■二転三転した買収劇
2025年6月13日、日本製鉄の交渉団は歴史的勝利を手にした。ジョー・バイデン大統領が拒否し、ドナルド・トランプ大統領も一時反対していた2兆円規模の買収を、ついにトランプ氏が認めたのだ。
これを受け日本製鉄は同日、急ピッチでUSスチールとの最終調整を進行。日付が変わる頃、ついに最終的な合意に漕ぎ着けた。アメリカを相手にベテラン交渉者としての本領を発揮した日本製鉄の森高弘副社長は、米ワシントン・ポスト紙に、「深夜にオフィスを後にした時、やっと実感が湧き上がりました」と語る。勝利までの道のりは、決して平坦ではなかった。
2023年12月、日本製鉄は149億ドル(約2兆1900億円)でUSスチールを買収すると発表した。1901年にアンドリュー・カーネギーとJPモルガンが設立し、かつて世界でも最大級だった、アメリカ鉄鋼業の象徴的企業だ。外国企業の手に渡るとのニュースは、アメリカに衝撃を与えた。
タイミングも結果的には裏目に出た。
アメリカへの外国投資を国家安全保障の観点から審査する対米外国投資委員会(CFIUS)の審査は長期化した。USスチールの労働者を代表する全米鉄鋼労働組合(United Steelworkers)の指導部も、日本製鉄による買収に猛烈に反対した。
結果、米CBSニュースなどが報じたように、バイデン氏は2025年1月3日、ついに買収の正式な阻止を発表。国家安全保障を理由に挙げたが、同盟国日本の企業がなぜ脅威なのか、明確な説明はなかった。
■労働者たちを味方につけた草の根活動
ところが、バイデン政権による阻止からわずか5カ月後、状況は一変する。政権交代後のトランプ氏は6月13日、一転して買収を承認する大統領令に署名した。ただし、前例のない条件が付けられた。アメリカ政府が「ゴールデンシェア」と呼ばれる特別な拒否権付き株式を持つ。企業経営に米政府として介入できる余地を残し、安全を担保した。
承認までの長い道のりについて、イギリスのBBCなど海外各所でも取りあげられている。
草の根活動でペンシルべニアの労働者たちを味方につけ、250億ドルの巨額投資でトランプ氏を説得する。政治とビジネスを切り離す日本的発想を捨てた、希有な戦略だった。
■買収はUSスチールの悲願だった
USスチールは崖っぷちに立っていた。2008年に240億ドル(約3兆5200億円)あった年間売上高は、2023年には180億ドル(約2兆6400億円)まで急降下。古い製鉄所に新たな設備投資をして新たな息を吹き込む資金も、とうに底をついていた。
経営陣の警戒感は明らかだった。日本製鉄なしでは、古い工場を閉鎖せざるを得ない。CBSニュースは近年、同社がデトロイトとセントルイス近郊の工場を閉鎖し、数千人の組合員が職を失っていたと報じている。放置すれば、次はペンシルベニアの番だ。
救済の希望となったのが、日本製鉄が持ちかけた買収案だ。USスチールのデビッド・ブリット最高経営責任者(CEO)は、米CNBCのインタビューで、率直に語った。
■日本製鉄が提示した破格の条件
そこに日本製鉄が差し出したのが、破格の条件だ。英タイムズ紙によると、1株55ドル(約8100円)での買収(総額149億ドル)に加え、2028年までに110億ドル(約1兆6000億円)の設備投資を約束。トランプ氏も「少なくとも7万人の雇用を創出し、140億ドル(約2兆円)が米国経済に加わる」と評価せざるを得ない規模だった。
米シンクタンクの戦略国際問題研究所(CSIS)は、世界戦略の観点からも有効だったと分析している。統合により両社は世界第2位の鉄鋼メーカーとなる。世界の鉄鋼の60%を生産し、過剰生産能力で輸出攻勢をかける中国企業に対抗するには、規模で圧倒できる事業規模が不可欠だ。
現場は買収成立に沸いた。2025年5月、トランプ氏が買収承認を決めると、USスチールで祖父の代から働く第3世代の製鋼工、アンドリュー・マセイ氏はタイムズ紙に、次のように本音を語った。
「今日はやっと息ができるような気分です。
■「バイデン政権は我々を裏切った」USスチールCEOの怒り
結果として米製鉄大手を救った買収案だが、あわやバイデン政権によって水泡に帰すところであった。
2025年1月、バイデン氏の買収阻止から間もない日。FOXビジネスのインタビューでバリット氏は怒りを爆発させた。「(米)政府は我々を失望させました。彼らは我々の労働者を裏切り、地域社会を裏切り、国を裏切り、アジアの最良の同盟国を裏切ったのです」
