」としての基盤となった。
■明治新政府の大蔵省で能力を発揮
翌1868(明治元)年10月に帰国。徳川家(16代・徳川家達(いえさと)が静岡藩主となったのにともない、静岡藩で「商法会所」という半官半民の企業を設立し、大きな利益を挙げた。その活動が認められ、1869(明治2)年11月、明治新政府の大蔵省租税正に任命され、大蔵大丞に出世したが、1873年に政府内部の意見対立のため、栄一は井上馨とともに退官。当時、大蔵省で進めていた銀行設立を民間の立場でサポートした。
1873年6月11日に第一国立銀行(のち第一銀行、第一勧業銀行を経て、現・みずほ銀行)が設立された。頭取には大株主の三井八郎右衛門、小野善助が就任(当時は頭取、副頭取が2人ずついた)。これとは別に「総監役」という職務が設けられ、同年6月12日に栄一が就任した。そして、2年後の1875年8月の役員改選で、栄一は頭取に就任し、名実ともに第一国立銀行のトップとなった。

■現・みずほ銀行など178社に参画
渋沢栄一は、第一国立銀行の経営に従事する一方、数多くの会社設立に参画した。
渋沢栄一研究で知られた島田昌和氏によると、栄一が「会社の設立から発足後にわたって公に何らかの役職についた会社」は延べ178社にも及ぶという(『渋沢栄一 ――社会企業家の先駆者』)。
主なものでも、下記の会社設立に参画している。
・1873年 抄紙会社(王子製紙を経て、現・王子ホールディングス)

・1876年 東京府瓦斯局(現・東京ガス)

・1879年 有限責任東京海上保険会社(現・東京海上日動火災保険)

・1880年 横浜正金銀行(現・三菱UFJ銀行)創立委員長となった。

・1881年 日本鉄道会社(のち日本国有鉄道に継承、現・東日本旅客鉄道)

・1883年 東京電燈株式会社(現・東京電力ホールディングス)

・1886年 帝国ホテル株式会社

・1886年 株式会社東京石川島造船所(現・IHI)
また、会社設立以外にも各種機関・諸団体設立に尽力している。
・1876年に東京株式取引所の設立に尽力して相談役に就任。

・1877年に伊藤博文・大隈重信らに勧誘され、財界団体の東京商法会議所の設立発起人となり、会頭に就任。

・1877年に商法講習所(現・一橋大学)が設立されると、経営委員に選出された。
さらに、この他にも社会福祉や国際団体、日米親善など幅広く活動した。
■「渋沢財閥」にしなかったワケ
財閥解体で十大財閥の財閥家族が指定された時、渋沢家もその候補に入っていたらしい。ところが、渋沢家が財閥の体を成していないと判断され、除外された。渋沢同族という持株会社らしきものもあるが、財閥本社というより、渋沢家の資産管理会社といった方が適切で、産業界に対する支配力は微塵もない。

百数十の企業を興していながら、財閥化しなかったのはなぜなのか。
それは渋沢栄一のビジネスモデルにあった。渋沢栄一研究家の島田昌和氏は、渋沢の株式所有行動について「まずいくつかの会社を軌道に乗せて配当を行い、自身はその会社の株式を一部売却して、その資金を新たな会社の設立資金にしていった」(『渋沢栄一の企業者活動の研究』)と指摘している。
■三菱の岩崎弥太郎とは組まず…
つまり、栄一は限られた資金を、企業設立のために充てることが多く、一つの企業の株式を保有し続けて支配下に置くことはしなかった。企業を設立して利益を得ようとするのではなく、創ること自体を目的としていたのだ(一方、岩崎弥太郎は自分で事業を興したことがほとんどない。いずれも他人が興した事業を譲り受けて急成長させている。だから、創業の渋沢栄一と育成の岩崎弥太郎が組めば天下無敵だったに違いない。実際、弥太郎は栄一に協業を呼びかけているが、栄一は事業方針が異なるからと断っている)。
従って、渋沢系と認知される企業は少なく、『浅野・渋沢・大川・古河コンツェルン読本』では「直系4事業」として、東京石川島造船所(現・IHI)、自動車工業(現・いすゞ自動車)、石川島飛行機製作所(現・立飛ホールディングス)、渋沢倉庫の4社を掲げているにすぎない(これに第一銀行[第一勧業銀行を経て、現・みずほ銀行]も加えた方がよいだろう)。そして、渋沢家はこれら企業の株式をほとんど所有していない。
■IHI、いすゞ自動車などにつなげた
しかし、栄一の子・渋沢武之助が東京石川島造船所監査役、栄一の三男・渋沢正雄が日本製鉄の常務、東京製綱の監査役に就いているほか、嫡孫の渋沢敬三が第一銀行常務の役員に就いている。
所有なき渋沢家の役員就任について、「比較的著名な事業の多くは、大川、浅野、古河、大倉等の支配会社への従属関係に立つてゐる(中略)尤も浅野や大川にして見れば、御恩返しといふ意味でもあるまいが、(渋沢)翁の秘蔵つ子を大切に預かつて守り育て、小さい会社ながら女婿や孫どもまで一つぱしの重役になりすましてゐる」(『浅野・渋沢・大川・古河コンツェルン読本』)といわれている。

