■鈴木敏文の“最後の弟子”
1973年にセブン‐イレブン・ジャパン(当時ヨークセブン)を創業した鈴木敏文氏は、数々の流通革命を成功させたカリスマ経営者である。社内では“神”と崇拝され、幹部社員であっても軽々しく近づけない独特の距離感があった。その中で鈴木会長(当時)が心を許し、真の意味で評価した幹部は数えるほどしかいない。おそらく野田靜真氏は、鈴木会長から信頼され薫陶を受けた“最後の弟子”と言えるだろう。まさに鈴木イズムの正統継承者である。
■数字の悪い店を立て直す手法
野田氏は西東京ゾーンで見事に数字を立て直した。着任した翌月には、西東京ゾーンの売上前年比は、全国最下位から2位に浮上した。まさに奇跡の改善であった。どのように立て直したか。前編に詳細を記したように、「悪いときは一点突破しかない」と考える。
キーワードは単品管理。単品管理で一点突破して成功体験をつくり、自信を持たせてから他の施策へ広げていく。これが野田氏の常套手段だった。当時の野田氏が業務改革委員会(業革)という幹部会議で発表したケーススタディはこうだった。
【現状分析】「なぜこのエリアは他より悪いのか?」「どのカテゴリーが弱いのか?」「理由は何か?」これを掘り下げていくと、西東京ゾーンは明らかにタバコが弱かった。
【仮説】タバコのような嗜好性の強い商品は、品揃えの幅を広げた店の方が売り上げが伸びていた。これを全店で進めればよいのではないか。
【実施】ここでの一点突破は「タバコの品揃え見直し」だった。アイテム数を拡大し、カウンター後方に設置された専用陳列什器を前面に移動した。
【検証】売り上げ構成比25%のタバコが改善されると売り上げ全体へのインパクトも絶大だった。
野田氏が実践した「現状分析→仮説→実施→検証」のPDCAは、まさに鈴木から叩き込まれた単品管理そのものだった。その後、タバコを起点に取り組みカテゴリーを広げて、個店、地区の売り上げを次々と改善していった。
野田氏は、当時のことをこう回想する。
「別に、タバコじゃなくてもよかったんです。ただ、タバコは即効性があります。負け癖のついた現場に、まずは数字を変えられるという実感と、自信を持たせたかったんです」
■「悪い、あの話、なくなった」
こうして、難攻不落とされた鈴木会長のお膝元西東京ゾーンを見事に攻略したのである。セブン‐イレブン・ジャパンの幹部全員が溜飲を下げた瞬間だった。鈴木氏もきっと眼を細めていたはずだ。
ところがである。会社の人事とは、思いもよらぬ展開を見せるものだ。
西東京ゾーンの任期後半、突然、当時オペレーション本部長兼副社長だった古屋一樹氏から総経理(支社長)として中国出向の内示を受けた。海外となると話は別だ。妻の意向を無視するわけにはいかない。内示を受けたその場で妻に電話をかけ事情を説明すると、意外にも冷静な反応が返ってきた。
「中国? まあしょうがないわね。とりあえず行くわよ」
その言葉に背中を押され、野田氏は覚悟を決めて古屋氏に承諾を伝えた。その場で翌週の辞令が決まった。ところが翌朝、再び古屋氏に呼ばれ、こう告げられる。
「悪い、あの話、なくなった」
意味が分からなかった。
「人生がかかっていますからね。さすがにこのときばかりは、古屋さんに経緯の説明を求めましたよ」
古屋氏によると、井阪隆一氏(当時セブン‐イレブン・ジャパン社長)が人事案を承認し、鈴木氏に報告した途端「野田は駄目だ!」と却下されたという。
■中国から一転、アメリカへ
それから3カ月後、再び古屋氏から呼び出され、今度は「アメリカに行ってくれ」とセブン‐イレブン・インク(米国)出向を命じられた。
「中国の一件があったので、にわかには信じられませんでしたね」
疑心暗鬼の野田氏が経緯を尋ねると、「今回は鈴木会長の命令だ」とのことだった。鈴木会長はアメリカをことさら重視していた。セブン‐イレブン・インクを強化し、グローバル戦略の足掛かりにしたい。「アメリカ人に単品管理を説き、現場で実践できるのは野田しかいない」と考えたのである。
