■なぜ荒木村重は謀反を起こしたのか
織田信長(小栗旬)の命で播磨(兵庫県南西部)の攻略を進めてきたのは、摂津(大阪府北西部、兵庫県南東部)一国をまかされていた荒木村重(トータス松本)だった。ところが成り上がりの羽柴秀吉(池松壮亮)がその任に抜擢され、村重は外されたので、本人以上に家臣たちが納得していない――。
そんな模様が描かれたのは、NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の第21回「風雲! 竹田城」(5月31日放送)だった。
そこでは元の主君、池田長正の娘である美しい妻「だし」(山谷花純)と、ひげ面の村重の、文字どおり「美女と野獣」の夫婦が仲睦まじくすごす様子も描かれた。ところが、第22回「播磨大誤算」(6月7日放送)の最後で、この村重が謀反を起こしたという急報が届く。
信長のもとにその報がもたらされたのは天正6年(1578)10月21日で、謀反がきわめて残酷な結末に至るまでには、それから1年以上を要している。その残酷さは、大河ドラマでは到底描けない水準で、文字にするのもためらわれるほどだが追って記す。その前に、なぜ村重が謀反を起こしたのかについて考えておきたい。
■織田と毛利を天秤に
『信長公記』には、村重の謀反について次のように書かれている。
〈十月二十一日、荒木村重が謀反を企てているとの注進が、方々から届いた。信長はただちには信じがたく、「何の不足があってのことか。
返事は「野心は少しもございません」とのことだったので、信長は喜び、「母親を人質としてこちらへ預け、差し支えなければ出仕せよ」と伝えた。しかし、実のところ荒木は謀反を企てていたので、出仕しなかった。
もともと荒木村重は他家の家臣であったが、先年、将軍足利義昭が信長に敵対した時、信長の味方となって働いたので、摂津の国の支配を許したのである。しかるに、身の程もわきまえず、信長の厚遇をよいことに傲り高ぶり、ついに謀反を企むに至ったのである〉(中川太古訳、以下同)
なぜ「傲り高ぶ」ったのか。村重は同年10月17日、本願寺法主の顕如と盟約を結んでいる。顕如が村重と嫡男の新五郎に宛てた起請文には、村重が本願寺方に忠誠を誓ったことを評価し、摂津の支配をはじめ知行に関しては、毛利氏の庇護下にいる足利義昭に従うように書かれている(「京都大学所蔵文書」)。
つまり村重は本願寺と組む毛利、その背後にいる足利義昭方につく道を選んだということで、以前から織田と毛利を天秤にかけていたものと推察される。
■見捨てられた妻子たちの末路
さて、村重は居城の有岡城(兵庫県伊丹市)に籠城し、信長の嫡男の信忠が率いる軍に対し、1年近くにわたって徹底抗戦した。だが、天正7年(1579)9月、突如として伊丹城から逃亡してしまう。『信長公記』には〈九月二日夜、荒木村重が五、六人の供を従え伊丹城(註・有岡城のこと)を忍び出て、尼崎の城に移った〉と書かれている。
この「逃亡」に関しては、本願寺や毛利との連携をたもつために、戦略的に尼崎城(兵庫県尼崎市)および花隈城(神戸市中央区)に撤退する必要があった、という見方もある。
〈十一月十九日、伊丹城に立て籠もっていた荒木久左衛門その他、主だった部将たちは、妻子を人質として城に残し、尼崎の城へ退去した。これは、尼崎・花隈の二城を明け渡せば人質の妻子らを助命するという、織田方が提示した条件を荒木村重に伝え、説得するためであった〉
久左衛門らは、せめて妻子だけでも助かるために、信長の出した条件を受けるべきだと考えた、ということだろうか。ところが、村重はその条件を受け入れなかった。そうしたら今度は久左衛門まで、有岡城にいる妻子らを見捨てて逃げてしまった。そこで信長は見せしめに、有岡城に残された妻子たちを「成敗」することになった。
村重に加えて久左衛門までが人質を捨てたので、ただでさえ激しかった信長の怒りが倍加したのだろうか。「成敗」は凄惨を極めた。その内容を伝えるにあたっては、脚色を避けるために、少し長くなるが『信長公記』の引用を軸に記したい。
■信長が考えた処刑法
〈伊丹城に残された多くの妻子たちは、現在の情況を聞かされて、これは夢なのか現実なのかと迷い、いとしい者たちとの別れの悲しさを何にもたとえようがなかった。
あるいは幼い子を抱え、あるいは妊娠している者もいた。
