■「もっとも有能な指揮官」の戦死
昭和18年(1943年)4月18日午前、連合艦隊司令長官・山本五十六の乗った一式陸攻機が撃墜され、山本は副官や軍医長らとともに戦死した。
山本の死は、太平洋戦争そのものの転回点になった。その意味を詳細に検証しておく必要がある。
皮肉なことに、このことをもっともよく理解していたのはアメリカ側であり、太平洋艦隊長官のニミッツ元帥はその著(“THE GREAT SEA WAR”)のなかに次のように書いている。
「非常に几帳面な山本元帥の性格を計算に入れ、航続距離の長い戦闘機の一個中隊がヘンダーソン飛行場(保阪注・ガダルカナル)から発進、彼の飛行機が着陸のため近づいてきたとき、計画どおり正確にこれを撃墜した。日本海軍にとって、もっとも有能であり、もっとも活動的な指揮官山本提督を失ったことは、敗北に匹敵するほどの致命的な打撃であった」
現在、アメリカの歴史家や軍事史家は、日米の戦いは、「山本の死によって決まった」という見方で一致しているほどである。
■日本が太平洋で暴れられるのは1年間だけ
昭和16年12月8日の真珠湾奇襲攻撃から数えて1年4カ月、たしかにこれまでの期間の海軍の作戦は山本の主導下にすすめられた。真珠湾奇襲作戦など山本の並み外れた着想によって生みだされたものだった。海軍の軍人としてつごう6年間の駐米勤務を体験していた山本は、日本がアメリカと互角に戦えるだけの軍事力をもっているとは考えてもいなかった。
開戦前に「1年間は太平洋で暴れてみせる」といったのはそのことをよく物語っているし、もっと具体的な話を紹介すれば、山本は開戦後もひそかに「アメリカと戦うことに自信をもつ者と交代させてほしい」と嶋田繁太郎海軍大臣に申しでていた。
そのたびに、「適当な者がいない」と却下されていた。
■艦隊より航空戦力が重要だと見抜いていた
山本は、日本海軍のなかではその器におさまらないタイプの軍人であった。戦史研究家の吉田俊雄(元海軍中佐)の書くところでは、明治40年の「帝国国防方針」以来、海軍は「寡をもって衆を制す」という考えのもとに、戦艦を中心とした艦隊決戦思想を確立していたという。
そのためには同質の鋳型にはまった軍人をつくることを教育の眼目とし、独創的な意見や柔軟な発想をできるだけ排するシステムをつくり上げてきた。艦隊決戦ではそういう軍人のみが必要だというのであった。
山本は生来の奔放な性格に加え、アメリカ勤務や航空畑を歩くという軍歴によって、すでに太平洋戦争の開始時においても、艦隊決戦派とは一線を画し、航空主力の作戦をとなえていた。
真珠湾作戦、ミッドウェー作戦、そしてその後のガダルカナル奪回に伴うソロモン海戦などは、山本の構想のもとにすすめられたが、ミッドウェー作戦以後はアメリカ海軍に圧(お)されるようになった。しかし山本は、昭和18年4月初頭の航空作戦を主軸にした「い号作戦」が当初の作戦目的を達したと判断し、前線の海軍の将兵を激励するためにショートランドに向かったのである。
■米軍による暗号解読は知らないまま
自らが前線視察に赴くことでアメリカ軍の攻撃対象になり、死を覚悟しなければならないことも知っていた。あえていえば、真珠湾から1年4カ月を経て、自らの死地を求めるような心境すらあったかもしれない。連合艦隊参謀長の宇垣纏(まとめ)は、ブーゲンビル島視察に向かう山本の言動には、「(いつもとは異なる)若干の変化を見受けられたり」という報告書を海軍大臣宛てに提出している。
山本は開戦前の約束どおり、1年間は暴れてみせたが、それ以後の日本の軍事力には自信をもてず、その胸中には自らの役割はもう終わったという思いがあったであろう。誰かもっと「アメリカとの戦いに自信をもつ指揮官」の手で戦況が担われるべきだと考えていたのだろう。
山本は戦死するまでの間、「暗号解読」に気づいていなかった。アメリカ軍の有能なスタッフによって、日本軍の暗号が解読され、そのためにミッドウェーの敗戦があり、山本自身の死があった。山本はそのことを知らないで逝った。
■「たった17日で解読されるはずはない」