だがここでひとつ疑問が湧く。鈴木会長の知らぬところで、なぜ野田氏の中国出向が計画されていたのか。日本のエースを中国に送る必然性は見当たらない。今回のインタビューでこのいきさつを初めて聞いた筆者は、セブン‐イレブン内部に潜む権力闘争の影を感じずにはいられなかった。
ともあれ野田氏はセブン‐イレブン・インク(米国)Excecutive Vice President(以下EVP=副社長格)として渡米することになった。その際、鈴木会長に二つの条件を出している。
■鈴木会長に突き付けた2つの条件
一つ目は、「どうせなら骨を埋める覚悟で行きたい。セブン‐イレブン・ジャパンを完全に卒業し、片道切符で行かせてください」というもの。
腰掛けではアメリカの役員は自分の言うことに本気で耳を傾けない。当時53歳の野田氏は、65歳までの10年以上をアメリカで働く覚悟を固めていた。
二つ目は、「私はアメリカのお客様と加盟店に軸足を置いた仕事をします。
小売はドメスティックだ。人種も文化も経済環境も違うアメリカで、「日本ではこうだった」と語るのはナンセンス。これはまさに鈴木氏の教えでもあった。野田氏の進言に鈴木会長は黙って頷いた。
2012年、野田氏はテキサス州ダラスに移り住み、生活者の目線でアメリカのセブン‐イレブンを見つめ直した。ジョー・デピント社長から忌憚のない意見を求められたのも有難かった。
「とにかく品揃えの悪さが目につきました。アメリカの商品は1800アイテムしかない(日本は約3000)。棚はスカスカで、欲しいものがない。これでは売り上げは伸びません」
野田氏は「エクスパンド・アソートメント(品揃え拡大)」を提案した。
「実はこれまでもアメリカに出向していた日本の社員は、品揃え拡大を提案したというのです。
野田氏はあくまでも、アメリカの立場に立って、アメリカとしての提案をした。だから幹部たちは納得し、提案を受け入れた。ダラス、ニューヨーク、ロサンゼルスの3市場で現状分析を行い、欠落商品を導入した。ニューヨークでは1日の売り上げが、1店舗につき日本円で平均3万円~5万円も上がった。
■ピザを全米3位に押し上げた「単品管理」
さらに野田氏は、ここでも店舗に足しげく通って、ある商品のアイデアを思いつく。それは、後にアメリカのセブン‐イレブンを代表するヒット商品に結びついた。野田氏は、バックカウンターの大型オーブン「ターボシェフ」の活用策としてピザを提案したのだ。「ターボシェフ」は24時間加熱でランニングコストがかかる。にもかかわらず、オーブン内に仕込む商品が少なく、あまり稼動していなかった。何ともったいないことだろうと思った。
「アメリカでピザは、日本以上に馴染みのあるファーストフード。2枚9.9ドルの美味しいピザを作れば、絶対に売れると思いました」
野田氏はアメリカの生活に触れて、ピザの潜在ニーズを実感していた。恵方巻のときと同様の嗅覚である。結果、2年後にはピザハットなどの大手を相手に、セブン‐イレブンのピザ販売枚数が全米3位に躍り出た。業績の悪いエリアを次々と立て直してきた野田氏。奇跡に見える手腕だが、本人に言わせれば、やっていることは、何ひとつ変わらない。単品管理の徹底こそが、V字回復の秘密なのだという。
■「鈴木が送り込んだスパイではないか」
思い起こせば、渡米直後の野田氏が最初に直面したのは、アメリカの幹部たちから向けられた猜疑心だった。
「鈴木が送り込んだスパイではないか……、そう思われていましたよ。だから、ジョー(デピント社長)に言ったんです。そんな真似はしない。日本からレポートを求められても、送る前に必ずあなたに見せる、と」
それは言葉だけでなく、行動にも裏づけられていた。野田氏は毎日のように現場を歩き、店舗の課題を拾い上げた。デピント氏との1on1では、毎週、改善点を率直に提言した。
「靜真はまったく耳の痛いことばかり言うよ……」とジョーは苦笑したが、野田氏の提言を真摯に受け止め、幹部たちに指示を落とし込んでいった。ジョーを語る野田氏は雄弁だった。野田氏の本気を受け止めてくれたこと、お互い現場主義であったこと、公私にわたり助けられたこと、彼の漢気(おとこぎ)を感じたこと……。こうして、ふたりの友情が育まれていたことが感じ取れた。