この様子を見聞きすると、気丈な武士といえども岩や木ではないから、涙を流さぬ者はなかった。
信長は山崎で情況の報告を受け、かわいそうだとは思ったが、悪人を懲らしめるために伊丹城の人質を成敗するよう、詳細に命令を出した〉『信長公記』
村重の身内の女性30人余りは、12月12日に京都に護送され、斬首された。そのときの模様は、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスの『日本史』から引用する。
〈まず彼(註・信長)は荒木の妻をはじめ、二人の娘、兄弟、彼女の兄弟姉妹、さらにすべての従兄弟たち、甥たち、近親らすべて三十六名を捕えることを命じて、都へ送った。彼らは同所で、死刑の判決を記した板を立てた荷車に乗せられて、市の全部の重立った通りを連行されたが、それは死よりもはなはだしい恥辱と不面目に値するものであった。(中略)
津の国の領主の婦人でだしと呼ぶ荒木の妻は、天性の美貌と貞淑さの持主で、つねに顔に大いなる安らぎを示していたが、車から降りる前に、頭上の振り乱れていた髪を結び、身だしなみをより保つため、腰帯を締め、時の習慣に従い、幾重にも重ねた高価な衣裳を整えた。(中略)
かくて彼女、および他のすべての者はそこで斬首された〉(松田毅一・川崎桃太訳、以下同)
■悲しみ叫ぶ声は天にも響くほど
加えて、摂津国でそれなりの地位にいる者の妻子が選び出され、翌13日午前8時ごろ、尼崎に近い七松(現・尼崎市)で磔にかけられた。『』はこう記す。
〈さすがに歴々の妻女たちであったから、衣装を美しく着飾り、逃れられぬ運命と悟って神妙に並んでいた。この美しい妻女たちを、いかにも荒々しい武士たちが受け取って、幼児がいれば母親に抱かせたまま、次々と柱に引き上げ、磔に掛けた。そうして次々と鉄砲で撃ち殺し、または槍や薙刀で刺し殺した。
百二十二人の妻女たちが一斉に悲しみ叫ぶ声は天にも響くほどで、これを見守る人々は、目もくらみ心も消えて、同情の涙を押さえることができなかった。見た人は、二十日も三十日もの間、成敗された妻女たちの顔が浮かんで、忘れられなかったそうである〉
書いていて息苦しくなるが、読者は大丈夫だろうか。しかし、これでは終わらなかった。ここまでは村重の身内と上級武士の妻子にかぎられている。有岡城にはほかにも籠城する者が多くいたが、その人たちも処刑された。ふたたび『信長公記』から。
〈このほかに、女三百八十八人、これは中級以下の武士の妻子と侍女である。男百二十四人、これは歴々の妻女たちに付けられていた若党その他である。合計五百十余人。矢部家定が検使を命じられ、これを家四軒に押し込め、枯れ草を積んで焼き殺した。
風が起こり火が廻るにつれて、魚が反り反り飛びはねるように、あちこちとなだれ寄り、焦熱の炎にむせび、躍り上がり跳び上がり、悲鳴は煙とともに空に響いた。地獄の鬼の呵責もこれかと思われた。
■村重のまさかの末路
フロイスも〈第三の処刑はさらに比較にならぬほど残酷で非人道的、かつ恐怖すべきものであった〉と書き、こう続けている。
〈四つの平屋が作られ、それに五百十四人が分けて入れられた。それらのうち、三百八十名は婦人で、百三十四名が男たちであった。そこで大量の乾燥した草、柴、木材が集められ、これに放火して彼ら全員を生きたまま焚(殺)した。彼らが発する悲鳴、聞こえてくる叫喚、彼らが受けているこの残念きわまる苦しみの混乱ぶりは、かの地を恐怖で掩った〉
実際、よく聞く地獄の責め苦のレベルを超えている。では、当の村重はどうなったのだろうか。尼崎城で抵抗したのち、花隈城に移って籠城を続けたが、天正8年(1580)7月に落城すると、毛利氏のもとに亡命した。その間も、信長は村重の一族を見つけるたびに斬殺したが、本人だけはしぶとく生き延び、本能寺の変後に堺の茶人として復活している。
自分の謀反が原因で虐殺された家族や親族、家臣の妻子らのことを、どう思っていたのだろうか。精神的によほどタフであったのか、あるいは、よほど鈍かったのか。いずれにせよ常人でなかったことはまちがいない。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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