山本の死(海軍内部では甲事件と呼ばれた)を知らされたとき、海軍省や軍令部では、当初はアメリカ軍に暗号を解読されているために起こったことではないかと疑った。そこで南東方面艦隊司令部にその調査を命じた。南東方面艦隊司令部が調査を行って海軍大臣宛てにその報告を送ったのは、昭和18年4月22日である。3日間にわたって調査を行ったことになる。
暗号が漏れていたのではないかという疑問に、南東方面艦隊司令部は報告書を提出している。
この報告は、きわめて簡単な理由をあげて、アメリカ軍の24機が偶然山本の乗った陸攻機とであったにすぎないと結論づけている。つまりわずか17日前に暗号の乱数表を変えたのだから、解読することなど理論上不可能というのであった。
さらにこの報告書には、暗号解読が懸念される事項に対しての調査を行った旨も伝え、そのなかに陸軍に疑いをかけた一節がでてくる。
陸軍では、4月14日に「バラレ」基地派遣隊から、「ブイン」司令部宛てに電報を打っているといい、その通信文は、「GF長官四月十八日『バラレ』『ショートランド』及『ブイン』視察 六時中攻撃機(戦闘機六ヲ附ス)ニテ『ラバウル』発八時『バラレ』着直(ただち)ニ駆逐艇ニテ『ショートランド』ヘ……(以下略)」という内容だったと伝える。
■陸軍の乱数表をアメリカ軍が入手した?
そしてその折の「使用暗号書」を次のように書いている。
陸軍暗号書(「ガ」島ニテ敵手ニ入リタル算大ナリ)ニシテ形式ハ無限乱数式ナリ(「バラレ」→第十七軍司令部間専用ノモノナリ)
海軍側としては、暗号が解読されて山本機が待ち伏せ攻撃を受けたことはありえない、しいていえばガダルカナルに上陸した陸軍の第十七軍の司令部の乱数表がアメリカ軍の手に入り、そのためにアメリカ側に解読されたのではないか、という判断をもったのであった。
海軍内部のこの報告書は、海軍省や軍令部のなかでも限られた幕僚しかみていない。むろん陸軍側は誰ひとりとしてこの報告書をみていない。
そのために太平洋戦争の期間、山本元帥は陸軍側の暗号が解読されて待ち伏せ攻撃にあった、と海軍指導部の間では不満げに語られていた。陸軍側はそのことをまったく知らないという構図がつづいた。
■戦後も消えなかった「陸軍vs海軍」の遺恨
戦後になって、こうした記録を陸軍側の幕僚たちもみている。昭和50年代の半ば、私は『東條英機と天皇の時代』という書を著すために、陸軍省や参謀本部の要職にあった幕僚を取材して歩いたことがある。
彼らの海軍を悪しざまに罵る口ぶりには激しいものがあり、たとえば「海軍がアメリカと戦えないと一言いったら、東條さんはアメリカとの戦争などしなかった」「南方要域は海軍の担当だったのに、彼らは何も陣地をつくっていなかった」「ミッドウェーの敗戦など陸軍に知らせなかった」と雑言を浴びせ、はては東京裁判で陸軍だけにいっさいの責任を押しつけたと怒っていた。
これらの指導部に列する幕僚たちは、すでに故人になっているが、彼らはアメリカと戦ったのではなく、海軍と戦ったといわんばかりの口ぶりだった。このとき、東條側近の一人が、「山本さんが戦死したのも、そのころから陸軍のせいにしていると聞いた。とんでもない」と激高していたのが印象的だった。
本書の記述でもしばしば引用するが、大本営(陸軍部)参謀の井本熊男は、その書(『作戦日誌で綴る大東亜戦争』)で、戦後になって海軍の記録を読み、陸軍の打電によってアメリカ側に暗号を解読されたとなっていることを知ったが、「陸軍が長官の行動を通信したことはない」とさりげなく書いている。
■アメリカにとってヒトラーと並ぶ嫌われ者
アメリカ側がどのような方法で、日本側の電報を解読したか、その詳細は正確にはわかっていない。だがアメリカ側から発表された戦史などを読むと、山本がラバウルの航空基地をたつ前日(昭和18年4月17日午前11時)には、ワシントンの海軍省にあるノックス海軍長官の机に、暗号を解読した文書が置かれている。
これには日本海軍の電文がこのところしきりに伝えていた山本五十六の行動日程がくわしく書かれていた。ノックスはすぐにルーズベルト大統領に、この電文の内容を伝えた。