野田氏はアメリカ時代を振り返る。
「最初の2年間は孤独感と焦燥感に苛まれました。だけど、ジョーのお陰で後半の2年は本当に楽しかった……」
だからこそ、日本から帰国命令を受けたときは、たいそう落胆したそうだ。
■帰国命令と、号泣した朝
「2016年1月、ジョーから『研修で日本に行ってくれ』と言われました。『何の研修だ?』と聞くと、『アメリカで店を増やすから、その部署を作りたい。日本で出店開発の研修を受け、戻ったら責任者になってくれ』という。何だか嘘っぽいなと思いましたよ」
予感は的中した。研修は口実で、真の目的は、鈴木会長が野田氏をセブン‐イレブン・ジャパンのオペレーション本部長として帰任させるというものだった。現場を束ねる最高責任者であり、社長への試金石(布石?)とも言える最重要ポストである。鈴木会長の構想する新体制の中核に、野田氏は組み込まれていた。
このときばかりは、鈴木氏本人から直接内示を受けた。
「約束が違うじゃないですか! アメリカに戻してください」
本音はそうだったが、鈴木氏の表情に宿る決意を見て、言葉を飲み込んだ。
2016年4月――何が起きたかは説明するまでもない。取締役会で鈴木氏は井阪隆一社長の解任動議を発議し、後任社長に古屋一樹副社長を指名した。だが発議は否決され、「獅子身中の虫がいた」という意味深な言葉を残して鈴木氏はセブン&アイ・ホールディングス代表の座を退いた。まさに激震だった。
当時を振り返る野田氏は、悔しさを滲ませる。
「退任会見の翌朝8時、鈴木さんに呼ばれ、『君、退任会見を見たか? 僕は引退するけど、君はどう思った?』と聞かれました。僕は人前で泣くなと言われて育った世代ですが、あのときばかりは初めて鈴木さんの前で号泣しました。それが僕の鈴木さんへの想いでした」
■人生最大のターニングポイント
野田氏は、セブン‐イレブン・ジャパンは井阪社長・古屋副社長兼オペレーション本部長の体制が継続するものと思い込んで、こうも言った。
「鈴木さんには、『加盟店にとって、最もオペレーション本部長に相応しいのは古屋さんです。引き続き古屋さんに務めていただくべきです。だから僕をアメリカに戻してください』と言いました。すると鈴木さんは横を向き、腕を組んで沈黙しました。実際には1分も経っていなかったと思いますが、僕には5分くらいに感じました。そしてひと言、『君の考えはわかった』と……」
アメリカに戻すとも、日本に残れとも言わなかった。
野田氏はその足で古屋氏のもとへ向かい、鈴木氏との会話を報告した。すると古屋氏は「馬鹿野郎!」と野田氏を一喝した。
「俺が社長になろうが、ならなかろうが関係ない。おまえが鈴木さんからオペレーション本部長に指名されたんだから、俺はおまえに任せる。アメリカに帰るなんて言うんじゃねえ!」
古屋氏から怒髪天で浴びせられた言葉。野田氏にとっては、よい意味でも、悪い意味でも、人生最大のターニングポイントだったかもしれない。
■カリスマが去った後
結局、鈴木会長退任後のセブン&アイ・ホールディングス代表には井阪氏が就任し、空位となったセブン‐イレブン・ジャパン社長には古屋氏が昇格。野田氏は内示どおりオペレーション本部長に就任した。皮肉にもホールディングス代表以外は、鈴木氏の構想どおりの布陣となった。ただし、カリスマ不在の2016年以降、その意味合いはまったく異なるものとなった。セブン‐イレブンの経営環境には確実に地殻変動が起きつつあった。
やがて古屋氏は去り、鈴木チルドレンたちは影響力を失った。それでも野田氏はオペレーション本部長、専務、副社長と順調に階段を上っているように見えた。少なくとも当時、同社の北海道のゾーン・マネージャーだった筆者には、そう映っていた。だが野田氏は当時の心境をこう語る。