斜陽のUSスチールにとって、ペンシルベニア州に抱える従業員とその家族、そして株主への責任を果たすには、日本製鉄との提携しか道はなかった。バリット氏はCNBCの取材でも、「これ(買収提案)は国家安全保障を強化します。経済安全保障を強化する。そして雇用の安定を強化するのです」と強調している。
バリット氏は、バイデン氏を明確に批判している。「アメリカ合衆国大統領は恥知らずにも、いいですか、恥知らずにも、初手から対米外国投資委員会のプロセスを汚染したのです」
バイデン氏は買収について、極めて早い段階で反対の立場を公に表明している。本来CFIUSの審査は「鉄壁の機密性」で独立して行われるべきだが、大統領が事前に立場を表明したことで、審査の中立性が損なわれた――とバリット氏は糾弾した。
「我々は日本製鉄との間で、企業として正しいことをすべて行いました。プロセスを尊重した。それが間違いだったのです」とバリット氏は断言。当時の政府が法の支配に従わなかったために、USスチールと地域社会に多くの時間、多くのエネルギー、多くの費用を失わせた、と結論づけた。
アメリカの一大企業が日本との連携を強調し、自国大統領を糾弾する。逆転的な構図に、CEOの苛立ちが如実に表れている。
■アメリカには日本が欠かせない
バイデン政権は2022年、「フレンドショアリング」を提唱した。共通の価値観を持ち、かつ地政学的な懸念のない同盟国を対象に、経済的連携を強化する施策だ。だが皮肉なことに政権末期、その理念は日本企業の排除という形に終わった。
当然、日本がアメリカの最も信頼できる同盟国の一つに挙げられることは、自明の事実だった。英フィナンシャル・タイムズ紙は、アメリカのジャネット・イエレン財務長官がフレンドショアリングを発表した際、「彼女(イエレン氏)は言及する必要さえなかったが、例えば日本のような国々である」と付け加えている。
実際、アメリカ産業の日本依存は予想をはるかに超えて深い。
■「同盟国」を敵視する矛盾
にもかかわらず、なぜ日本製鉄は「国家安全保障上の脅威」として排除されたのか。米政治コラムニストのキャサリン・ランペル記者は、米ワシントン・ポスト紙への寄稿で、安全保障面での課題はあくまで口実に過ぎなかったと分析している。
彼女によると、バイデン氏は「最も親組合的な大統領」という名声を得たかったのだという。同盟国との信義を捨て、組合指導部への配慮を優先した。それが「フレンドショアリング」の末路だった。
フィナンシャル・タイムズ紙は辛辣な結論を下している。日本製鉄の買収劇で露呈したのは、アメリカが同盟国すら平気で裏切るという現実だった。この冷たい事実を前にしては、『フレンドショアリング』という温かい響きの言葉はあまりにも偽善的で、もはや使い続けるべきではない、と。
冷戦時代の米国務長官ヘンリー・キッシンジャーは「アメリカには永遠の友人も宿敵もいない。あるのは利益のみである」という趣旨の言葉を残したとされるが、その言葉通り、アメリカに真の友人はいなかった。
■ライバル企業CEOが向けた敵意「日本は中国より悪い」
日本に背を向けたのはバイデン氏だけではない。ライバルの米企業は106分間の記者会見で、時代錯誤の悪意を向けた。
2025年1月、USスチールのライバル企業であるクリーブランド・クリフスのローレンソ・ゴンサルベスCEOが放った言葉は、罵倒の域を超えていた。「(鉄鋼を過剰生産する)中国は悪い。中国は邪悪だ。中国は恐ろしい」と自説を放った彼は、「だが、日本はさらに悪い」と続けた。フィナンシャル・タイムズ紙などが報じたこの発言は、国内でも多くの日本人に衝撃を与えた。
ゴンサルベス氏は止まらなかった。「あなたがた(日本人)は(米に敗戦した)1945年から何も学んでいない」「我々の血を吸うのをやめろ」。
ゴンサルベス氏が展開する買収妨害工作を受け、日本製鉄が「上場企業のCEOというよりはむしろマフィアのボスというにふさわしい」行動を辞めるよう提訴すると、ゴンサルベス氏は激しく反発している。
フィナンシャル・タイムズ紙によると、報復として、「彼は、日本製鉄の橋本英二CEOから、すべて(車、家、最後の1円まで)を奪えるのだと自信満々」であったという。記者団に対し、「日本から米国への犬の輸出に関する規則を既に調査し始めた」と、具体的にペットを奪う算段を付けていると明かした。
■日本製鉄の粘り勝ち
なぜこれほど強気なのか。ゴンサルベス氏には、トランプ氏がクリーブランド・クリフに与するとの誤った読みがあったのかもしれない。彼は記者団に、1987年のトランプ氏のインタビュー動画を見るよう勧めた。当時のトランプ氏は日本を「金儲けマシン」と呼び、アメリカから搾取していると批判していた。資金力と技術力で勝る日本製鉄は、クリーブランド・クリフスの市場シェアを脅かす存在だった。