■2人の妻と妾、子供は18人以上
渋沢栄一には2人の妻と数人の側妻(そばめ)がおり、先妻・千代(1843~1882)との間に2男3女、後妻・兼子(1855~1934)との間に5男1女をもうけた。早世した子を除き、通常、4男3女と数える。栄一は艶福家(=女性関係が華やか)で、この他に少なくとも4男3女の庶子が存在する。ただし、栄一の子孫によれば、同族会は嫡出子の子孫のみで構成されているようだ。
■最初の妻はいとこ、結婚25年で死去
858(安政5)年、18歳で従姉妹の千代と結婚した。
栄一は幼少の頃より学識に優れており、従兄弟の尾高新五郎惇忠(藍香)のもと学んだ。「惇忠は幼児より学を好み、博覧強記、加えるに志士的風格を備えた人物であった」(『人物叢書 新装版 渋沢栄一』)という。
惇忠の弟・尾高長七郎弘忠は、剣道で身を立てるべく江戸に出ていたが、たまに友人をともなって実家に戻り、兄やその門弟らと開国論や尊王攘夷論を戦わせた。栄一もすっかり感化され、弘忠を頼って江戸に出たいと父に懇願した。栄一の父・市郎右衛門は、栄一が政治論や剣術に熱中して家業の農事を疎かにすることを憂えた。所帯を持てば、落ち着いてくれるだろうという期待を込め、尾高惇忠・弘忠兄弟の妹、千代を栄一の嫁に迎えたという。
千代の死後、1883年に栄一は伊藤八兵衛の長女・兼子と再婚した。

■4女6男が生まれたが、早世した子も
琴子の孫・阪谷芳直著『三代の系譜』の巻末系図では、栄一の子どもを7男4女の計11人としている(★は千代の子、☆は兼子の子)。ただし、成年に達したのは4男3女で、かれら(およびその子どもたち)を総称して「渋沢七家」と呼ばれた。『柏葉拾遺』に記された生没年を拾っていくと、左記のようになる。
・長男★渋沢市太郎 (1862~1862) 早世

・長女★穂積歌子 (1863~1932) 穂積陳重の妻。宇多ともいう

・次女★阪谷琴子 (1870~1925) 阪谷芳郎の妻。ことともいう

・三女★渋沢糸子 (1871~1871) 早世。伊登ともいう

・次男★渋沢篤二 (1872~1942)

・息子☆渋沢敬三郎 (1883~1883?) 早世

・三男☆渋沢武之助 (1886~1946)

・四男☆渋沢正雄 (1888~1942)

・四女☆明石愛子 (1890~1977) 明石照男の妻

・五男☆渋沢秀雄 (1893~1984)

・六男☆渋沢忠雄 (1896~1897) 早世
『柏葉拾遺』では兼子の長子・敬三郎の記載がない。一方、渋沢正雄の次女・鮫島純子は、その著書『祖父・渋沢栄一に学んだこと』にて、父親の正雄が栄一の四男で「栄一と後妻兼子の三番目の男の子」と記し、「兼子は結婚後、流産、新生児夭折が続き」、正雄の兄武之助が「三男」だと記している。「新生児夭折」が敬三郎なのであろう。
■長谷川重三郎などの庶子もいた
なお、栄一には上の11人以外にも庶腹の子どもが数人存在した。中でも有名であるのが、第一銀行の「プリンス」として頭取に推され、三菱銀行との合併失敗で辞任を余儀なくされた長谷川重三郎である。かれは栄一の13番目の子どもだったから、「十三」をもじって重三郎と命名されたといわれている。
その弟・遠四郎は「十四」をもじった名前だという(が、子孫は平岡円四郎にあやかって命名されたと聞かされていた)。
正妻の子どもを何人と数えるかによって、重三郎と正妻の子の間に何人の子がいるかが変わってくるのだが、少なくとも下記の7人が栄一の子どもだといわれている。栄一は還暦を過ぎてから子どもができてしまい、思わず「若気の至りで」と語ったとか……。長谷川重三郎は68歳の時の子どもなので、彼がその子どもなのかも知れない。
・娘 尾高ふみ (1871生まれ) 尾高次郎の妻

・娘 大川てる (1875~1927) 大川平三郎の妻

・息子 星野辰雄 (1892生まれ) 星野錫(しやく)の養子

・娘 安本つる (1897生まれ) 星野錫の養子、安本明治郎の妻

・娘 川崎まつ (1900生まれ) 星野錫の養子、川崎甲子男(きねお)の妻

・息子 長谷川重三郎(1908~1985) 公的には長谷川元の子

・息子 長谷川遠四郎(1913生まれ)

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菊地 浩之(きくち・ひろゆき)

経営史学者・系図研究者

1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。

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(経営史学者・系図研究者 菊地 浩之)
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