ルーズベルトは、「よし、この指揮官を討ちとろう」と命じたが、ニミッツもそれに異存はなかった。アメリカ海軍にとっては、山本こそ真珠湾奇襲作戦で恥辱を与えられた憎むべき相手だったのである。アメリカ国民には、ヒトラーと比べられるほど嫌われていた。この日程をみれば、ガダルカナルの航空基地からを発進させ、撃ち落とすことが可能という判断が下され、実際にそのとおりに実行された。
■あまりにも貧弱だった日本軍の情報機関
アメリカ海軍の暗号解読班は、わずか2週間余の間にどうして暗号が解読できたのか。結局、日本の戦史家たちは昭和18年1月にガダルカナル奪回に向かった潜水艦(伊一号など)が陸岸で座礁したり沈められたりしたが、アメリカ側はこれらの潜水艦のなかから乱数表を抜きとり、それを参考にしながら新しい暗号を解読していったと推測している。
暗号に対する考え方、それを解読するシステムなど、日本とアメリカとの間には大きな開きがあったのだ。
山本五十六の戦死は、アメリカ側の情報戦争の勝利だった。
太平洋戦争の終わったあと、アメリカ政府は戦略爆撃調査団を日本に派遣した。この調査団は日本軍の指揮官たちを次つぎに呼び、その軍事戦略がどのようなものであったかを探った。
むろんアメリカ軍の爆撃が日本にどのような損害を与えたか、それは投下した資本(軍事力)に対してどれだけの利益(軍事的効果)が上がったかを調べて納税者を納得させるのが本旨であったが、そのついでに情報機関についても調べ上げてみて、あまりにも貧弱なことに驚いてしまった。
調査団の報告書には次のように書かれている。
「この度の戦争の全般を通じていえることは、情報要員訓練計画の皆無が、日本の情報活動を阻害していたことである。日本では、陸軍大学校や航空将校養成学校にも、情報学級もなければ特殊な情報課程もなく、わずかに情報訓練も行なわれたこともあったが、それは戦術や戦史、通信課程の付随的なものに過ぎなかった。従って情報任務を与えられた将校たちは、戦塵の間に自分で新任務を会得する以外になかった」
■アメリカの実力を知らないまま戦争へ
日本は情報収集・解析システムについて、まったく何の考えもなかった。陸軍に限っていえば、参謀本部にはたしかに情報部があったが、ここではつねに「ドイツからの情報は正しい」「ソ連からの情報は誤り」という思いこみだけがあり、アメリカやイギリスの情報は開戦後でさえ軽視されてきた。
参謀本部の英米班長・大屋角造が戦後になって、参謀本部の情報はつねに対ソ戦に主力を置くものであり、それが対アメリカ重点に切りかえられて、本格的に情報収集を行うようになったのは、昭和18年後期からだったと述懐している。
つまりアメリカという国の実像など知らぬままに、そしてその国力も正確に理解せずに戦っていたのだ。ガダルカナルであれほどの消耗戦に入り、そのうえアメリカの海兵隊員の士気の高さや物量の豊富さに驚き、しかしそれを客観的に分析することなしに作戦計画は練られていた。
昭和18年に入っても、参謀本部作戦部には、ニューギニアやソロモン諸島の島々の正確な地図がなかったという。ガリ版刷りの素図をもとに戦闘命令がだされていた。これでは赤紙一枚で送られた日本軍の兵士は、まさに消耗品あつかいだったということになる。
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保阪 正康(ほさか・まさやす)
ノンフィクション作家
1939年北海道生まれ。同志社大学文学部卒業。編集者などを経てノンフィクション作家となる。近現代史の実証的研究をつづけ、これまで延べ4000人から証言を得ている。著書に『死なう団事件 軍国主義下のカルト教団』(角川文庫)、『令和を生きるための昭和史入門』(文春新書)、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)、『対立軸の昭和史 社会党はなぜ消滅したのか』(河出新書)などがある。
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(ノンフィクション作家 保阪 正康)