だが2025年現在の現実はどうか。米ピッツバーグ・ポスト・ガゼット紙は今年5月の社説で、ゴンサルベス氏の偽善を容赦なく暴いた。アメリカの雇用を守ると叫んだ彼の会社は、わずか2カ月で約3000人の組合員を解雇している。
3月にミネソタ州の2つの鉄鉱石鉱山を操業停止し、600人以上を一時解雇。続いてディアボーンの製鋼工場でさらに600人を解雇。5月にはイリノイ州の1工場とペンシルベニア州の2工場を操業停止し、約1000人が影響を受けた。最後にウェストバージニア州で計画していた変圧器生産工場をキャンセルし、約束されていた600人分の雇用が消えた。
紆余曲折を経て、トランプ氏は買収を実質的に認めた。日本製鉄の粘り強い交渉が実った形だ。
同社が最後まで希望を持ち続けた理由の一つに、現場労働者の熱烈な支持がある。買収に反対する組合指導部が「出席するな」と命じた集会に、労働者たちは大挙して押し寄せた。
■「地道な努力が非常に効果的」
英タイムズ紙は、2024年11月のある夜の出来事を報じている。買収発表から約1年後のこの夜、USスチール発祥の地であるペンシルベニア州ブラドックで、流れを変える出来事が起きた。工場から道の向かい側にある地ビールレストラン、ブラドック・パブリック・ハウス。2階建てのささやかなこのレストランは、USスチールの労働者を含む地元の人々の憩いの場だ。
この夜、地元民の姿が目立つ店内に、日本製鉄の幹部たちが現れた。「私たちに何でも聞いてください」との思いから、幹部社員が直接疑問に答える対話集会を設けたのだ。
地元の歴史家ボブ・ケッチャム氏は、この出来事が転換点になると見抜いていた。「日本製鉄の上級管理職が実際に現れて製鋼労働者と話したことが重要だった」と語る。アメリカ人にとって日本人は、礼節を重んじる反面、形式を重んじ本音を打ち明けないイメージがある。組合指導部の反対を押し切って参加した労働者たちがそこで見たのは、想像に反し、労働者一人ひとりを直視する日本人の姿だった。
日本製鉄の幹部たちはこれを皮切りに、次々と現地に密着した戦略を展開。ピッツバーグの記念品でいっぱいの市長のガレージオフィスに顔を覗かせてはミーティングに臨み、地元ラジオに出演し、果てはNFLのスティーラーズの応援に駆けつけた。政治とビジネスを分離する日本的発想を捨て、アメリカ流の草の根活動に徹した。ワシントン・ポスト紙は、地元を巻き込んだこうした地道な努力が非常に効果的であったとみる。
■労働者たちと米大統領が最後に選んだパートナー
状況は一変した。英BBCによると、トランプ氏は後に、実は地元の役人たちから話を聞いており、それをもって買収への考えを変えたと明かしている。
トランプ氏と個人的に繋がりの深い、地元の鉄鋼企業の創業者であるビル・ポラチェク氏も、地元の空気の変化を察し買収支持に傾いた。タイムズ紙に、「日本は我々にとって非常に友好的な国だ」と公言している。「この地に留まり、投資を続けるというコミットメントがあり、政府の監督がある限り、問題ないと思います」とも。
ビジネスを一企業として進める日本の論理ではなく、官民混然としたペンシルベニアの現実と向き合った時、道は開けた。頑なに反対する組合指導部を尻目に、USスチールの現場労働者たちと米大統領が最後にパートナーに選んだのは、日本だった。
経済面での成果は計り知れない。CSISによると、統合後の両社は世界第2位の鉄鋼メーカーとなり、中国企業に対抗できる事業規模に躍進。ワシントン・ポスト紙も指摘しているが、トランプ氏が鉄鋼関税を50%に引き上げたことで外国勢が締め出される中、アメリカ国内に拠点を持つ日本製鉄は、思わぬ漁夫の利を得た。
「投資であって買収ではない」というトランプ氏のレトリックに付き合い、形式的な譲歩をしながら実質的な勝利を得る。日本の新たな交渉戦略が勝利への鍵となった。
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青葉 やまと(あおば・やまと)
フリーライター・翻訳者
1982年生まれ。関西学院大学を卒業後、都内IT企業でエンジニアとして活動。6年間の業界経験ののち、2010年から文筆業に転身。技術知識を生かした技術翻訳ほか、IT・国際情勢などニュース記事の執筆を手がける。ウェブサイト『ニューズウィーク日本版』などで執筆中。
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(フリーライター・翻訳者 青葉 やまと)