「この頃は、自分の存在意義に疑問を感じ始めていました。僕が実現したかったのは、現場でお客様のニーズを感じ取りながら、モノを売る楽しさを皆で実感すること。そして加盟店の幸せです。ですが経営者という立場は複雑です。さまざまなステークホルダーがいて、それぞれの立場で違う正義がある。うーん……これ以上は言葉にしづらいですね」
野田氏が言葉にしづらいと言う以上、あとは、当時、同社にいた筆者が自分なりに解釈して補うしかない。
鈴木氏の教えを現場で徹底する。それが加盟店の売り上げ利益に直結する。野田氏はそんなシンプルな思考で、「お客様の立場で考える」「加盟店の幸せを第一に考える」のが好きだった。だが、いつしか、経営陣、ホールディングス、株主、世論といった、多くの価値観が入り込んで、シンプルに考えることが難しくなった、ということだったのではないだろうか……。
■厳しい局面で求められた役割
野田氏が副社長を最後に退任した2025年は、2016年以来の波乱の年だった。北米コンビニ大手アリマンタシォン・クシュタールからの買収提案、SNSで批判された「上げ底弁当」など、セブン‐イレブン・ジャパンにはネガティブ報道が過熱した。負の連鎖が覆い、会社は守りに追われた。野田氏は、そんな逆境のときこそ、攻めに転じたかったはずだ。広島で恵方巻に挑んだときのように――。
セブン‐イレブンのナンバー2には特別な意味がある。全国2万1000店の加盟店を預かる総指揮官であり、会社の大番頭だ。だが社長ではない以上、最高執行権限はない。2016年以降、経営環境が難しい局面を迎える中、野田氏はその狭間で葛藤した。ナンバー2という居心地の悪い場所を甘んじて受け入れた。それはきっと、自分を慕う社員や加盟店のためだ。だが、冷めた言い方をすれば、野田氏の求心力を会社に利用されていたとも言える。
実際、野田氏の求心力は、社員時代の筆者が、この目で見ていて日々実感しているものだった。「野田副社長が加盟店を廻る」と情報が流れたら、オーナーたちは一様に身を乗り出し、店を挙げて歓迎する空気が生まれる。本気で野田氏の言葉に耳を傾けたいと思うからだ。
■もっとも有能な人間が社長になるとは限らない
社内でも同じだった。FC会議(オペレーション・フィールドカウンセラー[略称OFC]の会議)で「次は野田副社長がお話しされます」とアナウンスされると、社員たちの表情が変わった。内職の手を止め、野田氏の言葉を聞き逃すまいと、真剣な眼差しを向けた。
なぜ、そこまで人を惹きつけるのか。理由は単純である。野田氏は現場を動かし、組織を動かし、数字を変えてきたからだ。その実績を加盟店も社員も知っている。求心力とは肩書ではなく、積み重ねた結果そのものなのだ。
もちろん、野田氏の活躍を快く思わない勢力はあっただろう。それもまた組織の常だ。事実、数字を変えた幹部は、ほかに何人もいた。ただ、野田氏が他のリーダーたちと決定的に違ったのは、徹底して現場の声に耳を傾け、本質に眼を向けたことだ。この点の尋常じゃないこだわりが、野田氏の真骨頂と言えるだろう。
あらためて筆者は強く思う。企業とは、もっとも有能な人間が社長になるとは限らないところだ。むしろ、ナンバー2こそが最強なのではないか――。
野田靜真という人物を間近で見ていると、そう思わずにはいられない。
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村尾 信一(むらお・しんいち)
フリーライター
1967年、大阪生まれ。95年に株式会社セブン‐イレブン・ジャパンへ中途入社。直営店(トレーニングストア)店長、ディストリクトマネジャー(DM・地区責任者)などを経て2011年より東北ゾーン、北海道ゾーンのゾーンマネジャー(ZM・統括責任者)として広域統括を担う。2025年7月退職後は、フリーライターとしてビジネス誌などへ寄稿。7月1日に著書『鈴木敏文の遺言』(ビジネス社)が発売される。
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(フリーライター 村尾 信一)

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